2016年5月31日火曜日

助手

 昨日、興味と関心について書いたが、そもそも興味や関心はどこから湧いてくるのだろう。以前だったら何か思いついたら実行せずにいられなかった。

 もし…こうなったら…こうしてみたら…

 例えば、風景写真を撮る。すると天候が良くなかったり、季節感が感じられなかったり、時間帯が適当でないために平凡な写真になったりすることがままある。すると自然に沸くのが「興味と関心」だった。

 天候が良かったらもっと良い写真になるだろうか。
 季節が変わったらどんな写真を撮れるだろう。
 時間帯が違えば…言うなれば、条件を変えて違う結果が出ることに「興味と関心」があるのかもしれない。

 それは音楽でもそうだった。ギター、キーボード、オカリナ、ハーモニカ…比較的手の届きやすい色んな楽器を試してどんな結果が出るのかを楽しんでいた。音楽の場合は、思い切って練習したり教わる機会を持つこともなかったので上達することはなかった。熱心さが足りなかったのかもしれない。

 もちろん描くこともそうだった。鉛筆、水彩、パステル、アクリル絵の具、油彩、木炭、墨汁…おそらく自分で試して未知の結果を知ることが好きだったのだろう。両親が賛成していなかったにも関わらず、展覧会を観に行ったり作家さんを訪ねたり通信教育を受講したり教室にも通った。おそらく自分自身のまだ見ぬ変化を知りたかったのだ。

 そう考えると「未知のもの」が「興味と関心」の対象になっていることになる。
 まだまだ未熟者には違いないから「未知の成長」は残されているはずであるにも関わらず興味や関心が持てなくなっているとすれば、色んなことを試してきたからこそ「結果が予想できること」も多くなってきたのかもしれない。

 頑張っても届かない自分の限界。
 根拠のない自信の喪失。
 幸福感をイメージする想像力の萎縮。

 目の前のことをひたすら追いかける時代を過ぎて、挫折の谷と絶望の闇を抜けてきたから止むを得ないことであるとも思う。しかし、道はまだ続いている。

撮影:2010/06/01

 準備をしているのに忘れていることが多い気がする。

 大切なことだから忘れないうちに準備しておこうと思い、準備したことを忘れてしまっている。「転職が多かったせいだろうか」とふと思った。アシスタントとか助手とか下積みばかりだった気がする。準備がきちんとしていれば失敗も少ない。
 昔から「段取り八分」という言葉があるように何かに取り組む場合は段取りが重要な意味を持つ。
 問題は残り二分。
「終わり良ければすべて良し」とも言われるくらい仕上げが大切であることは言うまでもない。過不足なく完成させるためのコツやノウハウがあるはずだ。そこがわかっていないのかも知れないと思う。

 まずは今日も自分の中の興味や関心を確認するために机に向かった。描いているうちにふとストーリーの流れを描き留めておいた方がいいのではないかと思った。ネームのような下絵はすでに2年前に描いてあったが、この間の心境や画力の変化を反映させたいと思ったのだ。それでつい先日、仮にレイアウトしたページを開こうとしてふと思い出した。
「そういえば、ページ立てで組んだデータがあったはず…」
 そうなのである。コマ割りに配慮しつつ時間をかけて用意したデータがあることをすっかり忘れていたのだ。この下絵のページ組だけでも何度かやり直ししているので「準備して忘れる」ということを何度も繰り返していることになる。アシスタントや助手は同じことを繰り返すことが重要だったからその名残なのではないかと思えてしまった。

 同じことを繰り返し習練を積むことも大切である。
 そろそろもう一段上がってみることも必要なのかもしれない。


腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:110回

2016年5月30日月曜日

奪還

 晴れ。
 昨夜食べたブリ大根効果か朝から頭のコンディションがいいらしい。

「集中力を高める」とか「集中力を維持する」と表現することがある。
 考えてみれば、集中力は「興味」と深い関係があるだろう。
 興味を失うと集中力が途切れるのではないかと仮定してみる。興味や関心を持ち続けることができれば、集中力も維持できるのではないか。
 集中するのに努力を要するということは習慣化していたり他のことに気を取られて肝心のことに対する興味を失っているということではないだろうか。認めたくないことである。
 では、興味や関心を高めるためにはどうしたら良いのだろう。これは勉強や仕事など必要に迫られて取り組む場合、とりあえず集中してみることが興味や関心に繋がることもあるかもしれない。効率的とは言えないのは経験済みである。

撮影:2010/05/31

 幸か不幸か相対的に不器用だった場合「どうすれば上達できるか」ということが興味を維持することに貢献するかもしれない。何かを上達しようとすると往々にして長い時間が必要となるからだ。

 幸か不幸か相対的に器用だった場合、続けることに興味を失いやすく新しく挑戦することに興味を見出すかもしれない。
 つまり相対的に不器用であることが興味や関心を持つきっかけになり、慣れて上達してきたら新しい目標を設定することで向上心を維持することができるかもしれないのだ。
 仕事でも勉強でも趣味でも興味や関心を失わない工夫が集中力の鍵を握っていると言えるだろうか。

 そんなわけで「興味と関心」を奪還すべく机に向かった。言うまでもなく集中力の奪還でもある。ブリ大根効果もあってかあっさり脳内スイッチオン。だからと言って急に上達するわけでもないが、少しずつ見失いかけていた集中力をいくらか取り戻せたような気がする。おかげて郵便の配達物があったことに気がつけなくて再配達してもらう羽目になった。玄関のチャイムが調子悪いのだ。
 描きかけていた下絵をさらに描き込み、スキャニングの後でペン入れ。そしてまたスキャニング。用意してあったイラレのレイアウトに配置してみた。先に配置してあったカットとのバランスがイマイチなので再考の必要があるだろう。美しい原稿が作りたい。
 ひとまず「興味と関心」そして「集中力の奪還」が優先だ。自分の作品なのに「興味と関心」が低下しているかと思うと情けない限りである。描くことを最優先した結果、その状況に溺れてしまっているのだろう。

 夕方になって自転車を出した。
 少し調整したおかげで玄関のチャイムは鳴るようになったものの一応ホームセンターでパーツをチェックしてみると1,000円程度するようだから直せるようなら直して使った方が良さそうだ。


腕立て伏せ
1回目:102回
2回目:110回

 

2016年5月29日日曜日

切望

 晴れ。日曜日だからということもあってか気持ちは緩みがち。
 昨日少し歩いたこともあってかテンションは高くない。午前中は少しゆっくりスタートで午後から机に向かう。しばらく描いていたが、ぼんやりするのでふとそばにあった温度計を確認すると30℃だった。窓際のせいかもしれないと思い、別の温度計を確認。26℃だった。いずれにしても室温が高めなのだろうと思って窓を開けた。

撮影:2008/05/30

 子供の頃は食事の時間になろうが深夜遅かろうがお構いなしに描いていられた。ところが、今は自分でスケジュールを管理できる立場になっているはずなのにうまくコントロールできているとは言えない。
 わずかな時間だとしても描くことに意味があるならと言い聞かせる。先日整理した下絵の修正は時間の経過を経て、画力のアップを実感することができる。真っ白な紙に描く気持ち良さとは違う集中力の高まりを感じる。麓から山に登るか、五合目から登るかという違いだろうか。少しの間、時間の経つのを忘れて没頭出来たようだ。

 偶然かもしれないが、最近、夢や目標を見失っているという話を目にすることがあった。ボクも以前そういうことがあったので気持ちがわからないわけではない。夢や目標を手放しても生きることに支障がないのかもしれないと思ったりする。満たされていないとしても足りていることはある。両手に何かを抱えたままでは夢や目標を掴まえることはできないのだろう。夢や希望が星のようなものだとすれば、月明かりで見えなくなる可能性だってある。
 失望、渇望、絶望…皮肉にも希望はそんなところにこそ見い出すものなのかもしれない。

 午後から自転車を出して書店やスーパーを回る。
 スーパーで三重産のブリのアラが安く出ていた。幸い冷蔵庫に大根があったはずだ。脳の活性化のために意識的に魚を食べたいと思っているのだが、いかんせん調理方法に問題がある。グリルで焼けば臭いがこもる。先日はシシャモを買ってきて魚焼き用の網で焼いたところ網の下の受け皿が汚れて焦げついてしまった。
 帰宅してまずはブリを軽く焼いた方がいいと思い、しばらく使っていなかった中華鍋を使ってみようと思いついた。古くなったフッ素加工のフライパンでは焦げつくのではないだろうかという心配があったからだ。熱した中華鍋に少し油をひいてブリのアラを投入。焦げつくことを心配したもののどうやら大丈夫のようだ。塩胡椒をしてから酒を少しかけて蓋をして蒸し焼きにした。全体に火が通ったところで鍋に移し水・醤油・みりん・砂糖・酢で調味。しばらく煮たら鷹の爪を一本。仕上がりを見計らってごま油を回しかけ、刻みネギをパラパラ。それから少し時間を置けば出来上がりだ。出来上がってみると臭みも気にならないし、使った中華鍋もツルリと洗うことができて手間も少なかった。そういえば、穴の空いて使えなくなった鍋がある。何か工夫をして再利用できるかもしれない。穴の空いた鍋ならアルミホイルを敷いた方がいいだろう。手軽に魚料理ができるようになれば、脳が活性化し作画も調子が良くなるのではないかと期待している。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:103回

2016年5月28日土曜日

傍観

 少しばかり早い時間に起きるとリズムが狂って一日ぼんやりすることが多い気がする。そうは言っても早く目が覚めてしまった時は仕方がない。
 今日も少しばかり早く目が覚めたせいか昼食前の腕立て伏せにイマイチ力が入らない。そればかりか倦怠感はズルズルと尾を引いた。今日は土曜日。スイッチが切れるのは毎週のことだが、せっかく調子を掴みかけていたのでなんとか確実なものにしたい。そこで机に向かうも敢えなく挫折。

