2016年7月31日日曜日

定型

 晴れ。今日も暑い。

 人物を描いていると得意な角度がだんだん決まってくる。決めのポーズや決めの角度が決まってくることは悪いこととも言い切れないが、ワンパターンになったりマンネリ化してしまうことは避けたい。
 プロと呼ばれるような人は失敗しない方法を見極めているのではないだろうか。それは師から学んだ手法にあったのかもしれないし、経験の中で見つけたものかもしれない。時には失敗こそが気づきを与えてくれることもある。失敗しない方法と言っても体調や環境、あるいは取り組む対象とするものが毎回同じ内容ではないから気を緩めていいというものでもないだろう。緊張感を持って、できる限り最大限の完成度で仕上げるからこそ評価され意義を見出せるというものだ。
失敗しない環境を整えること。準備を怠らないことが失敗する可能性を払拭し、自ずと成功へと導いてくれる。

撮影:5010/08/01

 人物に限らず、絵を描くという行為には何かしら得意なパターンがあるのかもしれない。構図や色、コントラストやリズム…それが魅力となれば良いわけだ。
 もっともそんなに簡単なものではない。抜け出せないクセやどうしてもこだわってしまうことが作品を台無しにすることもあるだろう。そこを見極められるような目を養うことも忘れてはならない。

 もしかして進化そのものもそんな風に成し遂げられてきたのだろうか。


腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:108回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回
自転車走行距離:約13km





2016年7月30日土曜日

記憶

 晴れ。朝から暑い。体がついて行けてない感じで体調も芳しくない模様。ここ数日、あまり動いてないせいだろうか。昼には室温32℃になった。エアコンを使うと具合が悪くなるようなので躊躇する。ショッピングモールは混雑していることだろう。

 時折、覚えのない記憶にたどり着くことがある。

 大抵は夢の中なのだが、時代も立場も現在とは違っていて現在とは別にその存在としての記憶を持っている。何のスイッチもなく意識だけが入れ代わるのだ。
「あれ?この記憶って何?」
 そう自覚した途端、現在の記憶に引き戻され夢を見ていたのだと納得することになる。しかし、果たして本当にそうなのだろうか。

 もし、記憶は脳に付随するものであって意識だけが自由なものだとすれば、眠りについている間は時間も空間も超越することが可能なのではないか。或いは、目覚めている間ですら自由に行き来しているのではないか。非科学的な話かもしれないが、実際、科学には科学のルールがある。科学が万能でないとすれば、ルールの違う世界では通用しないことなのかもしれない。そしてそれは奇異なことではないのかもしれない。
 その記憶が現在のものであるとするなら何のためにある記憶だろう?少なくても日々の生活とは全く縁のないもののように感じられる。もっとも遠い昔の記憶が残っていたりするから意味などなくてもいいのかもしれない。

 記憶が脳内でどんな仕組みになっているのかわからないが、現在見ているわけでもないのに映像として思い浮かべられるわけだから大したものだ。時には匂いや味まで思い出すことができる。


撮影:2009/07/31


 少し前から描き進めていた鉛筆のカットを漫画仕立てにしてみた。ちょっと実験的な試み。鉛筆画は加筆も修正も容易なのでスキャニングしてデジタル化することでストップモーションのような作品となる。スキャニング後に原画が変更されることでデジタルデータがオリジナルデータということになるから不思議な気がする。しかもデジタルとなっても修正は可能だから方向性が枝葉のように増えて広がる。




腕立て伏せ
1回目:102回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月29日金曜日

突破

 晴れ。どうやら梅雨が明けたらしい。朝起きると涼しいような気がしたので室温を確認するとすでに29℃。間もなく30℃となりあっという間の31℃。常にじっとりとした汗をかいている感じ。夏だから暑いのは当然。それでも昨年よりいくらか楽のような気もする。

 日々何かしらの制作に取り組んでいると完成に至るまでの道のりは富士登山を思い出す。無理をしたら続かない。一歩ずつ一歩ずつ進む事が山頂にたどり着く最良の方法。
 そして完成はまるで想いの雫で器を満たすように。
 溢れそうになる前に止める。そこが完成。もう描けないと思う境界ギリギリのところ。
 ところが、時にはその境界を敢えて突破することで新たな器が見えてくる。完成はほんの一つのステップにすぎないことに気がつくのだ。


撮影:2006/07/30

 いつか漫画の基礎となるようにとデッサン教室に通っていた事がある。4年くらいは通っただろうか。その事が果たして基礎になったかどうか定かではないが、「美人画」を描いていきたいと思う事があった。古今東西「美人画」の名作が数多く発表され時代を超えている。現代はイラストや漫画といったジャンルにおいても「美人画」と呼べるような作品を見る事ができる。
 思うに「美人画」は石膏像のように人体の基本を捉え生命の存在としての美を讃えるものではないかと思う。基本的と考える美の基準。そこから個性や容姿を展開していくことは漫画のキャラクター設定の手法としても利用する。

 1年前、noteで募集された企画は美人画を描きたいという想いを刺激するには十分だった。早速デジタルで描こうとした。すると想いが空回りするばかりで完成形がイメージできない。そこではアナログに切り替えて…と出来れば良かったが、1年前のアナログの画力はまだ不安定で「美人画」として成立させられる自信がなかったのだ。

 果たしてこの一年でどれほど成長できたのかはわからない。
 完成というゴールにたどり着くための一つ一つの「描く」というハードルを越えることにためらいは少なくなったかもしれない。



 壁を突破するには、まず越えられそうなハードルに置き換えること。修練を積んでいくつものハードルを越えた時、いつのまにか壁を越えていることに気づくのかもしれない。

腕立て伏せ
1回目:102回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月28日木曜日

期待

 曇り。
 目覚める時は、風もないのにサワサワと涼風が吹いている感覚があった。起きてみると小窓は少し開いていたが、別室で風を感じるほどではないだろう。不思議だ。
 薄日が射しているようなので洗濯を始める。蝉の声が聴こえる。蒸し暑くなりそうだ。 



撮影:2006/07/29

 良くも悪くも若さには夢と希望がある。可能性や時間。手つかずの経歴。
 皮肉なことに当事者にはそれがわからない。それが当たり前であり、実力や才能や運に恵まれていると思うのではないだろうか。
 可能性もチャンスも実感がないものだったりするから他にもできることがあるのではないか、他にも実力を発揮できる環境があるのではないかと考えてしまいがちではないだろうか。それはあながち的外れでもないのだが、若さとセットになっているからこそ失敗や暴走が許されていることに気づくことができない。
 可能性のあるうちにチャンスを掴むことができれば、次の段階へ進む手かがりもあるだろう。ただ、どんな環境にあってもできることをやるしかないという原則がある。
 若さという特権は気がつかないうちに無くなってしまうだろう。若さを売りにできる時期を過ぎ、若さに羨望の眼差しを向けるようになって初めてそのことに気がつくのだ。

 若い頃の可能性は失われても年齢や世代、或いは時代や環境による可能性を見落とさないようにしたいものだ。
 何よりも期待すべきは今現在の自分とその可能性なのだから。


腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:108回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月27日水曜日

周到

 雨の音で目覚める。窓を閉め忘れて寝ていたらしい。窓を閉め、トイレに行って二度寝。気だるい目覚めだった。今日も暑くなるらしい。

 何事にも準備はつきものだ。
 今日の準備。明日の準備。来週の準備。来月の準備…
 先のことであればあるほど強い想いが必要になるかもしれない。そして失敗を重ねるほどに熟慮が重ねられ用意は周到になるのだろう。

 その日暮らしのような人生になったのはいつからだっただろう。
 目の前のことに取り組むことで精一杯だった。用意も準備も無駄になるのが嫌だったのだと思う。しかし、その日暮らしの日々を重ねてきた今思う。「用意しておけば良かったなぁ」と。いうまでもないが、仕事をするには様々な準備が必要だ。アシスタントや助手のような立場が多かったので仕事における用意や準備を欠かすことはできない。ところが、自分の人生の準備はというと何もできていなかったのではないだろうかと思うのだ。
 将来の姿がイメージできなかったのだから当然なのかもしれない。


撮影:2010/07/28

 今はどうだろう。
 用意や準備はできているだろうかと考える。
 漫画やイラストを中心に取り組むようになって2年が過ぎ去ろうとしている。下絵や下描きの類はそれなりに溜まってきてはいるが、それは技術的な向上のための訓練の成果であって作品のための準備とは少し意味が違う。
 短いスパンで作品を公開しようとすれば、充分な準備期間を確保できないので消耗戦のループに入ってしまいかねない。

 腰を据えて先を見通しつつ準備することが必要なのかもしれない。
 きっと用意や準備には夢や希望が詰まっている。


腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月26日火曜日

連係

 蒸し暑い夜が明けると雨だった。いくらか涼しいものの湿度は高め。

 制作には様々な工程がある。以前はデジタルで完結するようにしていたが、アナログで制作してデジタルデータ化するようになったこともあって工程が増えた。アイディアの発想から展開、下絵を描くにもキャラクターを練ったり背景を描いたりする必要がある。それをスキャニングして加工してイラレでコマ割りしながら画像とセリフを配置する…さらに公開するためのデータにしなくてはならない。他にも3Dソフトの利用なども考えれば、さらに多くの工程がある。
 これらの作業の連係が未だに上手くできていない。
 アイディアはアイディア、下絵は下絵と工程をブロック分けしてしまっているせいだろう。複数の人で手分けしている場合はそれでいいのかもしれない。問題は一人でやらなくてはならないということなのだ。


