そんなことを時々思う。
自分の意思で決めているつもりでもそれは太古の昔からの進化と退化、積み重ねや取捨選択の末の結果論だとすれば、今この時を生きていることすら宇宙創世の時に既に決まっていたことになる。では宇宙創世は…?
否定を繰り返せばきりがない。否定の根源には「現状への不平や不満」があるだろう。
満足し納得していれば、否定する必要もない。
だから肯定することを試みる。
ただ、正しいというのには語弊があるのかもしれない。
そこに善悪の判断基準が介在するから。
すべてあるがまま。
何故なら宇宙創世があるがままだから。
確かに人類は多くの過ちを繰り返してきた。個人もまた失敗の末に経験を獲得する。宇宙の試行錯誤の中で生かされ、ホンの一瞬の幸福感を享受する。
ボクもまた大きな流れから逸脱することはできない。幸も不幸も逃れることはできない。そもそも幸か不幸かも人間の価値観であり、個人の基準だ。
撮影:2011/06/08 |
昨日に引き続きHDR合成した画像を少しいじってからネーム及び台詞回しを検討。
登場人物を追い詰めるような内容なので書くのが辛い。昨日思いついた設定を追加して、ひどいなぁ…辛いなぁと思いながらも書かなければできないというせめぎ合いだ。
こんなに辛くても書くべきなのかとまた疑問が生まれる。中止半端にはしたくない。なんとかハッピーエンドの方向はないだろうか。
…いや、この話はハッピーエンドではいけないのだ…と思い直す。
それでも何か救いはあるべきではないのか…と思案は続く。
たとえば神様だったらどう考えるだろう。個人の悩みや苦しみをどんな風に見ているだろう。そもそもそれらの苦悩は誰が何故与えたのだ。不足があっても不満があっても人は自分の人生から逃れることはできない。誰かに成り代わることはできない。
漫画の作品の中の一人か二人の登場人物の心境を想って頭を悩ませるくらいだからとても神様の代役を務められないことだけは確かだろう。
高校を卒業する頃、漫画家やイラストレーターなど描くことを仕事にしたいと考えていた。当時、道を見つけることはできず、表現すべきことも見当たらなかった。
だから長い時を経てやっと登山口に辿り着けたような心境なのだ。そして描くべきことはここまでの旅路の中にあったはずだ。
富士山の麓に生まれた人が富士山頂を目指すとは限らない。富士山から遠く離れた土地に生まれた人が富士山に憧れないとは限らない。
いつか駅のホームで電車を待ちながらこれから向かおうとしている方向から来て反対側のホームに降り立つ人のことを思った。その電車に乗ってこれから反対方向へ行く人もいる。もしかしたら交差しないすれ違いの人生を送る人たちも同じようにタイムカードを押して働いて残業もあったりする日々なのかもしれない。それでも反対方向からやってきたり出かけたりしているのだ。効率化を追求する社会が実は非効率の中で成立している。そんな生活の中で人は夢を見たり見なかったり一生懸命になったりならなかったりしながら生きている。
宇宙創世はあるがままだとすれば、人はなぜ生まれ死んでゆくのだろう。
それすらも理由などなくあるがままなのだろうか。
たとえ真理の欠片を見つけたところであの世に持ち去ることはできない。
人類文明発展の鍵になっているのは、人生に意味を求め、生きている間に何かを残したいという幻想だったりするのかもしれない。
腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:110回
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