2016年1月14日木曜日

舞台

 人生という舞台において人は常に主役である。
 よく言われることだが、ずっと意識していることは難しいし煩わしい。そればかりか自らが舞台を荒らしたり台無しにしていることがある。おそらくボク自身もそういうことをしているのだろう。徹頭徹尾演じ切るというのは容易なことではない。裏も表もある凸凹だからこそ人間らしいとも言えるだろう。
 しかし、そのステージが何を表現し何を伝えようとしているのか、どんな意味を持つのかと考えてみると疎かにしていることが恥ずかしくなることがある。
 一人の人間の力なんて大したことない。
 ちっぽけな自分が出来ることなど何もない。
 人は成長し、社会を知り、世界を知るうちに自らの非力さを知り身の丈の幸福の尊さを知る。そこに異論はない。しかし、生きた証を残したいと願った若い想いは果たして無意味だったのだろうか。非力なりにも役に立ちたいという欲求は偽善なのだろうか。

 そこに舞台があるなら…自由に演じることを許されるならどんな自分を演じたいだろう。

 漫画を描くということは、漫画の世界を生きるということかもしれない。それとも経験の中の凸凹な想いをキャラクターに重ねることだろうか。
 新しいキャラクターの必要を感じて数日前からキャラクターを練っているが、なかなかウマく固まらない。
 彼は仕事が忙しい割に給料は安く、思うようにプライベート時間を楽しむ気持ちの余裕がない。迷い込んだ人生の迷路が思いのほか窮屈で、若くして自分の意志で物事の判断ができなくなっている。
 疲れてやつれた印象の若者を描こうとしているのだ。髪型はどうか。眉は太いのか細いのか。鼻、口…彼の仕事の勤務状況はどんなものか…難点なのはそんな設定のキャラクターにいかに感情移入するかということだ。何枚も描いては失敗を繰り返している。
 世界には様々な人がいるというのにボクの描くキャラクターは似通った印象になりがちだ。人間観察が足りないのか。想像力が足りないのか。そもそも突き詰めが足りないのか。断片漫画は連載の予定がないのが基本とは言え作品中に描かない部分の設定も重要なのである。

 腕立て伏せ:110回

2016年1月13日水曜日

手甲脚絆

  心配事が舞い込んだこともあってか机に向かっても集中出来ない。それでも描いてみるが、乾いていないインクを無意識に触ってせっかく描いたカットを台無しにしてしまう有様。恵まれた人って言うのはどういう人なんだろう。求めなくてもあらかじめ持っているのであれば求める必要はない。それは恵まれているということだろうか。そういう意味では、ボクは足りないものばかりである。かといって欲しいという欲求も色褪せて来ている。足りないことに恵まれているんだろうか。
 バイオリズムも低調。そして気温も低く暖房を入れてもなかなか室温が上がらない。それもそのはず、設定温度が最低である。そしてどういうわけか出かけたくなった。寒いのにどうしてだろうと自分でも思う。身体が外に出たがっているという他はない。
 自転車を出す前に先日中途半端になっていたジーンズの切れ端にボタンをつけてみた。呼称が思い出せなかったが、いわゆる脚絆(きゃはん)ということになるだろう。現代ではスパッツとも言うのではないかと思う。布の素材が違えど昔の人も同じようにスネに布を巻いていたわけだ。イメージでは2つ付ければ足りると思っていたが、実際に手に取ると2つではどう考えても足りない。3つ付けても足りないくらいだった。予定通り斜めに取り付けて裾がしぼむようにする。予定では脚絆がずり落ちないようにジーンズを固定させるボタンをひとつつけるつもりだった。しかし、巻いてみると布が固いためそのままでも行けそうだった。


 実際に試着して走ってみることにした。締め付けが強くないためルーズソックスほど緩くないものの若干頼りない。しばらくすると脚絆がだぶつき始めた。そして早速チェーンで汚れた。汚れ対策なのでしっかり役には立ってくれたことになる。

 ポタンの見た目のカッコ良さを優先したものの実際に使ってみるとフックでピッタリ留められる方が良かったかもしれない。試行錯誤の結果であっても作ったものは残って行く。脚絆が出来たら次は手甲を作って旅支度かな。