撮影:2012/07/27

 朝から雨ということもあって作画に専念することが可能だった。腕時計をストップウォッチにして時間の目安にしている。結構集中したつもりでも時間を確認してみると30分も経っていなかったりする。調子がいいとこれが逆転して大して描いていないつもりなのにあっという間に時間が過ぎている。時間の感覚が調子のバロメーターにもなるのだ。
 これまでの下絵や下描きを見て整理することが増えている気がする。それで目移りしてしまうのか焦点を絞りきれず時間ばかりが過ぎていく。

 今日はその中から下絵として描いていたもの一枚に注力。ペン入れして仕上げることも考えて描き込みすぎないようにしていたので躊躇いもありつつ意を決して加筆。描いているうちにそのまま鉛筆で仕上げる方針に変更。
 ペン入れをするなら漫画。鉛筆で仕上げるならイラストとして仕上げるのが良いのではないかと思っている。このままイラストとして描き込みの工程をしばらく続けることになりそうだ。

 夕方になって雨が上がったので買い物に外出。
 自転車で走りながら鉛筆でイラストとして仕上げたものを漫画として構成することだって面白いのではないかと思った。ただ、イラストとして仕上げた場合は独立した作品としても成立する必要があるので全体を描き込まなくてはならない。

 要は手間の問題なのだ。

 手間を惜しまずイラストとしての作品を成立させることができれば、長いストーリーを描くことは難しくても小編として世界観を提示することは可能かもしれない。企画の意図や作品の雰囲気などを考え合わせて臨機応変な連係を形成することが必要なのだ。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月25日月曜日

配分

 晴れ。蝉の声が響き渡り、いよいよ夏も本番だろうかと感じる。

 最近、無意識について考えきたが、意識について考える機会があった。
 かれこれ一年になろうかという毎日の腕立て伏せだが、ここしばらく不調が続いている。原因はなんだろういくら考えてもわからない。以前と変わらないやり方でやっているはずなのに持続力が落ちている気がする。トレーナーがいるわけではないからわからないながらもとりあえず続けてみるしかなかった。


撮影:2010/07/26


 数日前、力の使い方が間違っているのではないかとふと思った。
 これまで「一生懸命やる」ことしか考えていなかった。腕の筋肉だけでは100回をこなせないので腕の力だけではなく胸筋に力を分散することはしていたが、それだけでは100回をクリアできなくなっていた。
「もしかしたら力の入れ方ではなく力の抜き方が違っているのかも。」
 そこで全身に力が入らないように腕と胸筋に注力するようにしてみた。イメージとしては両腕と胸筋で形成されるアーチに全身の体重を乗せるように意識してみた。
 すると全身の力みが軽減され必要な筋肉が増強されているようだ。逆に言えば、全身で力むことで力が無駄に分散されていたのかもしれない。まだ以前の調子に戻ったわけではないが、少しずつ改善しているような手応えがある。

 そんな風に考えていたら、創作活動もまた同様なのかも知れないと思い至った。
 一生懸命取り組むことは当然であるとして、一定の力がついてくると全力で力むことで柔軟さや粘りを奪ってしまっている可能性がある。余計なところに力が入っていれば却ってブレーキになっているかも知れない。

 必要な力を効果的に発揮することが作品の出来栄えにもつながるのではないだろうか。



腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月24日日曜日

無駄

 晴れ。

 調子が悪いと思いつつ描き続けていると無駄なことを延々続けているような感覚に陥る。ところが、調子が良い時はそれが無駄ではないばかりか自分でも気がつかなかった意味を持っていることを見出したりすることがある。
 必要なことを無意識でやっていたというと不思議に思える。
 日常というものは変化のない繰り返しで構成されている。それが平穏ということなのだろう。故に大半は当たり前にこなしていることなのだ。あたり舞うにこなしていることをいちいち意識することは少ない。つまり毎日を平穏に過ごすための重要なことを無意識のうちに繰り返していることになる。

撮影:2006/07/25

 天候は落ち着いている様子なので自転車を出すことにした。
 特に目的があったわけではないが、無意識に任せて無駄なことをしてみる。
 進路は南に取った。それも特に意味があるわけではなくなんとなく風まかせ。ただ、リサイクルショップや電器店での情報収集が目的と言えば目的かもしれない。車なら大した距離ではない道も自転車だと随所に見所が見つかる。川を渡る橋の上で自転車を止めると強い東風が吹いていた。山を越えてくる風は涼やかで心地いい。

 リサイクル店に立ち寄って中古のMacをチェック。衣料品コーナーに良いサイズのジーンズがあったので試着してみたら予想外に長かった。調整すればいいとは言え無理して買うこともないだろうと思い断念した。それからMacの店、写真店、スーパー、電器店と回る頃にはそろそろ疲れてきた。

 来た道と違う道を帰ろうと思い走っていると軽自動車に1万円の貼り紙。どういうことかと思い入ったのは車屋さんだ。説明してくれるということなので話を聞いてみると車検代込みで月1万円のリースプランだった。軽自動車であっても新車購入で月1万円のローンを組むのはなかなか容易ではない。しかし、車検代込みで月1万円というプランはかなり踏み込んだ内容ではないだろうか。正直驚いた。自転車でも半径20kmくらいはカバーできるつもりでいるもののそれより遠いところへ出かけるのは容易ではない。
 ただ…保険の費用やガソリン代など雪だるま式に必要経費が嵩んでいく。ネット回線の費用で悩んでいるくらいなのだから車なんて…と思いつつ、そんな風に次へのステップのための手がかりを見つけることも思いがけず役に立つことがあるのだ。

 必要な無駄…というものがあるのだろう。
 

腕立て伏せ
1回目:90回(?)
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回
自転車走行距離:約30.4km

2016年7月23日土曜日

才脈

 晴れ。涼しい朝。

 金を採取する時は、川の流れの中の砂を篩(ふるい)にかけて砂金を採取するのだという。偶然金塊に遭遇することなどまずないし、金の鉱脈が見つかって採掘する権利も技術もあれば良いが、そんなことだって滅多にないだろう。
 自分の才能はどうなのだろう。もちろんボク自身も自分の無能さにガッカリすることがある。けれど、自分の才能だったら採掘する権利は自分にあるはずだ。あとは技術。まずは掘ってみなくちゃわからないわけである。

 どうしても見つからなければ、砂金のような欠片だっていい。篩にかけて集めてみたら結構な大きさになるかもしれない。
 金脈・鉱脈・人脈…才能なら才脈。
 まずは才脈を探すことから始めることが必要だろう。

 作品を制作する上で圧倒的に技術が足りないことを痛感する。
 描きたいものがあったはずなのに掘り続けることができない。重機を使うべきところを手彫りしているせいかもしれない。作品のスケールが大きければ大きいほどそういうことに陥る。


撮影:2010/07/24

 以前、油彩の風景画で山を描こうとした時、これから描こうとする山に登ったことがないことが気になった。その山を描こうとすたるための動機や思い入れが希薄のような気がしたのだ。そのため麓で山菜採りに親しんだりしつつ2度ほど登山に挑戦した。標高もそれほど高くはないし遠目から見るとなだらかで穏やかな表情をしていた山は思っていた以上に険しく厳しい山だった。結局、2度とも登頂することはできなかった。そして膝を痛めたために山登りそのものが困難になってしまった。絵は未だに完成していないけれど、再びキャンバスに向かう日には、登頂できなかった悔しさや山頂への憧れ、そして麓に広がる豊かな自然に想いを馳せつつ絵筆を握ることになるだろう。

 漫画を描いていて描けなくなるのはまだ想い入れが足りないのかもしれない。
 1コマごとが新しい挑戦であるのに知らないことが多すぎるのだ。憧れの山に挑戦したように一つずつのエピソードや作画を紐解いて想い入れを確かめながら制作することが必要なのかもしれないと思った。


腕立て伏せ
1回目:85回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月22日金曜日

氷山

 晴れ。今朝方まで作品に取り組んでいたので起きたのは昼前だったろうか。寝る前は少し寒いくらいの涼しさだった。夜明けの足音は野鳥の鳴く声だったりする。

 意識は氷山の一角であり水面下には巨大な無意識が隠れているという。
 それは創作活動についても同じなのかもしれない。たくさんの失敗や下絵や発表しない作品が、公開されるほんの一部の作品を支えるのだ。
 そう考えたら自分の描いている作品は圧倒的に数が足りないと感じた。行き詰まるのは当たり前だったのだ。この2年ほどで結構描いたつもりでいた。それが間違いの元なのだ。1つの作品のために99の習作が必要なのだとしたら、今の100倍の努力が必要だということになる。もはや描くしかないだろう。その覚悟のための2年だったのだろうか。


撮影:2010/07/23

 深夜モードで朝まで制作していたので大いに調子が狂っていた。当然だろう。気だるい身体で自転車を出す。青い空と雲。少しばかり風がある。ふらりふらりと近所を回る。涼しいので少し遠出したい気分にもなるが、今日の調子では後が大変だ。
 書店に入って書棚の本に目が止まる。「詩とファンタジー」だ。以前、やなせたかしさんが編集長の「詩とメルヘン」という雑誌があった。その雑誌の出版社が変わり名前も変わった。実はメルヘンという言葉の響きが好きだった。
 イラストを描いて何度か投稿したことがあった。パステルで描いた絵を送ったら返送されてきた絵は物の見事にパステルが飛んでしまっていた。確か紙面がスポンジのようになっていてパステルが定着しやすいようになっている珍しい紙だった。しかし、郵送には向いていなかったのだ。
 今は名前が変わってしまった「詩とファンタジー」を手にとってみると小田和正さんの特集が組まれていた。小田和正さんの曲にもずっと励まされ支えられてきた。