撮影:2007/05/29

 ゴロゴロするのも時には大切だと思う。しかしそのままでスイッチは入らないので午後になって外出することにした。晴れてはいても気温はそれほど上がっていない様子。青空にはまるで秋の空を思わせる薄絹のような雲が刷毛で撫でたように筋を描いていた。近所の麦畑はまだ青く、風に揺れている。
 自転車は毎日のように利用しているので今日はショッピングモールを散歩することにした。土曜日なので当然ながら混雑している。普段人気が少ないので敢えて混雑している時を選んでしまっているのかもしれない。それにしても人が多かった。人の流れの中を泳ぐように歩くつもりでいてもそういう動きはしばらくご無沙汰なので何度か睨めっこになる。もしかしたら相手方も同様なのかもしれない。
 そんな人の多いところでは人間観察を決め込むのもいいのかもしれない。定位置を持たず常に移動しているとそういう余裕も持てないので、どこかに落ち着いた方がいいのだろう。それすらも人の多い時には躊躇われる。家族連れにせよカップルにせよ、そういう席を必要としている人はたくさんいるだろう。そんな貴重な席を一人で占拠したところで落ち着いて人間観察できるわけもない。
 今日もひたすらショッピングモールを漂う。生ぬるい人いきれが淀んで重いので呼吸するのも楽ではない。大きなショッピングモールはたくさんの金魚ひしめく水槽のように酸素濃度が足りないのではないかとさえ思う。衣料品店に滑り込んだはいいものの狭い通路で品定めする人がいるため出られなくなりそうになる。かいくぐるように抜け出してまた歩く。ふと目の前を横切った美しい人と一瞬目があったような気がするが、多分気のせいだろう。気のせいでなかったとしてもどうということでもない。それから携帯ショップに立ち寄って若い店員さんと立ち話。一生懸命説明しようとする熱意は伝わってくるのでマニュアルにないだろうと思われるタブレット端末に関する質問を投げかけてみた。
「耐熱温度は?」
 するときちんと調べて回答してくれた。意外なことに0℃から35℃。夏の車内ではあっけなくアウトだろう。質問したことは正解だった。タブレット端末が高いということは彼の責任ではない。
 その後、電器店に立ち寄ってデジタルカメラを見ていたら店員さんが近寄ってきた。この店員さんは消極的というかネガティブな印象だった。C社のカメラの解説を聞いていたのだが、どうも違和感を感じるので使っているカメラについて尋ねると使っているのはF社のカメラでこの店では扱っていないという。そこから来る違和感だったのなら仕方ないが、その電器店の店員さんはいずれもそんな雰囲気を持っている気がする。

 帰路、散歩程度なのに膝がカクカク笑っている気がした。自転車の筋肉と徒歩の筋肉は違うのだろう。スーパーに立ち寄ってパンと飲み物を購入し公園で食べた。小学校低学年くらいの子供たちがサッカーボールを追いかけて遊んでいる。中学生の女子生徒が何人か集まってアイスを頬張りながら談笑している。

 それぞれの人がそれぞれのステージを生きている。
 平和な土曜日だ。



腕立て伏せ
1回目:98回
2回目:107回

2016年5月27日金曜日

下絵

 パチンパチンという弾けるような音に気づいて目覚めた朝。近所で誰かが爪を切る音かと思ったら雨だれの音だった。雨は一時的に激しさを増し再び眠りに落ちることを妨げたが、いつしかまた浅い眠りに落ちたようだ。

撮影:2010/05/28

 昼食にカレー。そして制作中のアイスコーヒーのパターンが功を奏しているのか、比較的集中力を維持できている印象。何より数日前に観たテレビドラマが効いているのかもしれない。今真剣に取り組まずにどうするんだという想いが沸々と沸いている。

 これまでに描いていた下絵の山を少し整理した。すると少し前の自分の絵の酷さを確認せざるを得ない。調子の良くない時には、そんな絵を見て直そうとしたところで悪くなっていく一方だが、今はいくらか調子がいいようなのでデッサンの狂いを修正したり描き直したりできる。調子が出ないとぼやきながらも「よくここまで描いてきた」とそこだけは認めてもいいんじゃないかと思う。内容はひどいものだとしてもその蓄積が紙一枚分の厚さずつ成長してきたのかもしれない。
 敢えて自分に厳しいことを言うとすれば、どんなに下絵を描いたってどんなにアイディアを積み重ねたってまとめる力がなければ作品にはならないということだ。

 原子はどうして結合しあって分子になるのだろう。結合するための条件が満たされると適正に結合し分子となる。水素と酸素の原子は結合しあって水の分子となり、炭素と酸素の原子が結合しあって二酸化炭素となる。
 描きためた下絵やアイディアはどんな条件を与えると結合して作品になるのだろう。今はバラバラの断片を整理しながら結合の条件について考えてみたりしている。

 午後になって雨が上がり、陽が射し始めたので自転車を出した。
 特に用もないがホームセンターに立ち寄ると店の前にドロップハンドルの自転車が止まっていた。ドロップハンドルというとスタイリッシュなフォルムが魅力でもある。ところが、後ろにつけたキャリアに買い物用のカゴをセットしてあるというなかなか大胆な仕様になっていた。しかし、荷物を運ぶことを考えれば気持ちがわからないわけではない。
 店を出る時にその自転車の持ち主がいたので声をかけて立ち話となった。聞けば、県外で購入したものでキャリアなどをセットすることでいい値段になったらしいが、買い物用のかごをセットして欲しいと店員に依頼したら「お客さん、冗談でしょう?」と言われたとか。確かにそれほど大胆な試みだと思う。おそらくボクより10歳以上は年上だと思うが、自転車で行ったことのある場所を聞くとちょっと真似できないほど遠い温泉だった。遠いばかりではなくかなりの上り坂ではないかと思う。車で行ったことはあっても自転車で行くのは躊躇してしまう。確かに性能も良い自転車であろうと思うが、気持ちも体も元気でなければできないことだと思う。見た目のかっこよさより生き方がかっこいいのだ。

思えば、子供の頃に漫画家を志してから厳しい道のりになるであろうことは薄々予想していた。心身ともに元気でいる必要を感じていたし、一人では背負いきれないものを背負うのだからせめて家族や友達には迷惑をかけないようにと願っていた。しかし、その願いは叶わなかった。皮肉なことに漫画家を諦めることで生きようとした結果、行き詰まってしまい周囲に迷惑をかけている。周囲の迷惑を顧みずまっすぐ漫画家を目指していたらどうだったのだろう。たぶんそれでもやっぱり行き詰まっていたのではないかと思う。もしかしたら今よりずっと早く行き詰まっていたかもしれない。
 直接誰かを幸せにできないのだからせめて作品くらいは誰かを幸せにできるものにしたい。そうでなければ生きてきたことの意味を見出すことができない。

 子供の頃に描いた人生の下絵はデッサンの狂いを修正すべき時期にある。そしてペン入れを待っている。まとめる力を得て作品として完成させる日のために。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:103回

2016年5月26日木曜日

歯車

 曇りのち晴れ

 少し生活パターンをかえてみようと思った…とは言っても大したことではない。
 これまで朝食にカレーを食べることを習慣にしていた。前日にカレーを作れば、一晩寝かせた美味しいカレーが食べられる。しかしこのパターンだと、朝食に最適な納豆や卵の出番がない。それはそれでいいかもしれないと思って納豆や卵は昼とか夜に食べるようにしていた。

撮影:2011/05/27

 昨日、作り置きのカレーを切らしたので今夜はカレーを作って明日の朝からの分のカレーを作ろうと考えていた。ところが「カレーは時間がかかるから日中に作った方がいいのではないか」とふと思った。
 そこで普段は夕方から始めるカレー作りを昼頃からスタート。ヨーグルトはあったしトマトも入れてみた。残念なことに唐辛子を入れ忘れるという失態を犯したが、いつもより若干ゆるい感じではあるものの昼食はカレー。問題はそこから制作へのシフトだ。先日、スーパーで1.5リットルのアイスコーヒーが安かったので買い求めてあった。氷を入れて準備。カレーの影響かコーヒーの影響か定かではないがいつもより順調な気がする。一日のピークをどこに持ってくるかが重要なのかもしれない。
 例えば車を運転する時のシートの位置…普通に机に向かった時の椅子の位置でも構わないが、定位置というものがある。少しでもズレていると気になって集中できなるだろう。一日の生活パターンによっては制作に集中できないパターンや否が応でも集中力が高まるパターンというものがあるのではないかと思ったりする。それすら試行錯誤でこれというパターンに辿り着けていない現状なのだ。とりあえず、昼食はカレーで午後はアイスコーヒーというパターンは悪くない気がした。
 ちょっと計算通りに行かなかったのはこのブログ。午後6時から1時間程度で書ければ、その後また制作ができると思ったら夕食を挟んで既に午後9時を回っている。風呂の準備をしつつまだ少しは制作できるだろうか。早く床に就いて早く起床できれば、また好転できるかもしれない。

 大小様々な歯車の噛み合わせが制作の動力となるように試行錯誤がこれからも続く。



腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:107回

2016年5月25日水曜日

感涙

 曇天。昨夜見たテレビドラマの余韻が残っていていつもより早く目が覚めた。
 ネット上で期間限定の無料視聴ができるということなので再び視聴。涙腺崩壊。ここまで胸に迫るドラマは近年稀に見る作品ではないだろうか。最近とんと映画館にも足を運んでいないが、映画館で落涙するほど感動した記憶がないかも知れない。それほど胸に迫る内容だった。
 もっともTwitter上での反応と比較して視聴率はそれほど高くないということなので一部の視聴者にウケているだけなのかもしれない。
 漫画家やアシスタント、そして出版に関わる編集者を扱った作品で漫画を描く者、あるいは夢を追う者にとって興味深い内容となっているのではないかと思う。

撮影:2011/05/26

「本当にやりたいことは何か」
 明確な答えを持つ人はどれくらいいるのだろう。答えを持っていることで人生が楽になるわけではない。むしろ険しい人生となるかもしれない。就職すれば希望通りの仕事をさせてもらえるとは限らないし起業したからといってやりたいことができるとは限らない。臨機応変に他人のやりたがらないことを率先してやって行ければ、世の中はそんなに悪くないのかも知れないとも思う。
 それでもその答えがあれば、時に暗い夜道を照らし、時に行く手を指し示し、そして時には旗印となって今ある処を世に示すこともあるだろう。長い間、その答えに封印をし玉ま流されて生きる幸せを選ぼうとしたこともあった。しかし、ただ流されて生きるにはあまりに激流だった。揉まれた挙句に何もかも見失ってしまったのだ。可能性の道を一つ一つ潰して残されたのは、結局子供の頃に想い描いた夢だった。
「漫画家になりたい」
…温存といえば、聞こえがいいかも知れないが、自分自身と向き合って本当にやりたいことから逃げていたに過ぎないのではないだろうか。戦わないことで挫折しないようにしてきただけではないのか。
 すでに帰るべき所はない。前に進むしかないのだ。
 そして、また向き合うべき問いがある。
「本当に描きたいのは何か」
 その答えなくして人生をかけてしまっている意味がないとさえ思える。