 腕立て伏せ:115回

2016年1月12日火曜日

虹雲

 雲をつかまえる夢をみた。
 空は青く澄んで風が強く吹いているようで、白く透き通った絹のような雲が形を変えながら流れて来ては去って行く。ボクはどこかのビルの屋上にいるようで流れて行く雲に手が届きそうな気がした。そこで空に手を掲げてみると、天女の羽衣を彷彿とさせるような雲の細い切れ端がスルスルと流れて来て差し伸べた手にまとわりついた。実体を持っているかのような雲だったが、手に絡んだ雲の切れ端は陽の光を受けて輝きながら刻々と形を変えやがて消えた。もう一度やってみようと手を掲げる。するとまた青い空の彼方から雲はやって来て難なく手にまとわりついた。陽の光の加減だろうか。白い雲は虹色に輝き始めた。雲が虹色に発光して見える気象現象を彩雲と言うが、まるで彩雲のようであり雲そのものが虹色に輝いているようにも見える。ふと、食べてみようと思い口に入れてみる。味は解らないが実体がないはずなのにワカメのような食感があり、軽くコリコリとした歯ごたえがあった。
 これまで色んな夢を見たが、実に不思議で美しい夢だった。
 そう言えば、若い頃に漫画のアイディアのひとつとして「夢空間」という作品を考えていた。現実と夢を行き来する話だからいわゆる「夢オチ」が最初からネタバレしている。しかし、人間は現実世界で生きているつもりでいながら五感によって得た情報から外界を認識しているに過ぎない。つまり常に夢と現実の境界は曖昧で現実を錯覚して生きているのだ。
 今描いている漫画のそれぞれの話は、若い頃に考えていた「夢空間」が素地になっている。現実と非現実が交錯する不思議さが好きなのだ。もしかしたらそれ以外の漫画は描けないのかもしれないとすら思える。

 トイレに入っていたらアイディアが浮かんだ。
 これでまたカットを増やさなくしてならないのでページ数にも影響するかも知れない。現在の構成パターンは、まず筋書きを考えてからレイヤーを重ねるようにエピソードをオーバーラップさせて行く。エピソードが足りないとスカスカの内容になってしまい、相対的にメッセージ性が弱くなる。新しいアイディアのため新しいキャラクターが必要になったわけだが、描いてみるとこれまで描いたキャラクターと大差なくなってしまった。髪型の違いくらいなのだ。描き分けが難しい。
 追加するカットの配置を考えていたら9ページ程になりそうだ。足りないカットも増えるので制作全体が膨らんで行く。入浴しながらまた次の展開を思いついてしまった。途中になっている作品があるので無闇に長編にするわけに行かない。10ページくらいになるのは仕方ないとしてまずは作品の濃度を上げることを考えよう。

 腕立て伏せ:112回
(肩の不調にて仕切り直した) 

分別

 とにかく昔から捨てるのが苦手である。
 衣類は若い頃に買ったものを毎年着ているし、古着になったからと言ってまだ使い道があるのではないかと思って捨てられない。母もそんな感じだったから遺伝も関係あるのではないかと思ってしまう。
 もちろん捨てられないのは衣類ばかりではない。
 ガラス瓶やペットボトルの形がスキだったりする。子供の頃にラムネの瓶に憧れのような気持ちを抱いたことがあったが、ラムネほど複雑な形でなくてもものの形に可能性を感じてしまうのだ。ビー玉がスキだったからガラスに対して宝石を見るような感覚を覚えるのかも知れない。今や何の違和感もなく生活にとけ込んでいるペットボトルだってちょっと昔から見れば未来的である。しかも製品毎に形状に変化があり製品をアピールするデザインとしての役割まで担っているではないか。切ったり加工したりして利用することを想定するとまだまだ利用価値があると思ってしまうのだ。比較的購入する機会の少ない大きめのサイズのペットボトルを取っておいたりするのは、大きめのサイズなら切っただけで植木鉢にだって利用出来ると思うからだ。しかし、実際利用するかと言えば、なかなか行動に移さないのでペットボトルがたまって行くばかりになってしまう。数年前の断水時に空ペットボトルのストックが役に立ったことがあった。非常時なんてしょっちゅうあっては困るのだが、思いがけないことに対応できることもある。
 それから広告などの紙類。DTPやデザインの参考になるかと考えて取っておいたこともある。捨てようと思ってからも大切な書類が紛れているのではないかと思ってしまいこれまた捨てられない。そして買い物で発生するビニール袋はかさばらないので山菜やキノコ採りに出かけた時に便利だと思ってしまう。
 では、生ゴミはどうだろう。家庭菜園をしている方ならご理解いただけるかも知れないが、生ゴミはきちんと利用すれば上質な堆肥となる。言わば宝物である。今はなかなか手を出せずにいるが、畑の隅に埋めておけばミミズがやって来てきちんと堆肥にしてくれるのだ。もっとも、生ゴミをそのままでは悪臭の問題や虫が発生することもあるので一度乾燥させるのが良いと思う。乾燥させれば、軽くなるから堆肥として利用するにして燃やせるゴミとして処分する場合にも都合がいい。どっちが環境に対して負荷が少ないかと考えればやっぱり堆肥として利用することだと思うが、実行するのは容易ではないかも知れない。
 そんなわけで少し前に流行った断捨離の意味が理解できなかった。
 再利用を考えれば捨てられなくなるということを言いたいのだが、使わなくなったパソコンやモニターなどの処分には頭を悩ませる。オークションに出すのも煩わしいしHDDの初期化の必要などの懸念もある。以前、メーカーに処分を問い合わせたことがあったが、処分費用を聞いて意気消沈した。最近ではパソコン引き取りの回収業者も回っているようなので検討しないと押入れが中古パソコンで占有されてしまう。