 時は流れ、形を変える。

 書店を出ると風で自転車が倒れていた。

 帰宅して少しすると何度か睡魔に襲われた。眠いから少し寝ようと思ったら既に寝ていた。寝ていたことすら忘れていたのだ。少しリズムを戻したほうがいいだろう。

 ボクの意識が氷山の一角ならこれまでの経験は無意識の海の中に沈んで見ることができないほど大きい。
 小編でも心に残る作品を描いていきたい。





腕立て伏せ
1回目:85回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月21日木曜日

相性

 晴れのち曇り。

 出会いも別れも運と努力次第であるということを否定するわけではない。
 しかし、その結果の相性はあらかじめ決まっていても不思議ではないのかもしれないと思える節がある。あらかじめ相性のパターンが決まっていてどんなにコミュニティを移動してもうまくいく組み合わせとそうでない組み合わせが存在するということだ。出会いの絶対数が多ければ、確率論的に相性の良い人と出会う可能性が高いことになるが、1/100ではなく99/100を考えてみたい。

 例えば、職場の人間関係に悩んで転職したとする。環境が変われば人間関係にも変化がある。しかし、どういう人で構成されているかわからないのでこれまでの自分とは違うキャラクターを演じたところで意味がない、そこで様子を見ながら馴染む努力をすることになるだろう。ここで周囲が不動のものと考えるのは不自然ではないだろうか。おそらく気がつかない間に新しい仲間の受け入れ態勢が形成されていく。もしこのプロセスがどんな集団や組織でも同じだったとしたら、どこへ移動したところで悩みはつきまとうことになるだろう。何故なら受け入れ態勢は新しく加わった仲間の行動に対応して形成されるからだ。
 これは確率的に見ようとしていることであって実際の統計をとったわけでもなく証拠があるわけでもない。実際には居心地の良いところやそうでないところはあるように思うのでメンバー構成によって当たり外れはあるのかもしれない。ただ、文字通り占いや賭けのようなことになりかねないのだ。
 SNS等でも同様のことが言えるだろうか。コミュニケーションが必要な局面では同じような役割になってしまうことが多いような気がする。

 99/100との関係性を構築するためにどうすれば良いのか。もしかするとその鍵を握っているのが1/100なのかもしれない。
仮に運命の1/100の人と出会ったところで現実問題として二人きりで生きていくことはできない。つまり99/100の人間関係が必要であるはずなのだ。


撮影:2010/07/22

 朝はなかなか食欲が出なかったが、昼過ぎて急激に空腹になったのでざるそばを大盛りにして食べた。その後また空腹感に襲われたが、カレーを作ろうと思っていたので調理を始めるとなんとなく忘れてしまった。
 夕方になって買い物に出る。キノコ類を買おうと思っていたのに手に取ってみてから何となく先延ばしにすることにした。
 帰宅して夕食は鶏カボチャカレー。時々食べるカボチャの種も美味しい気がするので種も洗って乾燥させている。


 大きなまとまりのある作品を描こうとしてつまずくので、少しずつ紐解く感じで小編をたくさん描くべきではないかと思うようになっている。そこで作品にしようと思いつつお蔵入りになりかけていたカットに加筆して断片漫画にしてみた。少年時代の思い出は次第に遠ざかり色褪せていく。ただ懐かしいだけではない現在とのつながりについても意識したい。




腕立て伏せ
1回目:85回
2回目:108回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月20日水曜日

背景

 晴れ。

「どうしてこんなことわかるんだろう」と自分で驚くことがある。
 子供の頃に好きで見ていた図鑑に載っていただろうか。それともたくさん読んだ本の中に書いてあったろうか。記憶を辿るでもない。不意に浮かんでくる感じはアイディアが浮かぶ時と似ている。
 おそらくはこれまでの経験や知識が背景にあって条件反射的に結論を導き出しているのだろうと思う。少なくても知るはずのないことを発想するほどの超常的な能力は持ち合わせていないと思うからだ。そう、きっと無意識の仕業なのだ。今の所は限定的な反応であり受動的である。能動的で積極的な反応に結びつけるためには、まだいくつかの段階が必要なのかもしれない。


撮影:2008/07/21

 イラストや漫画を描こうとして頭の中のイメージを探る時、意図したイメージとは違うものは否定しているのではないだろうか。何かテーマを設けている時などはその傾向が強くなるだろう。否定を繰り返すことでより意図に近いイメージを選択しているとはいえ、否定ばかりを続けることで無意識が疲労したり消耗したりすることはないだろうか。無意識とはいえ、自らの一部なのだから成功体験もなく否定され続けたらやる気がなくなるのも当然ではないかと思う。それでは無意識に人格を与えてみたらどうだろう。その無意識にペンネームをつけるのもいいかも知れない。
「あとはお願いしますね〜。」
 そう言って無意識の人格にバトンを渡す。あとはアシスタントとして無意識先生をサポートするのだ。おそらくこれまでないがしろにされ続けてきた無意識先生は最初戸惑うに違いない。
「いやいや、私がサポートでしょ。」
 そう言って遠慮するかも知れない。何しろボクという存在に関してハンドルを握ることに慣れていないのだ。しかし、これまでだって二人羽織りのように背後からコントロールしてきてくれたわけだから出来ないことじゃないはずなのだ。むしろボクという意識より無意識先生の方が安全運転できるかも知れない。
 考えてみれば、楽器を演奏する際に意識的に譜面の音符を確認しながら手足バラバラな動きができるだろうか。無意識に近い状態で演奏できるよう繰り返し練習するからこそ正確で表情豊かに演奏できるのではないだろうか。日常生活においても随所でそんな場面があるだろう。つまり無意識先生は不安定で頼りない存在ではなく訓練次第でとても正確で頼り甲斐のある存在であることがわかる。
 無意識先生は、長い間繰り返し地道に努力をした人が味方につけることのできる頼もしい存在なのだろう。


 昨日の作品はまた夏休みの少年のイメージ。釣りをしている状況の会話を切り取ってみた。彼が誰と話しているのか想像力を働かせてもらえると嬉しい。





腕立て伏せ
1回目:76回
2回目:102回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回




2016年7月19日火曜日

所作

 曇りのち晴れ。
 何の加減か腕立て伏せがまた調子悪い。

 物をぶつけたり落としたり小さな失敗は所作が荒いせいではないかと考えてみる。
 何事にもスピードが求められる時代。早いことが善とされ遅いことは悪とみなされがちである。問題は、動作が機敏なだけではダメで正確さや丁寧さが必要だということだろう。そもそも大雑把なのだからアクセルを踏み込むだけでは事故ばかり起こすことになる。
 何か行動をする場合には準備が必要なように何か所作の前には予備動作がある。その予備動作への配慮が足りないと失敗につながるのではないかと考えてみる。
 ゆっくりとした運動や舞踊に美を感じるのは神経が身体の端まで行き届いているからであるなら予備動作にもまた配慮があって然るべきだろう。
 何かを持つ時は一度動作を止めて意識が集中するのを待ってみる。次の動作に移る前にイメージをシュミレーションしてみる。そういうことを心がけることで無意識とのシンクロ率が高くなることはないだろうか。
 何度も書いていることだが、成長することはそんな簡単ではない。じっくりと時間をかけることが必要だ。中には一を聞いて十を知るようなセンスの持ち主もいるが、人生は一人に一回。なんでもできる必要はない。



撮影:2011/07/20

 外出する用があったのでついでに買い物と運動不足解消のために自転車を走らせた。雲は多いものの真っ青な空が見える。風があって気持ち良かった。いつものように思いを巡らせていると珍しくポジティブな結論にたどり着いた。

 昨日は下絵の中から1枚ピックアップして公開することにした。下絵と言ってもペン入れまではしてあったのでスキャニングしてデジタルデータとして彩色工程となる。公開しない時間があまり長くなるとそれが当たり前になってしまう可能性もある。それを避けたいという想いもあった。
 いくらかセリフが説教じみていたかもしれない。カブトムシの売買に限らず、誰しもが「あんな大人にはなるまい」と思った経験があるのではないかと思う。そんな遠い記憶にアクセスできれば何かのきっかけになるのではないだろうか。




腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:96回
3回目:100回!(調子悪!)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月18日月曜日

古来

 曇り。夏だけに気温は上昇傾向にあるが、セミがまだおとなしいようだ。

 すっきりしない感覚ながらできるだけ机に向かう。外出もしなかった。
 外出しないと脳への刺激が足りないようでなかなかテンションが上がらない。これまで描いていた下絵に加筆したりしていた。下絵に加筆しても下絵は下絵なので一向に仕上がらない。

 川の流れの中で同じところをクルクルと回る落ち葉のような感覚。

 今に始まった事ではない。先へ進みたいという想いはあっても進めないのは、何か条件が足りないのだろう。
 何度も転職や引越しを経験してきた。環境を変えることで流れを変えようとしてきたのかもしれない。しかし、それが根本的な解決にならなかったのは、ボク自身の勢いが足りなかったり舵取りの技術が未熟だったせいなのかもしれない。もしかすると勢いを失ったからこそ渦の回転に迷い込んでしまったのかもしれない。
…とすれば、舵取りをしっかりしつつ勢いを取り戻すことが必要だということだ。

撮影:2011/07/19

 もしかしたら人類もまた同じなのかもしれないと言う考えが浮かんだ。技術と文化は寄り添いあいながらも発展してきたかもしれない。成長と呼ぶこともある。それを文明というものなのだろう。人も心の成長はあるのだろうかと考える。大きな流れとから少し離れて同じところをクルクルと回転してはいないだろうか。