 調子が良くないと言いつつ描き続けていた下絵を整理してみると、いつの間にかまた結構な量が溜まっていた。ペン入れするとまた台無しにしてしまうだろう。それでも少しずつでも安定しつつあるのではないかと思う。気がつけば6作品以上を同時進行しようとしていた。

 雨がぱらついていたようだったが、午後になってタイミングを見計らって買い物に出た。カレー用の具材など買い揃えて帰宅。明日からまた天候が下り坂なのだろうか。

 夜になってまた昨夜のテレビドラマを視聴して感涙。
 誰に感謝すればいいのだろう。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:107回

2016年5月24日火曜日

無為

 アイディアの欠片どころか気配すらしない日というものがる。アイディアのそよ風も吹かないような日。ささ波も立たぬような日にはいくら進もうとしても全てが水泡に帰す。
 そんな日はジタバタもがいたりせずに静かに過ごすのが良いのだと解ってはいても、普段から大して進んではいないことを考えれば少しでも前に進みたいと思うのが人情だろう。実際、そんな風にもがいているうちに風が吹き始めたりアイディアの切れ端が浮かんでくることもある。
 しかし、今日はホントに何も浮かばない。考えずに出来ることをと思って机に向かい鉛筆の下絵に加筆してみるが、それすらも長くは続かなかった。やるべきことは山ほどあるはずだ。それがわかっているからたとえ無駄になるとしても尚もがこうとするのだ。

撮影:2006/05/25

 窓の外では、野鳥が気持ち良さげに美声を披露しているのにその声が錆びついたアイディアの扉を開くことはなかった。
 いつか山の中でアカショウビンの声を聴いたことがある。聴き慣れていないせいか、その声は名匠が手がけた楽器の逸品を彷彿とさせる音色で、何かの天啓ではないかと思うほどだった。
 ニホンジカが鳴く声も美しい。雅楽器の音色を連想させる神聖な響きは大気を震わせ脳を振動させるかのようだった。

「もしかしてボクはもう終わっているのではないか。」
 そんな不穏な想いが過る。それを言うなら「始まってすらいないない」の間違いだろう。
 下手な考え休むに似たり…である。
 何となく雅楽器の曲を聴いてみたら何故か気持ちが少し落ち着いたのでまた少し机に向う。
 今日は結局買い物にも行かなかったからいつもより多少運動不足だと思いつつ夕飯を済ませると急に脳内スイッチが入った。夜の制作は翌日に響くのでしばらく前から控えるようになっていた。気候の変化もあって体調がシフトしたがっているのだろうか。日中と違って雑念も雑音も少ない。机に向かってみると昼間の状態が嘘のように鉛筆が走った。この状態が翌日まで続くことは期待できないが、わずかでも前に進めた感覚を得られたのだから贅沢は言うまい。
 明日からは制作のスケジュールを少し変えてみよう。

腕立て伏せ
1回目:110回
2回目:110回

2016年5月23日月曜日

抑制

 田植えの時期になると一面が緑の季節を迎える。ところが、そんな緑の田畑の中に枯れ草色の縁取りをしている田んぼを見かけることがある。おそらく除草剤だろう。人手不足の中、作業の負担軽減や効率化を考えた結果だろう。除草剤による作物への影響は少ないということだと思うが、やはり緑の季節に枯れ草色の縁取りを目にすると内心穏やかではない。

撮影:2013/05/24

 コーヒーかすは発芽抑制作用があると聞いことがある。実際には使用量の関係もあるので効果があると断定するのは難しいようだ。
 雑草として名高いセイタカアワダチソウは根から「アレロパシー」と言われる発芽抑制物質を出しているらしい。その為、他の植物が育ちにくい環境を作り出すが、何年か経つとセイタカアワダチソウ自身が生育できない環境になるのだという。自然由来のものなら化学物質より安心のような気もする。そんな単純なものではないのだろうか。少し調べてみると様々な植物が他の植物に対するアレロパシーを持っているようで中には利用している様子をよく見かけるものもある。
 田畑ばかりではない。近所の公園にも除草剤を散布して公園全体が枯葉色になっている所もあれば、近所の人がボランティアでコツコツ草取りしている所もある。仕上がりは一目瞭然。除草剤を使っていない公園は春ともなれば一面が緑の絨毯となりタンポポなどの花が咲き誇り桜の花見にはもってこいの場所となっている。
 止むを得ないこととして利便性を優先することで失われていることの大きさに気づくことは難しい。

 今日は昨日の疲れが残っているようで思うように描けない日だった。それでも机に向かって鉛筆を走らせる。ただ惰性で描いているだけで上達するとも思えないので何とかコントロールを取り戻したい一心で書いていた。過去の絵を手にとっては「ひどい絵だなぁ」とため息をつく。
 気温が上がったこともあってか集中力の持続が難しい。前に本棚があったりしてちょっと開けづらくなっていた窓を開けると風が通って気持ち良かった。外の雑音が入ってきたり音楽が外に聴こえてしまったりするのが玉に瑕ではある。何しろエアコンもない部屋なのでこれから本格的な夏に向けて過ごしやすい環境づくりも必要だろう。
 夕方になってホームセンターへ出かけて簾を2枚購入。


腕立て伏せ
1回目:102回
2回目:110回

2016年5月22日日曜日

遠征

 珍しく早い時間に目が覚めた。布団の中で惰眠を貪る。そして天候が穏やかに晴れているようなので遠征を企てた。20日ぶりくらいだろうか。

撮影:2011/05/23

 折しも田植えシーズン。田んぼの水面には遠く残雪をいただく山々や広い青空に白いちぎれ雲を映していた。あちこちから野鳥のさえずりが飛び交っている。農耕機械と田植えに勤しむ人…アオサギが餌を求めて歩いていた。
 いつもより早い時間に自宅を出たので焦って走る必要はない。目的地までノンストップで走れば1時間半くらいだろう。今日は天候も良いので写真を撮るために道草しながら走った。
 陽射しも風の匂いも夏の気配を感じさせ、大きくなりつつあるサクランボがところによって早くも色づき始めていた。アヤメとかショウブとかカキツバタといった花が咲く時期になのに区別がつかないのは品種によっても佇まいが違っているせいだろう。淡い紫色や白っぽい特徴的な花はテッセンとかクレマチスだろうか。この辺りも区別がつかない。ミヤコワスレの花も花期を迎えていた。季節の移ろいを確かに感じ取り、出番を待っていた花が次々に咲いている。
 目的地の少し前、いつも立ち寄るスーパーに入って驚いた。閉店の案内が貼り出されていたのだ。昼食用におにぎりや飲み物を買うことはあったものの多くても1か月に1回程度しか利用していなかったとは言え、ないとやっぱり不便だ。時間帯の関係もあるだろうと思いつつ客が多いとは言えず、閑散とした印象だった。スーパーなので安く買えるのが魅力だったため無くなってしまうのは惜しいと思った。何より地元の人たちにとっては不便になるだろう。

 道の駅に立ち寄って顔馴染みのデザイナーさんと話し込む。共通の問題意識があるので世間話で無駄な探り合いをする必要がないので自ずと会話が弾む。どうやら近くに新しいスーパーが開店するらしい。典型的な田舎町なのでスーパーが閉店と開店を繰り返している。不便になるかと思われた地元の人もいくらか助かるのではないだろうか。高齢化と過疎化が進行する田舎町の再生の道は見つかるだろうか。デザインやアートは時に地域再発見に繋がることがある。いかんせんクライアントの発注がなければ動けない現実もあるので地域の視覚的なデザインのみならず人の流れや気候に合わせた視点でリデザインできる立場の人が重要であることは言うまでもない。しかしながら見えないものをイメージすることは容易ではない。
 普段引きこもって漫画を描いているので久しぶりに人と話をしたような気がして充実感を感じた。また話す機会を持とうということで意見は一致をみた。

 いつものコースを走っていつものところに立ち寄る…ちょっとコースを変えてみようとしたら果樹園に入り込んで迷子になるハプニングもあったが有意義な一日になった。


腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:103回

自転車走行距離:約40km

2016年5月21日土曜日

空白

 布団から起き出す頃に浮かんだアイディアは、消えるどころか以前考えていたアイディアと結びつき膨張を始めた。珍しく思いついたタイトルも他との重複が見当たらない。絶対先行者がいるだろうと思ったので嬉しい誤算だった。
 食事前に書き留めておこうとしたらこれまた止まることを知らず出発点としては悪くない気がする。気がすむまで思いつくままに書き進めていると新しい世界観のイメージが広がる。あくまでも設定のレベルなので物語に起承転結や情感を織り込んでいく必要がある。

撮影:2012/05/22

 天候は曇りで推移したようだ。夕方になって少し日が差してきた。
 午後になって朝思いついたアイディアを漫画形式にできるかコマ割りと下絵を描いてみる。先日来、コマ割りの構成を考えていたことが少しは役に立っている。ただ、コマが小さくて絵を入れるのが大変だ。少し描いて保留とした。

 それから頭を空白にする努力。土曜日ということもあるが、脳の稼働状態に緩急をつけたいと考えたのだ。ところが、頭を空っぽにしようと考えたとたん違うアイディアがなだれ込んでくる…いつものことだ。知恵を絞るよりも頭を空っぽにする方がアイディアに繋がるのではないだろうか。

 夕方になって買い物ついでにいつものように自転車を出す。晴れてはいても気温はさほど高くない。春先の頃の好天が不思議なくらいだ。運動の目的があるので特に買うものがあるわけではない。それでも帰りには何かしら購入している。安売りになっているものを購入したり先のことを考えて購入することが癖になっているのだ。必要になった時に買ってあることを忘れていることもままある。今日は餃子が3割引になっていた。賞味期限ということもあって帰宅してから早速調理。鉄のフライパンの方が上手く焼けることはわかったが、フッ素加工のフライパンの方が大きいので何とか使えないものかとリベンジのつもりで使ってみたら案の定焦げついた。やはり大きめの鉄のフライパンを一つ購入すべきなのだろう。こうして広くもない部屋が物で溢れていく。