 そんなボクが少しずつリサイクルを心がけるようになった。流行のミニマリストに影響されたわけでもないのだが、これまでにたまっていたガラス瓶やペットボトルを外出の際に持ち出して収集所へ持って行くのだ。今やスーパーで回収しているので買い物ついでに持って行けばいい。もっとも、自転車で運んでいることもあるし、日々増えているものもあるので、そう簡単に片付くものではない。

 この心境の変化は漫画に専念しつつあることにも関係しているのかもしれない。これまで様々な自分の可能性を想定しなくてはならなかった。山に行くのと海に行くのでは自ずと必要なものが違う。様々な局面に対応する必要があれば経験したモノは捨てずに維持することが求められる。しかし、何かに専念することが明確になれば必要最低限のもの以外は処分出来ることに繋がるのだ。
 もしかすると断捨離やミニマリストになるコツは生活をシンプルにすることより人生の目的を明確にするということかもしれない。

 もっとも、言い訳を並べ立ててみても所詮は分別のない大人。すっかりオジさんだというのにオトナになった自覚が足りないだけなのかもしれない。

 今日は引き続き制作中の漫画のカットを作画。現時点で7ページなので1ページ削除して6ページにすることも考えたが、カットを追加したことでその必要は無くなったかもしれない。描きかけの状態で下書きページにセットしてみたら台詞の文字もカットも大きすぎる気がする。修正しつつ制作進行。

成人式だと言う情報は目にしていたのに祝日だと気がついたのは夕方だった。


 腕立て伏せ:107回

2016年1月10日日曜日

縫う

 大雪に恐れおののきつつ布団から出ると、今日も太陽が顔を出し青空が見えた。
 買い物があったので自転車を出す。自転車に乗る際にチェーンの油がジーンズの裾を汚すので100円ショップで買ったマジックテープのバンドを巻くのだが、それでも気がつけば真っ黒になってしまう。そこで古いジーンズを切って巻いてみたらどうだろうと考えていた。その布を留めるために100円ショップで適当なボタンがないかと思ったが、古着のボタンで代用出来るのではないかとも思った。先日、そんなことを考えながら手芸店に立ち寄ってみたらジーンズのデザインに合いそうなスナップのボタンを見つけた。金槌で叩いて取り付けるらしい。それは便利と思い購入してあった。
 自転車を走らせながらどんな風にしようと考えを巡らせる。
 必要と思った食材を買い集めて回ったが、ネギだけは意に添うものがなかった。食パンを5日分。ジャム、牛乳…おでんが3割引きになっていたので購入。他に焼そばなど…これで外出回数が減らせるのではないだろうか。やはり天候は移ろいやすく最後のスーパーを出る頃は雨がパラついていた。