 以前、博物館で縄文式土器を観たことがある。レプリカだったかどうか記憶が曖昧だが、強い印象が残った。果たして現代人は縄文人より人として優れていると言えるだろえか。

 ガガイモは古事記にも登場するという日本の在来植物だそうだ。近所では道路端や田んぼの畦、自動車専用道路沿い、川の堤防と至る所で見ることができる。雑草扱いされているせいか漢方薬にも使われているという割にはあまり知られていない。

 昔の人も同じようにガガイモの花を見ていたのかと思うと不思議だ。その視線や感情に優劣はあるのだろうか。表現に優劣はあるのだろうか。


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:100回(ギリギリ!)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月17日日曜日

信号

 朝から雨が降っていた。
 アイディアが降りてきたので想像力で膨らましてみる。落語のやりとりのようになったのでMacを起動して描き留める。骨子が見えてくると欲が出るのだろうか。最初のアイディアはまるで小さな種だったのにちょっとした苗木程度のスケールになる。ネームを起こして枝葉をつければ小編くらいになるだろうか。

 雨が上がったので自転車を走らせる。環境が変わると違った見方が出来る気がする。走りながらアイディアを再検討。アイディアは面白いだろうか。独りよがりではないだろうか。いえ、大なり小なり独りよがりは必要なのかもしれない。自分が面白くないものでウケを狙う意味がない。


撮影:2009/07/18

 ふと思う。本当は時間なんて流れていないのではないのだろうか。
 そもそも時の流れというのは人間に都合の良い概念に過ぎなくて、本当はただひたすら現在があるのではないか。鏡を見ながらそんなことを考えた。子供の頃から見慣れたはずの自分の顔さえ時間の経過とともに変化している。そう思っていた。けれど、本当にそうなのか。人間以外の生物たちは時の概念などなくたって季節の動きを感じ、芽吹き、成長して花を咲かせる。そしてやがて実を結ぶのだ。
 時間の概念があるからこそ人間は年齢を意識し長寿を願う。
 けれど、本当は闇の中を漂う蛍の光のように生命は輝いたり消えたりと明滅しているのではないだろうか。

 そんな明滅の中で作品を残すことにどんな意味があるのだろう。
 シグナルはどこかの誰かに届くのだろうか。


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:108回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月16日土曜日

動機

 晴れ。雲は多いようだった。
 朝から無気力というか虚脱感に支配されていたのは気温の上昇のせいだろうか。それとも土曜日だからだろうか。頭の中が空っぽでやる気が出ない。少しうたた寝したのかもしれない。起きるなり外出したんだったかもしれない。それも記憶が曖昧だ。食べきるまでもう少しかかると思っていたネギを使ったため在庫が心細くなった。ネギがなくなるとあちこちの店を探し回ることになるので手に入るときに買っておきたい。昨日、買い物に出た際に産直の店にあるのを確認していたので買っておけばよかったと後悔する。しかし、確認済みなのだから買いに行けばいいのだ。ちょっと遠いだけのこと。

撮影:2010/07/17

 既に夕方になっていたので急いで自転車を走らせる。途中、通りかかったスーパーをチェックしてみると一束198円。昨日の産直の店では一束140円の物があったはずと思って再び自転車を走らせる。
 産直の店に着くとネギの種類や生産者によって価格が違う。昨日良いと思ったサイズのものはとうに無くなっているようだったが、別の品物が並んでいる様子。少し悩んで一束120円のものにした。そのまま一旦帰宅。ネギを背負っていたのでそれ以上の寄り道ができなかったのだ。帰宅してから最寄りのスーパーに出かけ安売りになっているものをチェック。
 夕食は定番のカレー。

 そんなことを日々繰り返して何になるのだろう。一体何のために毎日生きているのだろう…と思わなくもない。
 何か大切なものを見失っていないだろうか。


腕立て伏せ
1回目:96回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月15日金曜日

伝授

 晴れ。起きるのが遅いのですでに気温は上がっていた。
 例によって運動不足解消のため外出。買い物があったはずなのに自転車を走らせているうちに何だったか忘れてしまった。パソコンで文章を書いているせいか、文字の忘れ方もひどい。漢字ばかりではなくひらがなも怪しいのではないかと漫画のネームを描きながら感じることがある。走り描きだからなおさらだろう。
「そうだ、マスタードを切らすところだった。」と思い出す。
 記憶は生きるために必要だ。記憶を失うことは何を意味するのだろう。


撮影:2010/07/16

 いつものコースをいつものように巡って走る。すると漫画のアイディアが浮かんだ。そのアイディアについて考えているとどうにもネガティブのような気がする。ハッピーでない漫画にしてしまうことは避けたい。しかし、浮かぶアイディアはどうもネガティブになりがちだ。仮にネガティブな描き出しであっても苦悩を打破するような展開が用意できればばいいわけだから上手くひっくり返すことができるのならネガティブ発進の方がいいのかもしれない。
 そんなアイディアがあるなら現実の人生でも迷ったりしないだろう…と考えてまたネガティブになった。

 産直の店ではスイカが出始めている。試食が出ているので食べてみると懐かしい味がする。少し甘みは足りないように感じたのはまだ出始めだからだろうか。
 生まれ故郷のスイカは子供の頃に食べたスイカと品種が違うはずなのに懐かしい気がするのは不思議だ。どうやらその食感を「シャリ感」と称しているようだ。口の中に入れた瞬間はしっかりした印象なのに噛んでみると一瞬の歯ごたえの後で口の中に瑞々しい果汁が溢れだす。上手い例えが浮かばないが、雪を踏みしめる時の感覚に似ているかもしれない。品種が変わろうともその感覚を追求していることが嬉しい。大切にしたい感覚を引き継いでいるのだ。

 作品だってそうではないだろうか。技術を駆使して表現したいものは言葉にならないような感覚なのだ。
 スイカを絵に描くとすれば、緑色に黒い雷のような縞模様で果肉が赤く黒い種が並んでいる絵になるだろう。けれど、本当に伝えたいのは食感であり味であり風味だとすれば作品の意味も変わってくるのではないかと思う。


腕立て伏せ
1回目:95回
2回目:108回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月14日木曜日

基盤

 雨。2日近くかかってやっと読み込んだメールのデータがほんの数秒で消失するという謎の現象に遭遇。しばし呆然とする。
 若干やけ気味に色々調べているとただ不可視になっているだけの様子なので別の方法を試しているうちに唐突に認識したので意味がわからない。それでもまた時間をかけるよりいいだろうと思い続行するとまた消えた。そこからはもうどういう手順をとったのか自分でもわからない。多分どれかのファイルのリストがきちんとリンクされていないのだろうと推測はできてもどのファイルだかわからないのだ。
 どうやらメールボックスを管理していると思しきフォルダが見つかったのでまだ読み込んでいなかったメールボックスを放り込んでみる。するとフォルダは認識しても肝心の内容は読み込まれていない様子。そこで一か八かそれらしきファイルの入ったフォルダをそっくり移動してみた。そしてメールソフトを再起動すると再度読み込みが開始された。前回の正規の方法と違って読み込み時間が表示される。しかもメモリの使用状況も我慢できる程度。
 裏技だけに他のトラブルの心配がある。同じことをやって欲しいと言われても自信もない。ただ、正規の方法で深い階層が無視されてしまう場合があるのに今回の方法だときちんと読み込まれている様子。さっぱり意味がわからない。要するにメールが読み込まれるならよしとしよう。


撮影:2009/07/15

 雨模様だったこともあり今日は外に出なかった。机に向かって鉛筆を走らせたり以前描いたカットに目を通したりしていた。毎度のことながら以前のカットを見ると恥ずかしいような申し訳ないような複雑な心境になる。例えば2年前のボクが描いたカットを得意気に見せに来たら叱りとばすか鼻で笑うかしてしまうかもしれない。けれど、ボクはそういう扱いを受けなかった。フォロワーさんや周囲の方の懐が深かったのではないかと思う。少なくても2年続けられるように温かく見守っていただいていたことに感謝するしかない。
 反省しつつ、新しいカットを描いていると中身が伴っていないことに思いが至る。
 漫画のカットやイラストを描いたり浮かんだアイディアを組み立てて設定を考えるのは次へのステップにもなるのでそれでいいとしても所詮小手先のことになっていないだろうか。それは予てより気になっていることである。いや、小手先と思われたところでそれを貫けるならそれでもいいだろう。問題は、ボク自身が満足できるかどうかということなのだ。描いていて飽きてしまうようではやはり長続きさせることは難しいだろう。絵の技術力がどうあれ「何を描きたいのか」「何を伝えたいのか」が欠落していることは、目的もなく荒野を歩くようなものではないだろうか。
 画力が伴っていないと思い保留にしている作品にはそれがあったはずだと見直してみる。ところが、時間の経過のお陰で「想い」が希薄になってしまっている。
 写真を撮る時に撮影する技術が伴っていないことにショックを受け慌てて技術を身につけたとしても同じ感動には二度とめぐり合えない。
 描く前に思い出すエネルギーが必要になっているのだ。

 なんだか勝手に反省してはリセットして少しも成長できていなす気がする。

 描いている作品や設定を進めている作品の基盤は子供の頃の夢想だったものもある。当時はもっと面白くて素晴らしいものが描けると思っていたし描こうと思っていた。よもや子供時代の捉えどころのないホンの思いつきのアイディアにしがみつくことになろうとは思いもしなかった。


腕立て伏せ
1回目:75回
2回目:101回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月13日水曜日