 夜になって少しばかり気になっていたことを調べてみた。それはTwitterクライアントをApplescriptでどこまで制御できるだろうかということだった。資料はあまり多いとは言えないように思える。人工無脳的なことをApplescriptで実現することは可能なのだろうかと思ったのだが、少しばかりヒントが見つかった。24時間稼働するシステムは無理なので使い方は限定されるが、応用の仕方では面白いかも知れない。
 こうして頭を空っぽにしようとして1日が充実して終わっていく。
 毎日、空白にするつもりでいた方がいいのかも知れない。


腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:105回

存在

 晴れ。やはりヒンヤリしている様子。

 朝からMacの不調に対応すべく調べ物をする。何とか対応策を見つけたが、根本解決ではないのでMacのバージョンアップを待つしかないかもしれない。メモリの使用状況もギリギリのようだ。ハード的な更新の必要も迫っている。

 そして机に向かった。
 少しの間レイアウト(コマ割り)でデジタル作業に取り組んでいたため勘が鈍っているかもしれない。描きかけていた下絵に鉛筆を入れていくことで勘を取り戻す努力をしてみる。集中力が続かないので何度か休憩をしつつ描く。

撮影:2012/05/21

 もう2年前から描いているはずのキャラクターなのに描く度に違う。画力の違いもさることながらキャラクターのイメージを固定できていないことが問題なのだ。例えば、現実に存在する人を描くのであれば、特徴を真似ることが可能だろう。モデルとして実物を描くことや写真を見ながら描くことができれば、ブレたとしてもブレたなりに描けるのではないかと思う。おそらくそれは甘えだろう。モデルに対峙して描くにせよ写真を参考に描くにせよ一旦は脳内にイメージを投影するわけなのだから、オリジナルキャラとしての確固たる存在感をイメージすることが必要なだけなのだ。
 オリジナルのキャラクターはぼんやりとしたイメージやラクガキの中から生まれる。何度も描いているうちにディテールや存在感が明確になっていくのだからとにかく描くしか手はないだろう。こんな風に繰り返し描くのだから愛着が湧くのは当然のこと。その場しのぎや使い捨てのキャラにしたくないと思うようになる。それがいわゆる「モブキャラ」の苦手意識につながる。いっその事、どこにでも出てくるキャラとして存在感を持つまで描けばいいのかも知れない。真似ることとは違う、生みの苦しみが愛着になる。仮想の存在だからといってぞんざいには扱えないのだ。

 結局、思うように描けないまま夕方になってしまった。
 買い物がてら自転車を出すと空を覆った雲に夕方の太陽が透けていた。風があって少し肌寒い。ここ最近は、この一時間ほど買い物時間を若干の運動にしているつもり。安くなっている小葱をやっと手に入れることができた。


腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:108回

2016年5月20日金曜日

更新

 今日も晴れ。季節は静かに移ろう。

 自転車と電車と徒歩で通勤片道1時間半。睡眠不足を補うため電車では眠るのが常だった頃。残業、徹夜、休日出勤。それだけ働いていたから給料を使うのは書籍代くらいなもの。あとはMac関係とか仕事のことが中心だった。そんな日々の果てに今日のような日々が待っているとは想像だにしなかった。時々、生まれ故郷で暮らしているのだということを思い出す。普段はそんなこと忘れてしまったように当たり前に暮らしている。矢のように過ぎていくという意味ではあの頃も今も変わっていない。ただ、どちらが幸せなのかは今も分からない。

撮影:2012/05/20

 Macのバージョンアップのメッセージが出た。何度か無視していたのに今日は何故かやっておこうという気になった。ダウンロードから始まってインストールが完了するまで3時間程度かかっただろうか。途中、何度かフリーズしたのではないかと思った。隣の古いMacでは漫画の制作を進めていたので焦らず状況を横目で見ていた。何とかバージョンアップを終了し、使用していたソフトの挙動を確認する。バージョンアップ後はしばらく寝起きのような緩慢な動作になるのは毎度のことだ。バージョンアップ前は日本語入力が意図と違う挙動をすることに少し不満があったので心配していたが、日本語入力に関してはかなり改善されている印象で漢字変換もスムーズだ。ふと、普段使用していないメールアカウントがエラーになっている。不思議に思い調べてみると、どうやら今まで気がつかなかっただけらしい。ユーザー名やパスワードなど各項目を入力し直してみても改善しない。夜になって別のソフトで設定してみてもエラーが出るか検証してみるとあっけなくクリア。OSのバージョンアップそのものより付随するソフトとの整合性が問題になる。かれこれ1日かかってしまっただろうか。
 ここ数日、このブログの写真に表示に関しても問題があって解決策模索している。自分からは見えているのに他の人には見えていないかもしれないという問題だ。Picasaへのアップロードが一時できなくなっていたので、良いタイミングだからとGoogle Photosへリンクするようにしていたのだが、共有設定の必要があるようでログインしていない状態で確認すると写真が見えないのだ。その設定方法がよくわからないまま試行錯誤を繰り返している。

 制作は昨日のコマ割りを元にページ立てして複数ページを見渡せるようにしてみた。単頁ではなく流れが見えることによりリズムや継続性も見えるようになるのではないだろうか。



 ふと、人生設計にも似ているのかな…なんて思えてしまった。

 夕方になって買い物ついでに外出。少し風があって気持ちいい。
 ネギは高値で推移。鹿児島産の大きいジャガイモが1個33円になっていた。熊本地震で混乱したであろう九州も少しずつ復興に向かっているということだろうか。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:110回

2016年5月19日木曜日

構成

 外出の必要があったので自転車を出した。風はいくらかヒンヤリしていたが、よく晴れていた。それもつかの間、自転車を走らせているうちにまもなく暑いくらいになったので上着を脱いで長袖を腕を捲り上げる。


撮影:2011/05/19

 書店に入って何冊かの本を手に取る。一応流れをチェックしている漫画に目を通したが、どういうわけか内容が頭に入ってこない。若い頃なら夢中になったであろう他の漫画にも興味がわかない。ただ、コマ割りの構成が気になっていた。それからデザイン書を何冊か手にとってページを捲った。すると漫画のコマ割りのイメージとデザインのレイアウト構成のイメージが脳内で化学反応を起こした。思いついたイメージを逃さないうちに形を捉えたくても外出中である。せめて帰宅してから取り組もうと思い自宅ののパソコン宛にメモをメールした。
 デザインのレイアウトにも漫画のコマ割りにも苦手意識があってコツがつかめず毎回苦悶しているのだ。
 それから産直の店やスーパーはしごしてをネギを探し回る。端境期に当たるのか希望価格より軒並み高いので見送ることにした。ジャガイモもまだ高値のようだ。ホームセンターでは遮光シートの相場をチェック。西日が当たって室温が上がるのでエアコンの使用頻度を抑えたいと考えてのことだ。よしずやすだれなら比較的安価なものがあるが人工素材のものだとグンと高くなる。結局、今日は確認のみとした。さらに2軒のスーパーを回ってみたもののネギは手に入らず。大きなアジが半額だったので購入。そして鹿児島産のジャガイモが安かったので良しとして帰宅した。

 帰宅すると、自分宛に送ったメールが届いていて、漫画のコマ割りのことを思い出す。以前にも同様のことを考えたことがあってコマ割りパターンを一覧で見られるようなデータを作りかけていた。ただ、以前は定型のパターンだったので単調で面白味に欠けていた。今になって見直すととても使えた代物ではない。今回は書店で浮かんだイメージを活かしつつページを構成を考える。現在のベージは絵を先に描いて収まりを考えながらコマ割りをしているため出たとこ勝負の成り行き任せになっている感が否めないのだ。
 畑作りは土作りである。野菜を介して土を食べているという見方もできるのではないかと思う。では、漫画作りはなんだろう。土台となるコマ割りも大切な意味をもつのではないだろうか。意図としては、コマ割りによってリズム、流れ、躍動感、インパクトといった要素を表現したいと考えていた。
 今日はイラレに向かってとコマ割りのパターン作りのつもりだった。気がつけば訓練とか練習のようになってしまいパターンとしてはほとんどできなかった。

 夜になって塩焼きにするためにアジと格闘。普段やらないので包丁がコワイ。なんとか3枚にしたが、焼いているうちに身が崩れてしまったのでどうやら2枚で良かったらしい。それでも刺身を料理の数に入れなければ、魚料理は久しぶりのような気がするので美味しくいただいた。脳の活性につながるだろうか。

 寝る前に米を洗っておこうと思い炊飯器の内釜を洗おうとして派手に水をひっくり返した。どうやらまだアジの効果は出ていないらしい。


腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:110回

2016年5月17日火曜日

軌跡

 朝、気温が12℃と表示されていてちょっと目を疑った。そのせいか室温は20℃あるのに肌寒い。


撮影:2013/05/18


 昨日、1日無駄にしてしまったこともあってか描く意欲だけはあった。これまでの絵がひどい駄作に見える症状が出ていたから自分が成長したからではないかとの錯覚を感じつつ机に向かって描き続けた。こういう時は大抵気持ちばかりが先走ってうまく描けないものである。案の定、鉛筆は快調に走るかに見えて芯を捉えられていない感じだった。それでも描く。
 脳がある一定の条件を満たすと意図した線が描けるようになり、思うような絵に近づけることができる気がする。どうすれば条件を満たすことができるのかが解って思うままにスイッチを入れられるようになれば、自然に描けるようになるのではないかと思う。

 noteを始めて丸2年。ここまで漫画に取り組むことになるとは思っていなかった。
 思えば、転職を繰り返す中で「自分が何をやりたいか」よりも「自分に何ができるか」ということがより重要だと考えるようになっていた。思うような仕事など出来ないのが当たり前だったから気持ちを切り替えなければ生きる道を選ぶことさえ容易ではなかったのだ。それで「自分に何ができるか」と探している間に「自分が何がやりたいか」を見失った。いつのまにか開かずの間に封じ込めてしまった「やりたいこと」は、もしかしたらそのまま一生お蔵入りするはずだったものなのかもしれない。

 いっそのこと夢とか希望なんて初めから持たない方が良かったのではないとか思うこともある。社会は意志があることより需要に応えられることや希望に沿った働き方をする人の方が上手な世渡りができるような気がする。
 皮肉にも自分のやりたいことは挫折を繰り返した先にあった。最後まで挑戦することがないまま残されたもの。だからこそもう逃げも隠れも出来ないではないかと思う。
 もし、夢も希望も持たずに挫折を繰り返していたら立ち直る気になれただろうか。