 帰宅して焼そばを作って食べた後、おもむろに裁縫箱を取り出す。裁縫箱と言っても小さめの段ボール箱に裁縫道具を詰め込んであるだけの代物だ。裁縫が面白いのは解っている。大したことではないが、古いシャツを買い物用の袋にリメイクしたり履き古したジーンズの生地で剪定用のハサミや草刈り鎌の袋を作ったこともある。それでやれば面白いことは解っているのだ。しかし、没頭するあまり時間を忘れてしまうという問題がある。特に今は出来る限り漫画のために時間を使いたいのだ。そうは言っても今回は目的がある。自分で作らなければジーンズの裾は真っ黒に汚れてしまう。こういう時はあまり構えるとズルズルと先送りになってしまうので、何となく始めるのが一番。ズルズル先送りするならスルッと始めた方がいい。
 既に古いジーンズの裾を切って安全ピンで留めて試用していたのでさらにリメイクすれば良い段取りだ。しかし、改めてジーンズの生地を眺めていると、足の内側と外側では縫製が違うことに気がついた。今回作るモノは右足用なのに切った生地は左足だったらしい。そのまま使うと縫製の内外が逆になってしまう…事前準備の観察が必要だということだろう。まぁ、今回は目をつぶることにしようということで、まずは切った部分の処理である。2回折ってから縫った方がいいのではないかと思い、幅1cm程度に2回折った部分を縫うことにする。ミシンは持ってないし使い方も解らないのでもちろん手縫いである。毎回針に糸を通すのに苦労するが、今回は勘で克服。縫い始めてみるとまっすぐ縫うのが意外と難しい。コツを掴むのに少し時間がかかった。しばらくかかってぐるり一周縫ってみると筒状ではなく切って一枚の布状にした方がいいように気がして来た。自転車で走りながら構想していたのは筒状にしたものにスナップボタンでベルトをつける仕様だった。しかし、そのデザインでは足を通す動作が必要になる。やはり地下足袋のスネの部分に巻つける布のようなデザインの方が良いような気がして来た。またも衝動的に切り開いて端の処理。手順としては所定の位置にスナップボタンをつければ完成となる予定だが、もう暗くなって金槌を使っている場合ではないと思い今日の作業を終えた。

 やってみれば面白いことはたくさんあるのだと思う。要はそれに没頭して夢中になれるかどうかである。
「そんなことをして何になる?」
「買った方が安いんじゃない?」
 そうやって楽しいことを他人任せにしていないだろうか。
 こんな作業が脳の刺激になり漫画の制作にも良い影響があるのではないかと期待していたりする。

腕立て伏せ:110回

2016年1月9日土曜日

背景

 昨夜はまた様々な夢を見た気がする。どこかを旅していたような気がするが、割とはっきり憶えているのは、薮から双頭の大蛇が這い出してくるシーン。大きめの銀色のウロコがきらきらと輝いていた。夢にヘビが出てくると縁起が良いという話を聞いたことがある気がするが、大抵の場合は噛まれるので御破算ではないかと思う。今回も指先を少し噛まれた。大層な大蛇なので少し噛まれるくらいはかわいいものかも知れない。
 その後、話の繋がりはわからないが、ボクはレストランの厨房で働いていた。先輩従業員は美しく気立ての良い女性でテキパキと誇らしげな様子で仕事を教えてくれる。コップ洗浄機が見たことのない珍しいものだったが、使い方はよく解らなかった。ボクは仕事をしっかり憶えて働きたいと感じていた。
 夢は毎日見ているのだというが、憶えていることとそうでないことがある。何か違いがあるのだろうか。漫画のヒントが隠れているような気がしてしまう。

 今日は雑用も少ないということで机に向かった。
 漫画の背景の必要を感じて制作。自動販売機の絵が欲しいと思っていた。定規を使って描くときれいに描けるのだと思うが、むしろくたびれた感じが良いと思いフリーハンドで描いてみる。自動販売機の背景は冬木立の林をイメージ。
 モノクロで描いたものをスキャニングしてデジタル彩色。背景なので鮮やかすぎたり目立ち過ぎてももいけないと思いつつ全体のバランスを考えてしまい一通り彩色してしまった感じがする。ところが、いざコマに配置してみたら使う部分がホンの一部で良いことが判明。ありがちなことだが、イメージする上で画面に入らない部分も重要だったりもする。一枚の背景を分割して複数のコマで使用するコトにした。計算違いだったのは、合成するためのイラストと倍率が違うため線の太さが異なってしまうこと。
 フリーハンドで制作したこともあり、画像にひずみがあったため画像ソフトで変形を描けて修正。
イラスト:待ちくたびれた自動販売機
待ちくたびれた自動販売機

 他のカットも制作して少しずつページが埋まって行く感じは嬉しい。全身カットを描くと手足の長さやバランスがおかしくなりがちなのが難点。描き上がってから「何で気がつかないかなぁ」と思ったりする。



腕立て伏せ:108回

金賞

 それは絵画展の受賞者を掲載した新聞記事。ボクの作品が金賞を受賞したという夢だった。夢の中での喜びは純粋に嬉しかった。
 現実世界ではどうだろう。
 何かしらの受賞しようものなら大量の石が飛んで来るような時代である。受賞さえしなければ平穏な生活を送れるかも知れないのに受賞したばかりに渦中の人となり築き上げて来たものが音を立てて崩れ去る。
 昔からこんな風だっただろうか。インターネット普及前でも羨望や嫉妬の目はあったに違いないだろうが、立上がれないほどまでに叩きのめしていただろうか。