知能

 朝は晴れていたはずだが、一転して雨。一時的に大降りとなった。
 昨日から古いメールデータの読み込み作業をしている。全部一気にやるには無理があるようなので分割して処理しているにもかかわらず一晩たっても終わらないばかりか丸一日かかってもまだ終わっていない。メールデータの読み込み作業にMacのメモリがほぼ占有された状態になってしまうので他のことができない。それでもやらなくてはならないことがあるので仕方なく作業してみると日本語入力プログラムが一々バグってくれるのでたった一文字を文字変換して入力するために何度もやり直すのでいつまで経っても終わらない始末。どうやら使用するソフトによっても調子が違うようだ。
 スペックが充分ではないのにOSをバージョンアップしたのがいけないとは言え、メールの読み込み程度でここまでパワーを必要とするのか理解に苦しむ。読み込まれたデータを確認してみるとメールボックスの階層がやたらに増えていた。読み込んだ後の作業がまた必要になりそうだ。


撮影:2006/07/14

 Macは出来るだけ触らないようにして朝から机に向かう。なかなか調子が乗って来ないので取り敢えず描き続ける努力をしてみたものの継続できない。また調子の波が谷間になっているのだろうか。

 米の研ぎ汁に砂糖と塩を少し加え乳酸菌発酵させることに興味を持ったのは一週間くらい前だったろうか。比較的順調なのかペットボトルが膨張しているので空気を抜いてみると良い香りがした。試しに味をみてみると爽やかな酸味。砂糖と塩がちょうど良い量だったのか米の研ぎ汁が原料とは思えない味だった。そこで小麦粉に混ぜて焼いてみることにする。強力粉を買おうと思っていたのに忘れていたので薄力粉を使う。砂糖を加えて少し練って寝かせてみたものの膨らむ様子はわからない。そこで重曹を加えて焼いてしまおうと考えた。パンのイメージがあったので丸めた状態で小さめの中華鍋で焼いてみる作戦。もともと酸味のある状態なので重曹を加えると発泡するはずだ思ったのだ。幾らか膨らんだかなと思っていたらあっさり焦げた。砂糖を入れたことも原因だと思うが、そもそも大きすぎたらしい。これ以上焼いても炭になるだけだと思い鍋から出してみると中がまだ生である。面倒くさくなったので電子レンジで加熱。出来上がったものは外はカチカチで中はゴムのような食感となっていた。甘くもなく酸っぱくもない得体の知れないものである。もったいないのでコーヒーで胃に流し込みながらピザのように生地を薄く伸ばせば良かっただろうかとも思った。

 最近、人工知能やビッグデータが話題になる。
 いずれ芸術の分野にも進出し人間を超えるのではないかという話もある。芸術は過去の作品や経験が元になっているから人工知能にも可能ではないかということだ。
 例えば、料理のようなものであれば、分け隔てなく素材や調味料を使うことで人間には思いもつかない創作料理を考案することは可能かもしれない。ただ、料理に注ぐ想いはないだろう。それすらもインプット可能になるのだろうか。
 少なくても外はカチカチ中はゴムのような食感の得体の知れないものは作らないかもしれない。

 難しいことを考えていたせいか、なんだか面白くて可笑しくてバカバカしい漫画が描いてみたい気がした。その動機となるものは人工知能にも搭載されるのだろうか。
…メールデータの移行くらいは難なくこなしい欲しい。

 雨が上がったようなので先に買い物を済ませようとするとまだ小雨がパラついていた。大降りにならないと見越して自転車を出した。



腕立て伏せ
1回目:75回
2回目:101回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月12日火曜日

旧知

 晴れ。
 昨日の疲れがいくらか残っているようだった。いつものように簡単な体操をしながら身体をほぐし、腕立て伏せに取り掛かる。調子がいい時は100回2セットできたはずなのに今は1セットが精一杯。1回目は無理しない程度にと考え方を変えたせいもあるだろう。それにしても体調次第では1セット目から100回こなしたいとは思っている。

 昨日の長距離走行に味をしめたわけでもないのだが、買い物もあったので外出した。 

撮影:2011/07/13

 近所のショッピングモールは売り出しのせいもあってか人出が多い。大きな空間なのに冷房も効いているので涼しく過ごせる。歩きながら溢れる商品に興味を持っていないことに気がつく。どれを手に取っても価格が予想の3倍以上なのだ。生活レベルが合っていないせいなのだろう。実際、1/3程度の価格で買い物をしているのでこのギャップを埋められないのだ。書店で手に取った書籍の価格は近い価格を予想できるのに衣料品となるとまるで予想が立たない。興味を持たないからアイディアに詰まるのではないだろうかと思い、通りがかりのアクセサリーコーナーで意味もなく立ち止まってみる。怪しいかもしれない。時間を計りながら歩いたら大体30分程度だった。

 それから目的のスーパーで買い物。食事スペースでぼんやりしていると見覚えのある姿が目に入った。元気そうなのでとりあえず安心する。少し遠いところにいたので声をかけることもしなかった。小さな町なのでたまには知り合いに出会うこともあるものの生まれ育った町ではないので限定的なのだ。ボクもこんな風に誰か知り合いの視界に入っていることがあるのだろうかと考える。

 スーパーを出ていつものように産直の店などをまわってリユースショップに立ち寄った。タブレット端末の様子を見たかったのだ。偶然とは重なるもので店の入り口でまた別の知り合いに遭遇した。ずいぶん前に同じ職場で働いていた人でどういうわけか出先で時々遭遇する。知り合いの少ない町でそんなに多くの人と出会うわけでもないのに繰り返し行き合うので不思議な感じがする。生まれが近所で年齢も近いこともあって人生の鏡像のようなイメージを感じることもある。
 いつものように近況報告をし合う。以前話した時は働きながら頑張って勉強して資格を取得したと喜んでいたはずだ。ところが、資格を持って飛び込んだ業界は酷い有様だったという。申し訳ないと思いつつ資格取得に関しては懐疑的な印象を持っていた。資格が取得できれば幸せが待っているような錯覚は資格取得のための広告イメージだろうか。結局、彼は転職したということで同じ職場で働かないかと誘われた。

 もし、漫画を描いていなかったらどうだったろう。きっと今とは違う人生観を持っていただろう。どちらが幸せとか優劣をつけることでもない。ただ、お互いがお互いの人生を生きる他ないのだ。


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月11日月曜日

方策

 晴れ。
 起きるなり置き薬屋さんが来て寝ぼけながらに対応。失礼はなかっただろうか。いや、失礼でしかなかった気がする。
 天候は比較的落ち着いているようなので意を決して長距離を走ることにした。向かい風がいささか辛いものの天気が良いので気持ちがいい。北寄りの風のせいか涼しくさえ感じた。

 不思議なもので自転車で走っているとアイディアが浮かびやすい気がする。思いついたことを考えながら走っているとすぐにでも引き返して漫画を描きたい衝動に駆られる。その頃には既に結構走ってしまっているから引き返すのももったいない。そういう時は道路脇に自転車を止めて自宅宛にアイディアをメールする。こういう時にノートパソコンやタブレット端末なら少し長めに書くことにも便利なのかもしれない。いやむしろ自転車で走っては良き所に止まって執筆するということを繰り返した方が自宅で悶々とするより効率が良かったりするだろうか。
 いや…多分そうではないのだろうと思い直す。
 いつもと違ったシチュエーションだから良いのであってそれが当たり前になってしまえば元の木阿弥だろう。
 それにしても一週間に一回くらいはこういう機会を持った方がいいのかもしれない。

撮影:2008/07/12

 目的に着くと草が生い茂っていた。一ヶ月に一回くらいのペースで草刈りをすれば毎回大変なことにはならないとは思っている。6月は天候のこともあり7月に入ってもなかなか出かけられなかった。それでも6月の始め頃に一度は出かけていたような気がする。草ばかりではなく竹もかなり伸びていた。コンビニで買ったおにぎりを麦茶で胃に流し込み簡単に草刈りをする。出かけるのが遅いかったから…毎度そんな風に言い訳している気がする。
 あちこちを蚊に刺されたものの思ったほどではなかった。繁茂する植物の中にはアマガエルやシュレーゲルアオガエルの姿が見えたから餌には困らないのではないかと思う。

 平日なので帰ってやらなくてはならないことがあるため早々に引き上げることにした。幾らかでも手入れの跡が見られれば面目は立つのではないだろうか。旬を過ぎたフキの茎を何本か採取して手土産にした。

 田舎暮らしは大変だからと都会へ出て行くのはいいけれど、それまで住んでいた先祖代々の土地を手放すこともできず維持し続けるのは容易ではないだろう。だからといって気休め程度に管理しているつもりになったところで何も解決にはならない。そんな人が結構いるという話も聞いている。解決策もないままただ時を過ごすしかないのが現実なのだ。

 建設中の自動車道を眺めながら変わっていく故郷の景色に想いを馳せる。
 この季節の田畑は緑の絨毯の様相を呈する。風が渡り雲の影が大地を撫でていく様子は得難い景観なのだ。変わってしまうのであれば、故郷の風景に執着した意味もまた見失ってしまうのかもしれない。むろんそれすら人生が続く間だけの幻影のようなものだろうか。


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回
自転車走行距離:約40km

2016年7月10日日曜日

障壁

 薄曇り。外出には良い気候。ただし、大いに寝坊。昨夜なかなか寝つけなかったためだ。
 買い物に出てちょっと遠出してもいいかなと考えたが、どうにも気分が乗っていない。風が少し強かったせいだろうか。結局普段あまり入らないスーパーに入って何も買わずに店を出た。そこからUターンして近所のスーパーに立ち寄るとキャベツが安くなっていたので購入。Uターンの理由はまさかこれを予感したからではないだろう。