 夢のために挫折があったのか。
 挫折のために夢があったのか。
 
腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:103回

2016年5月16日月曜日

徒労

 月曜日ということもあってかいつも以上にノリがよくない。腕立て伏せが1回目で100回をこなせないのも久しぶりのような気がする。
 このブログでの写真はこれまで写真サービスのPicasaで管理していたが、Google Photosとの統合によりPicasaは終了することがアナウンスされていた。では、このブログでの画像管理はどうなるのだろうと思っているうちにどうやら予告されていた期限になったようだ。今日、いつものように画像を投稿しようとしたら連携機能が使えなくなっていた。以前にもGoogle Photosからリンクする方法を模索したのだが、よく解らないままになっていた。仕方なく改めて調べてみたところ、画像から直接URLを取得してHTMLタグでリンクすれは良かったようだ。HTMLの基本的なタグを忘れてしまっていたのでちょっと慌ててしまった。それだけ便利さに慣れてしまっているのだろう。

撮影:2012/05/17


 昨日、制作していた漫画の準備稿をアップロードしておくことにした。見栄えを確認しつつ次の展開を探る意味もある。
 それからこれまでの作品を確認していたらHDRの記事に目が止まった。更新するつもりでいてそのままになっていたことを思い出した。


「昨日撮影した夕景の写真をHDR風の写真に合成できるかもしれない。」
 本来HDRは同じ構図で露出を変化させて撮影する。撮影した数枚の画像を使用して1枚の写真では再現できない明るすぎる部分や暗すぎる部分をカバーするのだ。したがって、数枚の撮影は構図を固定するために三脚などを使用して連写することが望ましい。ただ、三脚を持ち歩いていないことの方が多い。手持ちのコンパクトデジカメで同じ構図のまま露出を変化させることは容易ではない。そこでいっそのこと2枚の違った画角で露出を変化させた写真をHDR風に合成することを思いついた。夕暮れ色に染まった空と夕闇に沈んでいく麦畑をひとつの画像として成立させるのだ。
 通常、このような撮影の場合、空が白飛びするか大地が黒く潰れるかのどちらかとなる。露出を変えて複数枚撮影することによって適正露出の良いとこ取りするのだ。
 ところが、毎度のようにレンズの歪曲収差のことを忘れている。広角で撮影するとレンズの歪みが生じるのだ。パノラマ撮影の場合なども構図を変えることで歪みが出るため歪曲収差の補正が必要となる。HDR風の画像合成ではパノラマのように左右に構図を移動させて撮影するのではなく上下に構図を移動させる。重なった部分を違和感なく合成させる必要があるが、レンズの歪曲収差によってズレがうまく重ならないことがある。光学的に当然の結果だと思う。そこを半ば力技で合成する。ほとんど写真で写真を描いているような感覚になる。
 今回はこの歪みの調整がどうしてもうまくいかない。以前はどうやっていたのかと不思議に思う。思いつくままに色々な手を試した挙句、結局結果が出せなかった。HDRの画像を編集するならやはり同じ構図で撮影する方があとで悩まなくて済むということだ。

 月曜日は調子が出ないことが多いとは言え、手応えのないまま今日という日が終わって行く。

腕立て伏せ
1回目:90回
2回目:110回

2016年5月15日日曜日

本領

 本日も快晴。
 昨日スキャニングしたカットを元にデジタル作業からスタート。例によって正解のない作業なので試行錯誤となる。もう2年前から手がけている作品なのでもう答えを出さなくてはならないのはわかっていも「これで行こう」と納得できないのは何か物足りないからに相違ない。構成としては色運筆による手描きの背景とペンとインクによるカットを配置。イラレで彩色という流れ。
 フォトショによる彩色ペンタブを使えない状態ではエアブラシのような表現になるだろう。ボカシを活かし細密に描き込むなら有効だとしても時間と手間がかかりすぎる。
 彩色の作業をイラレにしたところで大して効率を上げることにはならない。フォトショと比較してエッジの扱いは比較的楽かも知れない。それからカラーパレットや混色も容易だ。

撮影:2016.05.15

 今日は手描きも少し進めておきたいと思いつつ、デジタル彩色で時間がかかってしまった。1カットにこれほど時間をかけていたら漫画の作品なんていつまでたってもできるわけがない。

 夕方になって買い物ついでに外出。部屋は結構暖かかったのに外に出てみたら思ったより空気が冷たかった。牛乳パックだの空き缶だのとリサイクルに出しつつスーパーに立ち寄ると箱入りの蕎麦が安く売っていたので購入。毎朝の朝食を食パンと決めていた頃は数日に一回は買いに行かなくてはならなかった。そのこだわりがなくなってしまった今はある意味で自由だと思う。買っても買わなくてもいい。賞味期限のある食品を購入するとそのペースに縛られることになる。
 こう…どうでもいいような些細なことに気を取られて本流を見失う性格はなんとかならないだろうか。
 気がつくと夕陽が沈もうとしていた。そういえば随分日が長くなっている。一旦買い物の荷物を自宅に置いて近所まで夕陽を撮影に行くことにした。
 沈みかけた夕陽が青々と茂る麦の穂先を明るく染めていてハッとする。麦秋は6月だったろうか。すぐ近所だというのに気づかずにいた。写真を撮ろうとカメラを取り出したら電池が入っていなくて慌てて自宅に戻って出直す。その頃には夕陽が山の向こうに隠れていた。夕陽に染まる田んぼはまだ明るい。つがいと思われる鴨が田んぼの端で何やら漁っているようだ。人の気配に気づいて離れていく様子は夕陽の中を泳いでいるようだ。
 彼らはどうやってパートナーを選び何を基準にその田んぼを選んだのだろう。彼らの方が生き方に長けているではないか。何が得意でコンディションがどうであろうと関係ないのだ。あるがままに生きてあるがままに生命を全うするのだろう。
 シンプルで美しいと思えてしまう。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:108回

路傍

 今日も晴れ。気温が上がってきたので部屋着を作務衣仕様に変更。気温の変化が大きくてファンヒーターに灯油が入ったままなのが気がかりだ。西の方では既に室温30℃を超えているところもあるらしい。
 時折、若い頃に登った富士山のことを思い出す。
 装備などをある程度準備をしたつもりだったが、体力の準備はできていなかった。おまけに深夜の高速を走って出かけたため体調のコントロールもできていない。今にして思えば登山中の苦しさは高山病だったのだろうと思う。一緒に行った友人には先に登るように伝えて一歩一歩這いずるような感覚で登っていた。
 今はどうなのだろう。
 日々一枚一枚描く感覚が苦しみながら這いずるように想いで登ったあの時の感覚を呼び起こす。

撮影:2010/05/15

 今日も調子がいいとは言えない感じでありつつも机に向かった。昨日と同様、少し厚手の上質紙に恐る恐る描いていく。毎日描いているのでそれなりに枚数は溜まっている。それでも納得行かないのでひたすら描き続けているのだ。
 絵が描けるからといって漫画が描けるわけではないという話を時折目にする。つまりは何カット描いたところで漫画として構成できる絵でなければ意味がないということになる。イラストとして仕上げるなら1カットで完結している必要性があるだろうし、漫画として構成するなら動きのあるカットや後ろ姿なども必要となるだろう。
 最近描いているものは漫画として構成することを頭に置いているから、ある程度収まるはずだと思いつつ何となくしっくりこない。しばらく描いてみて溜まっているカットを確認してみた。スキャニングして配置してみたいカットを集めると12カットほどあるようなのでまずはスキャニングすることにした。
 カット数は12枚。下絵もあるのでそのまま使えるわけではない。旧型のスキャナーは昔よりは早くなっているとは言えそれなりに時間がかかる。まとめることでいくらか効率的にはなっているだろう。もっとも効率的なのは手描きのカットは手描きで完成させてデジタルはデジタルで完結させることなのかもしれない。現状の実力と環境ではそれができないのが辛いところだ。
 何枚か彩色してみたところ思うような仕上がりには程遠い気がした。
 手が届きそうなほど近く見えているのになかなかたどり着けない。それは頂上への道程なのだろうか。どういうわけかこのままたどり着けないことを願っている気もする。
 

腕立て伏せ
1回目:102回
2回目:105回

2016年5月13日金曜日

生活


 晴れ。暑くもなく寒くもない。
 こんな気候の時は温泉にでも出かけたくなる。もちろん雪を眺めながら入る温泉もいい。
 
撮影:2006/05/14

 作画のため机に向かうと昨日の不調感は解消していて調子は悪くないようだった。
 今日は紙をアップグレードしてみようと考えていた。作画が安定しない一因が紙質でもあると考えられる。ただ、快適な状態ではないからこそ鍛えられるのではないかとも思っていた。調子そのものが悪くないのであれば、紙質が良くなれば快適に描ける可能性がある。以前にも同様のことを考えて少し厚手で平滑な紙面の上質紙が準備してある。前回は調子が掴めていなかったこともあり不安定なまま安定させることができなかった。紙質が変化することでコントロールを微調整する必要がある。これが上手くいかないと折角掴んだ調子を崩すことになる。幸い今回は力まない方向に調整している。
 何枚か描いてみるとやはり鉛筆の走りが良い。滑りが良いと言った方がいいだろうか。安定するには至らなかったが、感覚としては悪くない。問題はベン入れなのだ。

 天候が良いので外出して身体を動かしておくことにした。近所のショッピングモールまで自転車で出かけて散歩だ。
 金曜日なので混んでいるかと思いきや予想より来店客は少ない様子。GWも終わったことなので一段落というところだろうか。客がいなくても店員は決められたスペースで時を過ごすことが仕事。食品コーナーの客がまばらなのだから衣料品関係となると貸切の様相を呈する。店員さんはどんな想いで日々を過ごしているのだろう。
 衣料品コーナーでなんとなく価格をチェックする。夏向けのシャツが3,000円弱。考えてみると春夏物であろうが秋冬物であろうが同じような価格帯ではないだろうか。予算を立てやすくなるのは良いとしても使用している布の量や質も違えば縫製だって違うだろう。にも関わらず価格帯が同じというのは考えてみると不思議な気がした。
 結局、何も買わずにショッピングモールを出てスーパーに立ち寄ると三陸産の海産物を販売している人と目が合った。気さくな男性だったので少し立ち話になった。
 聞けば県内各地を回っていると言うので「大変だねぇ。」と言うと「いやぁ、あちこち見て回れるから飽きないですけどね。」と言う。スーパーも来店客がまばらで海産物の販売も振るわないらしい。金曜日だから夕方になったら混んでくるのではないかと励ましてみるも「いやぁ、今日はこのままでしょう。赤字ですよ〜。」と消極的だ。ふと、ショッピングモールで来店客を待つ店員さんを思い出す。その話をすると「そうそう。あれは大変だと思う。」と同意していた。以前に「めひび」と言う海藻を買ってみてそばの出汁などに重宝したことがあった。どうやら「乾燥して刻んだめかぶ」のことらしい。その人が販売している商品の中にも「乾燥して刻んだめかぶ」があった。値段を確認すると一袋1,000円。美味しいことはわかっていても予定外出費としてはちょっと覚悟が必要な価格だった。直後にお客さんらしい人が「ワカメくださいな」と立ち寄っていたので何故かほっとして店を出た。