 競争がスキではないボクでも何かのはずみで選ばれてしまうことはあった。
 小学校の頃、写生大会で描いた絵がたまたま選ばれてしまった。しかし、それはボクには不本意だった。たしか写生大会の前に図工の時間に点描の技法を学んだのではなかったかと思う。それで写生大会では点描で描き始めたのだが、描こうとしていた絵は牧場の羊だった。緑色を多彩に描き分けることなど知らず、不透明水彩の絵の具はいとも簡単に溶けて先に塗った色と混じり合った。つまり隣の色と混じり合わない距離感を保ちつつ一面の緑と羊を表現しなくてはならないことになる。始めこそ真面目に点描を開始してもしばらくすると時間内で仕上げることは不可能と気づいた。点描の点は徐々に大きくなり、なかなか乾かない不透明水彩に苛立って集中力が切れてしまった。そこからは太い筆にたっぷり緑色の絵の具を含ませ、太鼓を叩くように画面を叩いた。描きたい絵にはほど遠い見るも無惨な絵に仕上がっていたのだ。やりきれない想いのまま写生大会は終わり不愉快な気持ちを抱えたまま作品を提出した。ところが、後日図工の先生が選んだ数点の絵にボクの絵が入ってしまっていたのである。たしか「今回に限り」という条件つきだった。担任の先生も「良さがわからない」と言う。描いた本人にすらわからないのだから当然だ。そして不本意だった。
 納得出来る作品を描くというのはいつになっても容易ではない。だからこその挑戦なのだ。

 ちょうど同じ頃、夏休みの工作が入選してしまった。当時、夏休みの工作をやらずに登校して巧みに出来のいいものを作って来た級友と共同作品ということにしてしまう同級生もいた。もっともその級友でさえ自力で作ったとは思えない出来だったからどっちもどっちかなとは思う。だからボクが気に病むほどのことではないかも知れないが、ボクの作品は母のアイディアが元になっていた。作ったのはボクであっても選ばれたのは母のアイディアだと思ったのだ。オリジナリティとかプライドを意識し始めた出来事だったのかも知れない。それからはウケが良くなかろうが自分のアイディアで作ろうと思うようになり、それは絵を描くことにも繋がっている。

 社会人になってたまたま小学校の頃の同級生に地域のコンクールの絵を描かないかと言われたことがある。彼はその運営事務局の一人らしく、コンクールを盛り上げるために作品が欲しいということだった。応募者が少ないのかも知れないと思った。何よりも審査委員長は尊敬する漫画の大家である。締め切りまで時間がなかったが、ちょうどボクには制作に打ち込める時間があった。その漫画家さんの好みそうな曲線を意識してオリジナルの構想を組み立てた。締め切りギリギリまで徹夜で仕上げ、郵送では間に合わないので事務局に直接持ち込んだ。もっとも作品の出来に満足していたわけではない。友達に協力し尊敬する漫画家さんに見てもらう機会があるならそれでいいじゃないかと思っていた。ところが、その作品が入選してしまったのだ。授賞式があるというので会場へ出向くとボクは審査委員長の漫画家さんの特別賞をいただくことになってしまった。壇上には受賞者のために一段高くなっていたのだが、一番最後に呼ばれたボクはその段に収まりきらなかったためひとりだけ他の受賞者より低い位置に立つことになった。地方の小さなコンクールだし、大した不手際ではないのだが、何だか釈然としない想いが残った。賞には漫画家さんの直筆サイン入りのイラストという副賞があったが、それこそが主たる賞だったように思う。石こそ飛んで来なかったが、この話には個人的に不愉快なこぼれ話があったため、複雑な思い出になっている。後悔するのは、時間があればもっと良い作品が描けたのではないかということ。そして受賞の際に漫画家さんに握手をお願いすれば良かったということ。

 そしてさらに後になってインターネットで募集していたイラストの仕事をすることになった。その時にあの漫画家さんの雰囲気がぴったりだと感じたのが、制作に当たっては真似にならないように関連資料は見ないようにしてオリジナルを心がけた。そして曲線より直線を意識した。ただ、尊敬する方だけに影響からは免れないだろう。心のどこかがミシミシ音を立てている気がした。本人が真似したつもりでも似ても似つかぬ場合もある。結局、結果で判断を仰ぐしかないのだ。
 ボクの仕事で唯一書店に並ぶことになったが、オリジナリィについてこれからも常に考えていかなくてはならない。欲しいのは見せかけの金賞ではないのだから。


「芸は身を助ける」という言葉がある。ボクは人生の危機的状況を迎えた時、何度も「描く」ことに救われているような気がしている。


 腕立て伏せ:102回

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...