撮影:2014/07/11

 帰宅して漫画の制作。
 ずいぶん前にアイディアを思いついたのに保留にしていた作品を1ページにまとめてみた。当時は思うように描けなかったのだ。それはまるで大きな障壁のようになかなか超えることができなかった。久しぶりにした絵を見るといつの間にかその障壁が消え去っているような感覚に気がついた。そこで今回は大丈夫だろうと制作に取りかかってみると予想に反してヒヨコで苦戦した。たった二羽しか描かなかったが、もう一コマ追加してヒヨコをわんさか描いた方が面白く仕上がったかもしれない。
 昨日作画してあったのでスキャニングしてイラレで構成が作業の中心。スキャニングした画像は結構汚れていたりするので線画だけを抽出する。ペン入れしてあるので仕上がりがすっきりする。ちょっとシュールな感じで仕上げたいと思ったが、色数を絞ってシンプルにしようとした結果、おとなしい雰囲気になってしまっただろうか。



 成長の段階を意識して次のステージをイメージすることがある。その時「ステージ=舞台」という図式で考えていないだろうか。様々なSNSや投稿サービスが出揃い、それぞれに特色や傾向がある。故に何をどうしたいかということを基準に試して確かめてみることが大切だと考える。しかし、そうしてできたフォロワーさんやファンの方の心情はいかなるものだろう。クリエイターが様々なサービスに登録して情報発信をしていることを知れば片っ端から登録するだろうか。それほど熱心なファンがいればまた幸せなことではあるが、これはクリエイターが意識せずとも無償で各サービスの集客に貢献していることになる。一方、クリエイターがどこで発信しようともすべてのサービスをチェックすることの可能な人はどれくらいいるだろう。そう考えると様々なサービスに登録しつつもいずれ軸足を決めることが大切なのではないかとも思う。

 以前なら作品を発表する場が限られていた。かかる費用も相当なものだったから個展や自費出版には相当な勇気が必要だった。コンクールなどの賞をねらってみても結局ほんの一握りの作家にしか活動の場が与えられない。パソコンやインターネット接続費用などの経費がかかっていることは無視できないにしても今や誰でもが参加可能なところまでハードルは下がっているのではないだろうか。
 他に必要なものは何かと言えば成長のための努力だろう。そのための相当な時間も必要だ。
 そもそも次のステージとは各種の外的な舞台を意味するのではなく内的な自分の成長を意味することが大切なのだろう。


腕立て伏せ
1回目:70回
2回目:100回(ギリギリ!)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回


頼風庵: 舞台2016/01/14
 人生という舞台において人は常に主役である。
 よく言われることだが、ずっと意識していることは難しいし煩わしい。そればかりか自らが舞台を荒らしたり台無しにしていることがある。おそらくボク自身もそういうことをしているのだろう。徹頭徹尾演じ切るというのは容易なことではない。裏も表も...

2016年7月9日土曜日

予見

 徹夜まがいのことをした影響が残っているからか、はたまた深夜の制作を継続しているせいか起きると既に昼近い。雨が降っていたせいで湿度が高いようだ。

 元来のスボラな性格のせいで部屋の中は結構な散らかっている。後で何かするつもりで中途半端になっていたり中途半端になっているものが何かのはずみで転がったりしてだんだんと混迷を深めていく。頭の中も似たようなものかもしれない。


撮影:2011/07/10

 時々、「あ、このままにしておくと落ちるかもしれない。」とか「ここに置いておくと失くすかもしれない。」と思いつつ、その通りの結果になることがある。思った時に移動するなり片付けたりすればいいことなのにそうしないのには理由があるからだ。
 ものの片付けだけではなく「こうならないといいな。」とか「こうなると困るな。」ということも割とそういう結果になってしまうのは、予知が当たるわけではなく「そうなる状態」を知覚しているということなのだろうか。
 崖っぷちに大きな石があれば、落ちるだろうと言うのは既に予知ではなく事実確認だ。

 日常生活の中でも同様なことが起こっているのだが、それが崖っぷちの大きな石に相当するようなことであるかどうかの判断基準が個々に違うので不確かな印象となってしまうのかもしれない。

 鉛筆でカットを描いていたらセリフを加えることで作品になりそうなので人物を追加して断片漫画にしてみた。本来ならペン入れした方が仕上がりが良い。今回はスピード感を意識してそのままスキャニング。コントラストを高めてデジタルで彩色。コマ割りとセリフはイラレで組んだ。色が濁っている感じになってしまったのが心残りなのでペン入れとイラレで彩色してみたい気がする。


 雨が上がったようなので夕方になって買い物に出た。
 近所の公園を通りかかった際、若い男性がいるのが見えた。そしてなんとそばにウサギがいる。茶色っぽいので一見して野生のウサギにも見える。それにしては男性の側50cmくらいのところで草を食んでおり離れていこうする様子は見えなかった。かといって繋いでする様子もない。一旦通り過ぎたもののUターンして声をかけてみた。
「逃げて行かないんですか?」
 すると男性は落ち着いた様子でにっこりして言った。
「はい。敷地から外には出て行かないですよ。」
 なんだか映画かドラマのワンシーンに使えそうな雰囲気だ。
 実は庭に野生のウサギが迷い込んでいる話を聞く。実祭にそのウサギを見たこともあるので野生なのか飼いウサギか判断できなかった。公園の敷地から出て行かないということは飼いウサギの散歩といったところだろうか。
 買い物に行く途中だったので声をかけて別れることにした。
「鳥に盗られないようにしてくださいね〜。」
 すると「そうなんですよ。この辺カラスがいるんですよね〜。」というお返事。
 カラス?カラスもウサギを獲るかな?とも思ったが、好奇心旺盛だから獲らないとも言えないかもしれない。それよりトビなどの猛禽類がいるのが心配だ。
 これも予見の一つかもしれないが、これ以上は余計なお世話になる。そう考えると余計なお世話にはまず予見ありとも考えられる。

 予見も無意識の産物だろうか。閃きの類ではあるかもしれない。子供の頃は失敗を繰り返すばかりで予見はおろか予想すらできなかった。たくさんの失敗が予想する力を育て無意識に予見できるようになるとすれば、経験が予見を可能にするわけだ。

 予見が余計にならないよう成長することも必要だろう。 


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:101回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

岡目

 昨夜は珍しく作画が調子良かった。普段、調子の良くないことの方が圧倒的に多いのでたまに梅雨の晴れ間に青空が広がるようなことがあるとそれはもう嬉しい。例によって錯覚なわけだからぬか喜びに過ぎないのだろうと頭の隅で思ってはいても勘違いも才能のうちだろう。
 ところが、こういう時に限って余計なことを考えていたりする。
 Macの動作が重いのがどうにも気のなるのでシステムを新規で再インストールしたいと数日前から考えていたのだ。平日はこなさなくてはならないことがあるため、Macが使用できなくなることは避けたい。週末に向けてシスタム再構築すれば来週の月曜日にもつれ込むことはないだろうからなんとかなるのではないかと考えたのだ。そして時間はかかるにしても、再インストールの待ち時間が長いわけなので制作と同時進行も可能に思えた。
 予定通り眠くなるまで鉛筆を走らせて床に着く頃にはまだインストールが続いていた。それでウトウトと眠りに入り始めたのにふと目が覚める。まだモニタが明るいようだから処理は続行中なのだろうと思いまたウトウト…そんなことをしていたら今度は目が覚めてしまった。様子を見てみるとちょうどインストールが終わったところで設定画面に遷移しようとしている。そこからは自動処理というわけにはいかない。
 平日の業務を滞りなく進めるために環境を整え始めたらすっかり朝になってしまった。
 そして結局ダウン。そこから5時間くらい寝てしまった。

 頑張った甲斐あって平日の業務に支障は出なかったものの折角調子が良かった作画の方はまた感覚を見失ってしまったのではないかと思う。
 その後もメールの再設定などで時間がかかり、夕方遅くに買い物に出た程度で一日を終えてしまった。
撮影:2011/07/09

 昨夜描いたカットを朝になって見てみるとやはり夜中のラブレターもみたいなもので陶酔していただけなのかもしれない。線が走っていると感じていたのにただ粗いだけだったり形が取れていると思えていたものもゆがんでいた。

 自分の欠点というものは自分で気がつきにくいものだ。
 優れている他の人は解るのに「なぜ優れているのか」ということはわからない。
 学歴とか資格とか生い立ちを聞いてひとまず納得したつもりになるが、それは結果的に「真似できない」から「自分が劣っているのは仕方ないこと」と安心したいからなのかもしれないと思ったりする。
 いわゆる創作物についても同様ではないだろうか。本来比較することそのものが意味のない行為であると思いながらも優れた作品の前でひれ伏す劣等感。気持ちを奮い立たせるにはどうすれば良いのか。
 強力な第三者の視点を持つ必要があるのではないかと思う。
 無論、本当の第三者であっては価値基準が違うため意見を尊重することで本来やりたかったことを見失ったり依存してしまったりしかねない。だから自身の中に第三者視点を持つことが必要なのだ。
 確か「岡目八目」というのではなかっただろうか。将棋から出たことがかと思っていたが、囲碁のようだ。意図するところは同じだろう。
 無意識といかに付き合うかということが、ここでも意味を持っている気がする。



腕立て伏せ
1回目:85回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回



2016年7月7日木曜日

昇華

 曇り。比較的涼しい日。

 先日、何気なく本棚にあった本を手にとってみた。いつか読もうと思つて買ったのだとは思うが、ずいぶん長い間本棚にあったのでいつ買ったのか、それとも誰かにもらったのかさえ忘れてしまった。埃を払ってページを捲ってみる。冒頭に笑いについての分析がなされている。そもそもどんな風にして笑いに繋がるのか。多角的に捉えようとしていた。なるほどと思いつつ読み進めるとどうやら手品のようなものだと思えてきた。
 笑いには種も仕掛けもあってどう魅せるかがポイントだということ。
 日常生活の中で自然に生まれる笑いにタネも仕掛けも関係ないことではあるが、演者と観客。漫画家と読者と言った関係性の間では必要な考え方ではないかと思う。