 店で何かを購入する時、物理的に手に入る物を買っている感覚でいる。しかし実際にはその製品を販売するために関わっている人の生活を買っていることになるのではないだろうか。客がいなくても決められた時間内は店を空けることは出来ない店員さんの時間もまた保証されていなくては生活が成り立たない。材料の仕入れから加工、流通、販売に関わっている方々の数はどれくらいになるのだろう。客として商品を手に取る場合、しっかりした安い製品であるに越したことはない。しかし、それが生活を買うことだとすると意味合いが違ってくるような気がする。同じような価格帯という基準から考えたことだが、それは様々な価格帯に関しても同様なのだろう。

 制作者としての立場としてはどうなのだろうと考えてみる。作品は生活であると言えるだろうか。生活を売ることは出来ているだろうか。生活を買ってくださいと言えるだろうか。


腕立て伏せ
1回目:110回
2回目:110回

2016年5月12日木曜日

必要

撮影:2008/05/13

 必要としている人のところに集まらず、足りている人のところには必要以上に集まる。
 それはお金に限ったことではなく技術や幸福感もそうなのかもしれないと考えてみる。

 大きな川のほとりで暮らす人にとって水は潤沢にある身近なものであるように砂漠に暮らす人にとって砂はありふれたものである。

 技術を持つものにとって技術は生活の糧を得るために必要なものであり、なくてはならないものである。しかし、その技術を身につけるためには長い時間と努力を要するはずだ。技術が必要になった時、お金を持っている人ならば対価を支払って役立てることが可能かもしれない。
 では、幸福感はどうだろう。
 笑いだったり感動だったり充足感だったりという幸福感が得られるならお金を持つ人も技術を持つ人も喜んで持っているものを提供できるのではないだろうか。ただ、お金以外の技術や幸福感などといったものは数値化することが難しい。だから経済価値至上社会になりがちなのではないか。

…というのも「描く」ということについて考えていた。
 イラストにしても漫画にしても昔からは考えられないほど多く利用されている。そして描いている人はかなりの数に上るのではないだろうか。その技術を活かせる機会は多いとは言えないしマッチングもうまくいっていないように感じることがある。潜在的な必要性はあるはずだからまだまだ発展途上なのかもしれない。日本の場合、描くという行為に対する評価が高いとは言えないだろう。対価についてもおざなりにされがちだと感じるのはそのせいだろうか。
 そうした中で描くことがどんな役割を持つのだろうと思う。
 例えば自叙伝を遺したい人の挿絵であるとか漫画化ということを考えるとおびただしい数の需要があるはずではないだろうか。しかし、対価の問題もあるし制作期間や打ち合わせなど多くのハードルや難関が想定できる。気に入ったタッチの作家と巡り合うことも容易ではないだろう。

 そんなことを考えながら作画を始めたせいかひどく調子が良くない。昨日まぁまぁだと思っていた絵がとんでもない駄作に見える。昨日調子いいと感じていたのが錯覚なのか今日の感覚が狂っているのかわからない。とにかく描き進めることにした。進行中の作品がないので暴走気味なのかもしれない。夜になってやっと少し感覚がつかめてきた。エンジンかかるのが遅かったのだろうか。

 いつか必要とされる作品を描きたい。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:107回

2016年5月11日水曜日

知恵

 曇り空の朝。昨夜は雨が降ったようだ。

 起き上がれないほどの腰痛に悩まされたことがある。今考えれば精神的な影響もあったのだと思う。仕事で腰に負担のかかる姿勢が多かったことも原因ではないだろうか。そして運動不足でもあった。若い頃は担ぐことだけでも大変な写真機材を役所の上の階まで階段を使って上がらなくてはならない場合もあった。
 そこに様々な精神的負担が大きくなったせいだろう。ぎっくり腰とか極端なものではないものの朝は起床しても起き上がるまで数時間を要した時期があった。それから長い時間かかってなんとか回復したが、身体を使った仕事を敬遠するようになっていた。

撮影:2013/05/12

 そんなある時「頭を使った仕事すればいい。」とアドバイスをもらった。もっともな話だ。体力を要する仕事にこだわる必要はない。ただ現実にはそういう求人を探すのは容易ではなかった。頭を使った仕事に向いているかという点も疑問である。

 そして時は流れ、知恵を使わなくてはならない局面である。
 知恵を使うとはどういうことなのだろう。与えられた仕事や注文に対応する仕事をこなすことに慣れると発想の種は上司や発注者にあることが多い。主導権がないまま勝手なことをしようものなら予想外の事態に陥ったり仕事を失ったりしかねない。工夫しつつ従順にサポートに徹することが必要なのだ。
 もちろん工夫も知恵のひとつだろう。一生懸命頑張るだけではない。効率や機能性などゴールまでスムーズに仕事を進めるために工夫という知恵は必要だ。
 現在やってるいことは発想の種はあってもゴールがない。完成形を手探りしているのだから工夫するのが容易ではないのかもしれない。

 今日も手描きによる作画の続行。
 どうすれば納得できる絵になるのか試行錯誤が続く。工夫というにはあまりに稚拙だ。それでも主導権がある以上、逃げも隠れも出来ない。
 数日前から描き込み過ぎないシンプルな線を手探りしている。一生懸命描けば次第に描き込んでしまう。手を抜けばデッサンが狂ってしまい絵にならない。今日は一見ラフスケッチのようなネームを何枚も描いた。そのうちに少しだけ加減がわかりかけた気がする。100%集中するのではない。感覚的には80%でもまだ多い。30%程度に加減することで気持ちにゆとりが生まれ視野が広がる。集中にこだわるあまり全体への意識が向けることが疎かになっていたようだ。思うに100%集中しようとしても実際には気が散っているのだ
 パソコンのメモリ使用領域を確保することに似ているかもしれない。そのタスクでどれくらいのメモリが必要になるか分からないので予め割り当ててしまう方法だ。実際の使用メモリが小さくても確保してしまっているので他のタスクが利用することはできない。使用するメモリ領域を小さく見積もることができるなら空いている領域を他のタスクで利用することが可能になるわけだ。

 力を出し切るとは、ただひたすら集中することではなくもちろん手を抜くことでもない。完成形を思い描きつつ全体のバランスに配慮して最善の方法を選択することなのかもしれない。スポーツ選手とて同じではないかと改めて思い至った。

 日々同じことを繰り返していると少しの変化を持たせることすら容易ではない。疑問を感じていないから工夫することすら必要ないのだ。しかし、それが長期的に継続することで思考パターンが定型化していくだろう。臨機応変が億劫になり知らぬ間に融通の利かない頑固頭になっていく。
 一言で知恵を使うといってもやり方は様々だろう。言うまでもなく100%分のメモリ領域を拡大するための努力を怠ってはならない。


腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:110回

2016年5月10日火曜日

手法

 雨天スタート。
 昨日鉢植えにしたシソは喜んで元気な様子。アパート前はアスファルトで夏はかなり熱くなる。頃合いを見て室内に入れた方がいいだろう。

撮影:2012/05/11

 下絵を描いてペン入れをする場合、消しゴムをかけた時のイメージの変化は避けられない。しかも鉛筆で描き込めば描き込むほどギャップが大きい。当然のことだ。そしてその手法を良しとしてきた。しかし、昨日描いたカットは下絵の線の段階からシンプルにしたためペン入れの際に大きなズレを感じなかった。これも当然。
 こうして考えると、下絵を納得行くまで描き込んでペン入れで本番という考え方を改めた方がいい気がしている。むしろ下絵が本番なのだ。無駄な線を極力排し下絵からシンプルに仕上げる。そのためにたくさん描いて描き込んで脳に刷り込みをする必要がある。先に脳内にイメージを形成してから新たに下絵として描くするのだ。
 以前なら先にイメージがあるように感じていたはずだ。しばらくそれを見失っていた気がする。

 そこで今日は、昨日に引き続き手描きによる作画の続行。鉛筆による下絵の段階から本描きの心構えでイメージ先行を意識する。油彩画より水彩画の感覚に近い。失敗や描き直しは考えないようにする。
 しばらく描いてみて昨日の感覚がつかめないことに気がついた。意識するポイントを少し変えたせいだろうか。作画の際に意識する課題が多いと統制がとれなくなるのかもしれない。バランスが問題なので一つ一つの課題をものにしていく必要がある。
 これまでに描いたキャラクターを描きながらそれぞれの特徴を確認し作画タッチを確認する。昨日掴みかけた感覚は精神状態にも左右されていたのだろう。たった1日とはいえ精神状態は同じではない。昨日描けたはずの線が再現できない。辿々しいのはまだ自分のものになっていないせいだろう。
 感覚は薄い羽衣のようなものでつかみどころがない。極たまに偶然のように身に纏うことができる。それを偶然ではなく意図して自由自在に操る必要がある。


腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:107回 

2016年5月9日月曜日

種子

 蒔かぬ種は生えぬ。

 天候が良く朝は少しひんやりしていた。
 先日から近所の苗屋さんで売っているシソの苗が気になっていた。1ポット80円。今までにも色々試したりしたこともあってプランターや植木鉢はある。問題は土なのだった。近所のホームセンターで安売りになることはチェックしていたが、自転車で運ぶには重いし距離的にも不安があった。