撮影:2015/07/08

 最近、笑うことがめっきり少なくなっている気がする。笑わないわけではないが、人間関係が希薄だしテレビのお笑い番組を観てもピンとこないので笑いの感情が鈍化しているのだろうかと考えてみたりもする。
 昔からそうだったろうか。
 子供の頃に引越しを経験しているせいか、大勢の人の輪に入って楽しむということが苦手のような気がする。誰かが楽しんでいる様子を見て楽しむといったどこか傍観的なのである。もしそうだとすると漫画家としての大切な部分が欠落しているのではないだろうか。
 父は余計なおしゃべりを好まない人で、食卓を囲む家族団欒の時もピリピリとした緊張感があった。どうすれば和やかな雰囲気になるのか子供心に考えていた気がする。誰かを笑わせたり楽しませたりするのが好きなのは、そこに原因があるのかもしれない。当の本人にしてみれば楽なことではなかった。

 そして今、漫画の中の笑いの感覚をすっかり忘れてしまっている気がする。皮肉ったり揶揄したり賢いふりをするようなネタばかりが浮かぶのだ。何かすっきりとした笑いに辿り着けない。もっともそういう質の笑いが嫌いだったわけではない。落語などにも見られるように権力を振りかざしたり弱いものいじめをするような立場を笑い飛ばそうというような風潮は昔からあったわけだ。しかし、そういう作品を描こうとすればより高度な知識と圧力に屈しない精神力も必要かもしれない。また後味が悪くなるような作品にならないような配慮や工夫が必要になるだろう。難しいと言わざるをえない。
 おそらくそういう作品も一瞬のひらめきが元になるのだろう。

 午後、早めに買い物に出た。
 天候は不安定の様相だったが、幸い雨はまだ降っていなかった。スーパーの後でホームセンターを回り、普段履いている靴がずいぶんくたびれていることを思い出したので靴屋に入る。田舎町ではありつつもスーパーやホームセンターなどの商店に不便を感じないのはありがたい。デパートが撤退した時は寂しさのようなものを感じないではなかったが、最近の大型ショッピングモールの様子を見るにつけ時代の変遷とか栄枯盛衰というような仕方のないことだったのかもしれないと思う。さりとて購買力が急に上がっているわけではないだろうからどの店も経営は難しいのではないかとも思う。
 結局、希望の価格帯の靴は見つからず、デザインが気に入ったものもないので店を出た。
 いつものように近所のスーパーで締めくくって帰宅。

 毎日の出来事を漫画にしたらどうだろうと思うこともある。それで一日の出来事を思い返しみるとただ買い物をしてきただけなのでスーパーのレジが故障していて価格表示が出ていなかったことくらいの出来事しか思い当たらない。レジの人が「私みたい。」と言うので「いやいや、ボクかも。」とやりとりしたくらいだ。自嘲のような笑いでもアレンジ次第で作品になるだろうか。何かこう…閃きが足りないような気がする。


腕立て伏せ
1回目:91回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月6日水曜日

反復

 雨。大降りになったかと思えば、陽が射すと言う不安定な陽気。運が良ければ虹が見られるかもしれない。

 体調が優れないのはもはや通常営業かと思うこともあるが、ここ数日、緩慢さが増していると思いバイオリズムを確認するとちょうど低調期。普段は気にしないようにしているつもりでもこういうことがあるから侮れない。


撮影:2015/07/07

 思いつきで行動するのはいつものこと。
 今日は過去のデータを掘り起こしてみた。
 1999年頃からインターネットの普及によって全国各地の人と知り合うことができるようになった。そんな中、名刺代わりにサイトを作り始めた。javascriptの知識がなくてもHTMLを少し理解できればサイトとしての形はできたし、OSやブラウザなどの環境によって表示が崩れたりするのでCSSはしばらくは使わないことにしていた。

 写真や言葉やイラストなどやっていることは今と大差ない。まだブログのようなサービスはなかったのでサイトのコンテンツとして日記のようなものをアップする程度。それでも新しいことに取り組むことは新鮮で楽しかった気がする。そのうちレンタル掲示板などを利用することとになり少しはcgiのような知識も必要になった。
 それからブログサービスが普及するようになり掲示板も少なくなっていった。インターネットの流行が変われば繋がり方も変わる。やがてSNSの登場でブログも徐々に少なくなってきたのではないだろうか。ボクも利用していたブログのサービスが終了となった。しばらく書けずに放置していたので良い区切りだったかもしれない。ネットにデータを置いておけばいつまでも引き継がれるというものでないことが少し残念でもある。そして、ブログのデータを引き揚げてそのままになっていた。言うなれば日記の類だから再び見る機会もあまりなかったのだ。

 久しぶりにブログのデータを開いてみると今と大差ないような気がする。その時の環境や出来事によっていわば反射的に行動しているように感じる。おそらく同じ条件になったとしたら今だって同じ反応をするのではないだろうか。要するに進歩はしていないようだ。

 過去のデータを掘り起こしたのには理由がある。
 これまでアウトプットしてきたものの中に作品のヒントを探そうというのだ。いわば自給自作である。そうは言っても進歩していないのだし、過去のことから新しいことを見つけようというのも打算的な気がしなくもない。

 そのうちデータのバックアップを取っていないテキストが気になり始めた。Web上のデータはセキュリティの心配こそあれ、万一に備えてシステム上のバックアップはあるはずだ。そう考えると自分のパソコンでクラッシュする方が心配ということになる。それでも検索したり編集したりということがネットに繋がっていないとできないというのは不都合があるかもしれないと考えてしまうのは、やっぱり頭が古いのだろうか。

 思いの外データのバックアップ作業に熱中してしまい朝の不調が嘘のようだ。単調な繰り返しの作業には陶酔効果があって新しいアイディアを考えるのとは別の脳内活動となるのかもしれない。

 2年ほど前のデータを確認しながら当時と同じことをできないかもしれないと思った。
 情熱とか目的とかを見失い常に空振りを繰り返しながらも何も変わっていないというのも不思議なものだと思う。


腕立て伏せ
1回目:93回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回



2016年7月5日火曜日

起動

 曇り。いつ降ってもおかしくない雲行き。

 いつものローテーションをこなしながらもあまり食欲がない。しばらくの間コーヒーとクッキーだけで過ごしていたが、昼を過ぎてようやくパンとカレーと味噌汁を口にした。
 買い物をしておこうと自転車を走らせることにした。外に出ると肌寒く感じたので着ているものを一枚増やす。早く帰って来ないと降り出すかもしれない。目的はコーヒーとクッキー。それから少し遠いスーパーでニンジンが安くなっている様子だった。

 スーパーで目的のものを調達し産直の店に立ち寄ると新鮮な小ネギがほどよい価格。青々として美味しそうだったが、こういう時に限って冷蔵庫には在庫がある。家族がいればあっという間に消費されるであろう食材も一人で消費するには結構時間がかかるのだ。身体を動かしたことが空腹感につながったのでパンとジュースを買って食べた。

 書店に立ち寄って「無意識」に関する書籍を探してみる。自宅にはまだ読んでいない本がたんまりあるので買う予定ではなくても状況が気になる。最新の科学に基づいた知見の書籍があるかもしれない。検索システムがあるので使ってみた。「ムイシキ」で検索するとかなりたくさんの書籍がヒットする。ところが、内容を確認してみるとどれも「在庫なし」である。それでは自宅でネット検索した方が良いというものだ。内容的に図書館を訪ねた方が良いだろうかと考える。
 心理関連書籍コーナーに立ち寄ってるみると一冊それらしい本があった。3000円くらいかなと思って価格を確認すると2900円だった。内容的にもしっかりしている印象で読んでみたい衝動にかられる。他にも何冊か手に取ってみると一々「なるほど」と思う内容の本が何冊もあった。要するに購入したらきりがないのである。まずは大きな書斎が必要だろう。

撮影:2011/07/06

 脳の活動を活性化を促すために環境を変えたり運動したりしている。腕立て伏せはいつから始めたんだったろうか。もうすぐ1年くらいになるのではないだろうか。始めた頃は10回すらできなかったのだから驚きである。

 物理的な何かに触れていることで活性化すると言うことはあるだろうかと考えてみる。学生時代、鉛筆やシャープペンシルを鼻の下に挟んでみたり手でクルクル回しながら考え事をした経験はないだろうか。
 たとえば、考え事をする時には、鉛筆や本を手に持っていることに決めてみる。それを習慣付けた場合、鉛筆や本を持つと考え事が始まるようにならないだろうか。これは道順を憶える時に看板や建物を目印にするのと似ている。普段は忘れていてもその現場に行けば自然に思い出すのは記憶の鍵が現場の風景にあるからではないか。そう考えると何かしらのアイテムを記憶の鍵として利用することも可能ではないかと思うのだ。

 記憶回路に限らず、もの想いに耽ってアイディアを出す行為や描くと言う動作にスイッチするための手段として鍵を使い「無意識」を起動させることは可能だろうか。

 習慣化が「無意識」を起動する鍵になるのではないか…そんなことを思った。


腕立て伏せ
1回目:90回
2回目:108回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月4日月曜日