撮影:2011/05/10

 身体を動かす目的もあって取り敢えず自転車を出した。まずは書店へ向かいつつペダルを踏む。途中、しばらくご無沙汰していたギャラリーに立ち寄る。近況報告的な世間話に終始したが、漫画やアート系のお話を心置きなく出来るのはありがたい。いつものこととは言え、今日も手ぶらで伺ってしまった。
 書店に着いていつものコースを歩く。ふと将来の書店の姿が見えたような気がした。そのイメージは、ネットでの販売が主流となる近未来である。書店の存在意義はネット販売の作品や作者の展示場意味合いが強くなっていて作品はカタログのようなものになっているというものだった。これまでの書店はより多くの作品を販売するためにたくさんの書棚とより広い販売スペースを必要としていた。CDショップがすでにそうであるように将来的には縮小を求められるのかもしれない。そんな妄想しつつ、隣のCDショップを通ってまた隣の産直スペースへ。そろそろ山菜シーズンも終わりだろう。
 それからまた産直の店とドラッグストアを経由してスーパーに立ち寄りホームセンターへ。
 ホームセンターの店頭では、時期的に野菜などの多くの苗が並べられている。14リットルの袋入り野菜と苗用の培養土が197円。購入するのはいいとしてやはり重さが問題だ。持った感じでは米10kgと同じくらいだろうか。しかし、夏に向けてシソの葉があると何かと便利だ。少し思案して購入。案の定かなり重かったが、何とか持ち帰ることができた。
 一旦帰宅して、最寄りのスーパーへ行ってから苗屋さんに向かう。チェックしていたシソの苗をひとつ購入しようとして対応してくれた店員さんにびっくり。以前にお話したことがある方だと思うのだが、見違えるほど美しくなっていた。苗屋さんに花が咲いたようだ。浮かれ気味で精算してもらおうと伝票を片手に店内へ入るとそれほど広くない店内はおばさま方がひしめいていた。余裕のあるそぶりで店内をウロウロしていたら後から来たおばさま2〜3人が先にレジに並んでしまった。
 何とかシソの苗を購入して帰宅し、空いていた植木鉢へ植えかえようとしていたところ、まだ播いていない十数種類の野菜の種の袋が出てきた。その中にはシソの種もある。何年か前に購入したものなのでもう出ないかもしれない。

 可能性の種はどうだろう。
 いつか役に立つかもしれないと考えて道具を揃えたり環境を整えたりしてきた。それは言わば土だろう。そして鉛筆やペンを持って紙に向かう。
 描かぬ絵は描けぬのだ。

 夕方になって机に向かう。
 昨日は調子がつかめなかったが、あれこれと動いたせいか今日は作画の調子が悪くないようだ。ここ数日掴み損なっていた感覚に少し触れたような気がした。可能性の種子は果たして発芽するだろうか。


腕立て伏せ
1回目:96回
2回目:103回

2016年5月8日日曜日

自信

 晴れ。風強し。
 制作を進めようと3Dソフトを起動。古本屋の予定だったが、会議室の方に着手した。設定項目が多いので相変わらず思うように作画が進まない。それでも一歩一歩進んでいるはずだ。たぶん。
 コツコツやっているように言ってはみても基本を教わったけれでもない。ただ必要だから取り組んでいる。準備も訓練もなく目的を決めて山に登るようにものだから道に迷ったり怪我だったり遭難したって不思議ではない。
 ある程度形ができてきたところでイラレにレイアウトしてみる。するとちょっと予想と違う仕上がりになって面白い。前回の作品は色をふんだんに使っていたが、少し絞り込んだ方が良さそうだ。

撮影:2011/05/09

 気のせいかもしれないが、3Dソフトに取り組んだあとは疲労が残る。休憩を入れながら次は手描きでの制作。
 昨日少し掴みかけていると感じた感覚は見事に霧散していた。3Dソフトを挟んだせいだろうか。どうやら使っている脳組織のコンビネーションが違うらしい。いい感じで描けていると思えていた下絵は見事台無しにした。描き込んで描き込んでシンプルなラインに行き着くことが目的。思えば、油彩を描いていた時もそうだった。何度も何度も描き直して塗り重ね、やっと描き上げたシンプルな線は面白味のないつまらない仕上がりだった。その過程を見ていた教室の先生には取り組みを評価していただいた。表現というよりは屁理屈のかたまりだったのかもしれない。
 自信がないせいだろうか。
 おそらく屁理屈の根源は批判や批評に対する自己防衛なのだ。
 子供の頃は、どちらかと言うといじめられる側にいることが多かった。体力もなかったし意図的にいじめられていたのではなく遊ばれていただけだったかもしれない。その傾向は大人になっても続いていた。そのせいで批判を躱したりやり過ごすために屁理屈で自己防衛することが身についてしまっているのではないか。それが作品に出ているのなら良い絵が描けるわけもない。

 自信を持てば自由になれるだろうか。
 本当に描きたい絵は描けるだろうか。


今日の予定
1.手描きによる作画:△
 曲線と曲面を意識。思うように描けなかった。
2.3Dソフトによる制作:△
 会議室

予定外取組状況
1.イラレによるレイアウト。ネームのプロット。


腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:101回

2016年5月7日土曜日

修行

 朝、曇天。
 暑くもなく寒くもなくうたた寝するには…いや、制作に都合がいい。
 今日は手描きの制作の方を進めてみた。
 例によってはじめは調子が良くない。描き進めているうちに少しずつ感覚が掴めてくる。理屈で描こうとしているうちはやがて行き詰まることは目に見えている。




 物の形を捉えるために描き込むことは悪いことではないだろう。いや、むしろ繰り返し描くべきだろう。ただ、調子の良い時には思いがけずシンプルな線で表現できることがある。今日もそんな感じだった。そこでシンプルな線を追求しようとしてまた描き込んでしまうのも毎度のこと。

 今日の予定には3Dソフトによる制作もあったため、夕方になる頃に切り換えた。
 制作しているのは会議室。まだ慣れないソフトなので思うように出来なくて四苦八苦。同じことを何度も繰り返しているような気がする。いや、実際そうなのだ。迷路に迷い込んだ状態なのだ。手描きが調子が良い時に3Dソフトで調子を崩すことがあるので注意が必要だ。

 テレビで禅の修行の話をしていた。
 修行は早くやるだけではダメ。一生懸命やるだけではダメ。知恵を使うことが大切だと。漫画もまた早く描くだけではダメであり描き込むだけでもダメなのだ。知恵を使うことが大切であり、ひとつのことに打ち込んでいる人には誰も勝てない…と。
 何か生きた証を残したいと思っていた。それで作品を残すことを目的にしていたが、考えてみれば、ボクは作品をあの世に持ち去ることは出来ない。ボクがいなくなった世界に作品を遺したとしてボクにとってなんの意味があるのだろう。たぶん作品を残そうと打ち込むことが大切なのだ。その行為そのものが生きた証なんだろう。


今日の予定達成確認
1.…海風の中で。:◯
 手描きによる作画。比較的調子が良い。
2.新作準備:◯
 3Dソフトにて背景制作。また作業が自分のものになっていないため試行錯誤で悩むことが多い。
3.次作準備:×

今日の予定外取組状況
1.手描きの調子が悪くないので途中になっている作品を中心にあれこれ作画。


腕立て伏せ
1回目:106回
2回目:103回

2016年5月6日金曜日

思索

 アンケート調査依頼が来ていたので協力しなくてはならないかと思い、開いてみたら質問の意図がわからなくて問い合わせ。関わったことのない項目の満足感を問われてもわかるわけがない。誰が作ったアンケートなのかと甚だ疑問に思った。アンケートというものは意外と作るのが難しい。


撮影:2009/05/07

 アンケート投函のついでにショッピングモールを歩いてアイディア練りを兼ねて想像を巡らせる。
 衣料品コーナーで思う。以前に中国の少数民族による手芸展を鑑賞する機会があった。その精緻な技に圧倒された。親が子に対する愛情表現としての手芸だ。そのエネルギーたるや並大抵のものではないのだ。一方で現代日本はどうだろう。シンプルで安くてしっかりした衣料が手に入る。それがそのまま悪いことではないが、愛情表現の機会を逸し技術を習得する機会を逸していると見ることはできないだろうか。現代は忙しいのでそんなことをする時間があったら他に使いたいのは山々だろう。しかし、もしそれもひとつの「幸せの形」だとしたらどうだろう。自らが手放していることにはならないだろうか。

 もしかしたらAIの進化により人類は考えることまで放棄してしまう時代になるかもしれない。難しいことはAIに任せればいい感じにやってくれるのであれば、人間は考える必要がなくなるだろう。依存度が高まれば主体性も無くなるだろう。そうなってから何とかしようとしても後の祭りである。もはや個人の力でどうこうできる時代ではなくなっているだろう。もっとも現代とて個人ができることなど高が知れている。それでも自分で工夫したり考えたり悩んだりすることはまだ可能なのだ。

 得るものあれば失うものがある。社会の進歩が個人の退化にならないよう気を配る必要があるだろう。

 AIが絵を描き、音楽を奏で、物語を書くようになったとしても、創作することは個人の幸福感に根ざしている。工夫し、考え、悩むことが自由なのだ。それを手放すことだけは避けたいものだと思う。

 今日は思索の時を得て創作の時間を失ったようだ。



今日の予定達成確認
1.次作準備:×
(虹色ティッシュの番外編とするか検討中。3Dソフトにて背景制作:古本屋)
2.新作準備:×
 アイディアを作品にする準備(3Dソフトにて背景制作:会議室)
3.…海風の中で。:×
 途中になっている作品を夏に向けて制作を模索。手描きによる作画。

4.買い物:◯

 ショッピングモールを歩きながらアイディア練り。またしても牛乳を忘れそうになるも辛うじて思い出した。

今日の予定外取組状況
1.noteの漫画作品進捗状況確認と整理
2.noteにカモシカの写真を投稿


腕立て伏せ
1回目:110回
2回目:115回

2016年5月5日木曜日

進捗


 曇天から晴天。風強し、そして雨からの晴れ。
 目まぐるしく変わる天候を気にしつつ制作進行。

撮影:2014/05/06

 今日の予定を書き出して進捗状況を◯△×で確認してみた。
1.虹色ティッシュ:◯
 p05・p08背景修正(3Dソフトにて背景制作:公園)
2.次作準備:×
(虹色ティッシュの番外編とするか検討中。3Dソフトにて背景制作:古本屋)
3.新作準備:△
 アイディアを作品にする準備(3Dソフトにて背景制作:会議室)
4.…海風の中で。:×
 途中になっている作品を夏に向けて制作を模索。手描きによる作画。