脈絡

 晴れ。涼しい朝。天候が変わりやすいので読みにくい。とりあえず洗濯。

 GooglePhotosを利用するようになりしばらく経った。
 このブログから対象の画像にリンクする際には共有設定をしなくてはならない。それは理解できるのだが、共有設定したつもりなのに出来ていなかったりすることかが頻発するので悩んでいた。今日もリンク切れに気がついて確認していた。そもそもこれまでこのブログの写真はPicasaにアップロードされていたはずなのでPicasaが終了してしまった今、通常のアップロードによる画像データはどこへ行ってしまうのか。その解説が見つけられなかったので念のためにGooglePhotosへアップしてリンクするなどという面倒なことを始めたのだ。ところが、いつまで経ってもこのブログへの写真データアップに関する情報が得られないので調べてみるとGoogleアカウントでアップロードした画像データを統括的に管理できる機能が見つかった。いつからあったのだろう。気がつかなかっただけだろうか。いずれにしてもこのブログの機能でアップした画像も管理されているようだ。そうするとわざわざ使いにくいGooglePhotosを使っている必要もないはずだ。
…とは言え、今後のことを考えるとGooglePhotosの方で管理した方が良いのだろうか。

 新たな迷いを感じつつリンク切れの原因を調べていると、どうやら同名のアルバムを2つ作ってしまっていたようだ。パソコン上であれば、同名のフォルダは同じディレクトリに存在できない。しかも一方のアルバムが不可視設定になっていたため同一アルバムだと思い込んでいた。不可視になっていたアルバムを削除してから考えてみると無理して共有アルバムに集める必要もない気がしてきた。リンクの際には画像1点ずつを共有設定するのでアルバムがなくてもリンクそのものは可能なのだろうと思う。
 感覚的には細い道筋を辿っているようで裏技だの他のやり方だのと調べている余裕がなかった。確認作業もなかなか大変だと思い、まずは出来る方法を確認することしか考えていなかった。
 今日のジタバタで少しはわかったのかもしれない…たぶん。

撮影:2010/07/05


 月曜日ということもあってか机に向かってもノリがよろしくない。
 下絵はかなり溜まっているので加筆を中心に進める。思いついたアイディアがあったのでネームを描いておこうとしたらすでに描いてお蔵入りにしている内容と同じになってしまった。同じネタしか出てこないとは、つくづく底が浅いと思う。

 脳の活動はどのように行われているのか。手足の筋肉であれば実際に動かして動作の結果を確認することができる。脳はといえば、思考のプロセスや結果を書いたり物を作ったりして具体化してみないと第三者が把握することは難しい。最近では、活性化している部位を可視化して見ることができるようになっているらしい。
 当の本人は理解できているだろうか。

 例えば、物想いに耽ってアイディアが浮かぶ脳の活動と集中力を高めイメージを具体化する脳の活動は同じ部位が活動しているのだろうか。もちろん相互に関係性があり一体化しているのかもしれない。
 もし、一体化しつつもバランスに強弱があるとすれば、集中しようとすれはするほど発想は逃げていくことになるのではないか。物想いに耽っている間は集中が難しくるということは誰もが経験しているだろう。
「頭を切り替える」と言うことがある。必要に応じて日常的にこなしていることである。
 意識を解放する「物想いに耽る」ことはサボるとか怠けるという印象があるためよくないことのように受け止められることもあるが、実際にはその切り替えこそが大切なのかもしれない。


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月3日日曜日

想起

 雨。所によっては暑い日となったようだが、比較的涼しい日となった。

 昨夜の感覚を確認するため机に向かう。
 日曜日もまた時間の過ぎるのは早い。

 漫画を描くということは、何に興味を持ち、笑い、泣き、感動し、怒り、楽しんでいるかということではないかと思う。故にフラットで感情に揺れがない状態で描くことは難しいのではないかと思う。しかし、現実には常に面白おかしく過ごしているわけではないから工夫が必要になる。

 午後になって雨が上がったようだったので買い物に出た。丁度、町の上空だけぽっかりと青空が見えていた。目的のものは手に入らず、スーパーの外へ出ると小雨が降り始めていた。もう一軒のスーパーへ寄って帰ろうと思いしばらく走るとまもなく雨は上がった。
 通りかかった幼稚園の運動場にフェンスがある。そのフェンスに大きなカボチャがなっていてちょっと驚いた。フェンスに絡まった状態でツルがよく切れないものだ。条件が整えば多少の環境の不都合は乗り越え、いやむしろ利用してまでも花を咲かせ実を結ぶのだ。
 もう一軒のスーパーに着く頃にはまた雨が降り始めていたが、目的以外に必要なものを買い込んで店を出る頃にはまた上がっていた。

撮影:2007/07/04

 社会人になると現実的な問題とばかり取り組まざるを得ない局面も少なくない。学生時代に夢想していたものはいつのまにか鳴りを潜め想像力の翼もまた力を失ってしまう。それが大人になる、社会人になるということかもしれない。だからこそ漫画のように想像力を掻きたて翼を取り戻すものが必要とされるのではないだろうか。

 もしかするとぼんやりすることが少なくなっているかもしれない。
 朝、起きたばかりの頃は例に漏れずぼんやりしているものの、その後は描く時はもちろんのこと他にも何かと集中している。
 アイディアが出てくるのは、ぼんやりしている時が多い。自転車で急ぐことなく走っている時などもそうだ。

 コンディションを整え、多少の不都合は利用しても想い描いたものを表現することが必要なのだろう。


腕立て伏せ
1回目:75回
2回目:100回(ギリギリ!)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月2日土曜日

派生

 雨。
 アイディアが出ない時はとことん出ない。しかし時には連鎖的に溢れ出すこともある。
 今朝は目覚めてから何となく昨夜描いたラクガキを眺めた。そしてスケッチにもなっていないようなラクガキのことを考えながら布団を上げていたらイメージが次々に湧いてきた。連鎖反応だ。調子がいいのか悪いのかぼんやりしている時に誘発されるような気がする。昨日動いた効果だろうか。

撮影:2012/07/03
アイディアの種から派生するイメージは一本の樹のように成長し根を張り、幹を伸ばし、枝葉を広げる。文字にすればただそれだけのことが脳内では爆発的な展開のイメージが広がっていることもある。
 忘れないうちにイメージを繋ぎ止めようとするも時間の経過や毎日のローテーションをこなしているうちに取り逃がしてしまいそうになる。いつものことだ。アイディアの尻尾は掴まえられたろうか。
 毎日ブログを描くようにタイトルからカットを描いて、溜まったカットで漫画を構成する手法はどうだろう。特に珍しくもないかもしれないし今日初めて思いついたわけでもない気がする。それでも「できるかもしれない」という可能性に手応えを感じられることが大きい。ともかく前に進まなくてはならないのに技術的なことや精神的なことにとらわれたりして一歩進むのが容易ではないのだ。その一歩を進めるために必要なポイントやスタイルとも言うべき仕様は作品を生み続けることに必要ではないかと思う。

 考えてみれば、決してポジディブな要素ばかりではない気がする。
 今朝の考え事の中には余計なことをした反省点や将来への心配などネガティブな要素もあった。もしかしたらそれが朝から降っている雨のように大地を潤し、萌芽を促したのかもしれない。
 肝心なのはこのイメージを実践すること。身体が憶え、「無意識」がスタイルを獲得しなければ元の木阿弥。全てはなかったことになってしまう。

 人間がすごいと思うのは、イメージしたことを具現化したり実戦したりすることができる点だ。動植物であっても違った価値観でできるていることかもしれないが、それは彼らの価値観であるから人間社会でも有効である必要はないだろう。

 広がったイメージの具体性を検討しつつ実現の可能性を模索したい。



腕立て伏せ
1回目:70回
2回目:89回
3回目:100回(ギリギリ!)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年7月1日金曜日

回転

 晴れ。7月になった。

 描きかけのイラストの制作を進めつつ予定を考える。漫画のアイディア出しをするために環境を変化させ身体を動かしたい。

 天候も良さそうなので少し遠出も考えたが、所用を済ませているうちに昼を過ぎてしまった。それでも近所を回ろうと思い自転車を出した。
 普段走るコースとは逆回転。時計回りに回る。特に意味があるわけでもないが、ちょっとした変化も工夫のうちなのだ。そうは言っても立ち寄るのはいつもの書店やスーパーや産直の店、それからホームセンターとショッピングモール。お馴染みの場所を巡回するようなものだ。我ながら冬場はよくじっとしていられるものだと思う。

撮影:2009/07/02

 見上げれば、雲より高い青空を背景に飛行機が一筋の飛行機雲を従えて飛んでいる。風はもう夏の風情。蝉はまだ鳴いていない。道沿いの樹にカラスが一羽止まっていたので何となく自転車を止めて眺めていた。まだ若い個体のようだが、向こうの方に気を取られている。ボクがブレーキの音も立てなかったので気づいていないようだ。そのまましばらく眺めていたが振り返らないのでつまらなくなってまた自転車を走らせる。いつもなら一声かけるところだが、ちょっと方針を変えてみている。野生生物との自然な距離感に興味があるのだ。

 いつもの書店や産直の店から始まってショッピングモールを散策する頃には疲れを感じるようになっていた。いつもならショッピングモールが先だからさほど疲れていないのだが、今日は逆回りしたおかげで体力を消耗していた。ただひたすら歩き続けるのも芸がないと思い店に立ち寄ったり用意されている椅子に座ったりしてみる。
 アイディアは出てこない。そればかりか脳内は自動運転に余念がないようだ。刺激が足りないのだろうか。悪あがきするようにスーパーやホームセンターをはしごしてみたものの何も出て来ないまま帰宅。

 深夜になっても室温が31℃からなかなか下がらない。
 天候は明日からまた下り坂の予報。今も昔もこれからも…できることをできる限りやるしかないのだろう。


腕立て伏せ
1回目:85回
2回目:101回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...