5.買い物:△
 洗濯洗剤・牛乳・ジャガイモ他。
 目的の洗剤が高いので別の製品で代用。
 ジャガイモが高いのでカボチャで代用。
 牛乳の購入を忘れていた。

 こうして書き出してみるとやりたいことと出来たことのギャップがわかる。制作に関しては半分も出来ていないことになる。思い出してプロジェクト管理ソフトを探してみた。2年前、クラウドソーシングの進捗管理に使っているソフトがあったが、イマイチ使いにくい印象があった。無料ソフトなので制作してくださっている方には申し訳ない。1年半前にもプロジェクト管理をやろうとしていた形跡が残っている。1年半前はまだリズムも流れも方針も決まっていなくて計画の立てようもなかったのだ。

 ざっくり探してみるとクラウド系のサービスが目につく。クラウド系のサービスは使い方によって便利だが、新しくアカウントを作る必要があったりするのが煩わしい。見えない所での挙動がわからないのも心配の種だ。サービートラブルやバグの問題など原因究明が難しくなる。可能ならクラウドはバックアップ程度に考えたい。

 結局、2年前に使っていたソフトに行き着いてしまった。ただし2年の間にバージョンアップが進んでいた。早速ダウンロードしてみると使い難いと思っていた部分が解消されていた。新たな増えた機能は確認できなかったが、少なくても安定して使いやすくなっていれば充分だ。プロジェクトごとに進捗を管理できるのでどれくらいの時間を要しているかも把握しやすくなるのではないだろうか。もっともきちんと記録する必要があるので実行出来るかどうかの問題の方が大きいのかもしれない。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:105回

2016年5月4日水曜日

空転

 朝は雨が降っていた。
 昨日、出かけて良かったとホッとする一方で昨日の帰りに先送りにした買い物には出られないかと残念でもあった。

撮影:2012/05/05

 昼過ぎになって急に晴れたようだったのでこのタイミングを逃すまいと自転車を出す。雨上がりの空は澄んでいた。カレーを作りたくてジャガイモの安売りを狙っているのになかなか安くならない。3個100円が当たり前になっていると1個58円のジャガイモにはなかなか手が出せない。衣料品店で下着やTシャツが安かったので購入した。ジャガイモを買った方が良かっただろうか。衣類の買い物が予定外だったのでスーパーで買った食パンがディバッグの中で変形していた。
 遠回りしたつもりもないのに帰ってからやる気が出ない。昨日の疲れも残っているのだろうか。そんなことは言い訳にならないと机に向かって作画に取り組んでみたもののやっぱり長くは続かなかった。だんだん疲れやすくなるのかなぁと思ってみたり、昔からこうだったような気もしてみたり…。出来ることを出来る時に取り組むために出来る限りコンディションを整える必要があるだろう。

 夜になってまた机に向かってみた。途中になっている作品を手探りで掘り起こしている感じだ。何枚か作画してみても調子が掴めるわけではなかった。ただ、明日のために闇雲に描いているだけなのだ。

 作品を一本描き上げてから空転が続いている。


腕立て伏せ
1回目:104回
2回目:105回

成長

 久しぶりに天候が落ち着いたので自転車を走らせることにした。
 前回採れなかったコゴミの確認である。あっという間に10日間が過ぎ去っていたわけだが、サクランボやモモ、ラフランスの花は既に終わりを迎え、リンゴの花が最盛期。野にはタンポポ、菜の花、藤の花が花期を迎え、公園などではサツキやツツジが花を咲かせていた。
撮影:2007/05/04

 そろそろ環水平アークの見られた季節ではないかと何度か空を見上げたが、今日は出現しなかったようだ。帰って確認すると2011年の5月3日だった。

 今年は暖冬ということで季節の進行が早いと言われている。実際、桜の開花も早いと感じていた。ところが、毎年確認しているヤマザクラは早すぎる印象ではなかった。そしてコゴミである。産直の店での山菜の出方も早い気がする。過去の10年ほどの写真を確認すると今年より早い年もあったようだ。過ぎてしまうと忘れてしまうのだ。行動範囲も毎年同じなら記録としての意味も出てくるのだろう。不安定な生活がずっと続いているのでそれも容易なことではない。

 自転車はわずかに向かい風。それがなかなかに堪える。穏やかな日和の中を走っていると間もなく汗が滲んできた。帰りが寒くなることを想定して少し重ね着していたせいだ。汗をかいた時のためにと背負っている着替えが地味に重い。いつだってそう。万一に備えた結果、行動が制限される。
 目的地に到着すると、コゴミの最盛期から微妙にズレてしまったようだ。成長の早い株は伸びすぎていて成長の遅い株はこれから…たぶんここ3日くらいが勝負だろう。それでも天ぷらで10人前程度は採れたろうか。車があって足繁く通えるなら2日に1回くらい通いたいものだ。住んでしまえばいいのだが、そんなお金があったらまず車かな。天ぷらにすると美味しい藤の花はまだ蕾だった。それでも試しに食べてみようと摘んで帰ることにした。

 帰路では、先日も通った道を帰る。眺めのいい畑で言葉を交わした農作業中の方にまたお会いした。
「花が終わるの早いですね〜。」と言うと「そうなのよ〜。私もあれから来てなかったんだけど、もう小さい実になってるのよ〜。」とのこと。
 たった10日前に満開だった果樹の花はもう実になろうとしている。毎年のこととは言え、何と言う成長の早さだろう。
 産直の店に立ち寄るとGWとあってたくさんの客で賑わっていた。ジェラートのコーナーに列を成している。山菜はあらかた売れてしまっていたようだ。
 
 5月中にまた出かけなくてはならないかもしれない。
 取り敢えず気にかかっていたコゴミは確認できたので制作の方に集中できそうだ。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:110回

自転車走行距離:約40km

2016年5月3日火曜日

不安

 今日もはっきりしない天候。GWは好天という予報ではなかっただろうか。
 朝、ゴミ出しのために外へ出ると小学生が登校するところだった。ぼんやり寝ぼけた頭で思う。
「今日って平日だっけ?」
 少し早く起きたのでぼんやりしたままでいるとかえってパフォーマンスが落ちると思い二度寝を決め込もうと布団に入った。すると急に不安が膨らんで寝ているどころではなくなった。漫画の制作を進めるために完成めがけて日々悩んでいると不安など相手にしている場合ではない。言わば不安という深い穴に蓋をして近寄らないようにしている。一段落して緊張の糸が緩んだのかもしれない。不安を振り払いつつ布団の中で次の作品について思いを巡らせる。結局、いつもの時間より少し早く布団から出ることになった。


撮影:2010/05/03

 昨日から手がけている古本屋の3Dデータの制作を進めつつ、制作に使用したデータの整理。使わなかったデータも記録になるので選別せずに保存。15pの作品に使用したデータは6GBを超えていた。どういう形で保存するのが良いか悩むのは写真と同様だ。残したところでなんの意味もないのかもしれない。
 原稿の整理をしつつ手描きのコンディションチェック。テキスト原稿を書きかけたものの調子が出なくて途中のまま保存。合間を縫って自転車のブレーキを調整。なんだかんだで色々やることがある。
 不安を打ち消したいだけなのかも知れない。

 昔使っていた漫画の原稿用紙と今のコピー用紙の質はどれくらい違うのだろう。
 今でこそパソコンがあって数多くのソフトがあって様々な手法をデジタルで試行錯誤することができる。
 昔のようにペン一本、筆一本で描く時代はどうだったのだろう。もちろん今でもそういう取り組み方は可能かもしれない。心を込めるということはそういうことなのかもしれない。いずれ少しずつでもその方向を取り戻したい。 

 夕方にスーパーへ買物に出るとやはりヒンヤリしていた。キャベツが1玉198円。ジャガイモも1個48円と高めに推移している様子。少し前に安い時期があったのでそのしわ寄せなのだろうか。熊本地震の影響もあるのだろうか。
 夜になって少作画ソフトをいじってみる。フリーウェアなのに商用可能で高機能。使い方を慣れておきたいと考えていた。

 理想としては3本ほどの作品を同時進行したいのにいろんなことをやったつもりでも大して進んだわけではない。3本どころか1/3も進んでいない気がする。


腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:105回

2016年5月2日月曜日

筋書

 今日も雨模様。気温が上がらないようでヒンヤリしている。

 次の作品のための背景画制作を手がけてみる。ある程度の筋書きは出来ているからコツコツ描いていけば自然と出来上がっていくのではないかと考えている見通しがまた甘い。
 例によって想定では4ページ程度。前回の作品もそれくらい予定だったのに結局15ページにまで膨らんだ。とにかくページ数は少なくてもいいからギュッと濃度の高い作品が描きたい。

撮影:2011/05/02

 そういえば、先にコマ割りイメージがぼんやり頭に浮かぶようになっている気がする。いつからだろう。作品に取り組んで苦悶しているうちにいつの間にか自分の中で解決策ができている。もちろん一旦組んでみてからまた悩むことになるのだろう。
 今回は取り敢えず3Dソフトで小さな古書店のイメージを組み立てる。本棚は4列、カウンターとバックヤード…あ、またトイレとか給湯などの水回りを忘れていた。古本屋は今や大型有名チェーン店が幅を利かせていて個人経営の店は珍しくなっただろうか。本を買う時は一生ものと思って買っていたので手放すことなど考えていなかったし、購入するのは新刊ばかりだったので古本屋を利用することはないと思っていた。ただ、興味本位で見に行ったことはあったかもしれない。
 ある時、引っ越しの際の荷物を少しでも減らそうと思い古本屋を訪ねたことがあった。手放すことなど考えもしなかった本や漫画…引き換えに受け取った金額にガッカリしつつも古本屋の雰囲気を知る経験になっている。狭くて足の踏み場もないほどの本がひしめいていて愛想が良いとはいえない店主が応対してくれたのではなかったか。あの店の匂いを思い出せないのが少し悔しい。古い本の匂いがしていたのだろうか。

 描くということは、記憶をたどることが可能だ。想像や推測を加えることも取り除くことも可能なのだ。いつか脳内の映像を描き出すことが可能になるだろうか。3Dソフトやマンガ表現も進化を続けていくことだろう。その頃まで生きていられるだろうか。その時を待たずに記憶を辿りつつ描くことができるというのは、この時代ならでは特権なのかもしれない。

 仮にこれからまた数ヶ月間を要して1本の漫画を描くのなら作品について充分に吟味し用意周到に準備するのか、これまで通りただ無心に描き続けて経験を糧としていくのかによってその先の展開が変わるのかもしれない。

 たとえ人生が決まっていたとしてもその筋書を知らないのだから。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:101回

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...