衣類は若い頃に買ったものを毎年着ているし、古着になったからと言ってまだ使い道があるのではないかと思って捨てられない。母もそんな感じだったから遺伝も関係あるのではないかと思ってしまう。
もちろん捨てられないのは衣類ばかりではない。
ガラス瓶やペットボトルの形がスキだったりする。子供の頃にラムネの瓶に憧れのような気持ちを抱いたことがあったが、ラムネほど複雑な形でなくてもものの形に可能性を感じてしまうのだ。ビー玉がスキだったからガラスに対して宝石を見るような感覚を覚えるのかも知れない。今や何の違和感もなく生活にとけ込んでいるペットボトルだってちょっと昔から見れば未来的である。しかも製品毎に形状に変化があり製品をアピールするデザインとしての役割まで担っているではないか。切ったり加工したりして利用することを想定するとまだまだ利用価値があると思ってしまうのだ。比較的購入する機会の少ない大きめのサイズのペットボトルを取っておいたりするのは、大きめのサイズなら切っただけで植木鉢にだって利用出来ると思うからだ。しかし、実際利用するかと言えば、なかなか行動に移さないのでペットボトルがたまって行くばかりになってしまう。数年前の断水時に空ペットボトルのストックが役に立ったことがあった。非常時なんてしょっちゅうあっては困るのだが、思いがけないことに対応できることもある。
それから広告などの紙類。DTPやデザインの参考になるかと考えて取っておいたこともある。捨てようと思ってからも大切な書類が紛れているのではないかと思ってしまいこれまた捨てられない。そして買い物で発生するビニール袋はかさばらないので山菜やキノコ採りに出かけた時に便利だと思ってしまう。
では、生ゴミはどうだろう。家庭菜園をしている方ならご理解いただけるかも知れないが、生ゴミはきちんと利用すれば上質な堆肥となる。言わば宝物である。今はなかなか手を出せずにいるが、畑の隅に埋めておけばミミズがやって来てきちんと堆肥にしてくれるのだ。もっとも、生ゴミをそのままでは悪臭の問題や虫が発生することもあるので一度乾燥させるのが良いと思う。乾燥させれば、軽くなるから堆肥として利用するにして燃やせるゴミとして処分する場合にも都合がいい。どっちが環境に対して負荷が少ないかと考えればやっぱり堆肥として利用することだと思うが、実行するのは容易ではないかも知れない。
そんなわけで少し前に流行った断捨離の意味が理解できなかった。
再利用を考えれば捨てられなくなるということを言いたいのだが、使わなくなったパソコンやモニターなどの処分には頭を悩ませる。オークションに出すのも煩わしいしHDDの初期化の必要などの懸念もある。以前、メーカーに処分を問い合わせたことがあったが、処分費用を聞いて意気消沈した。最近ではパソコン引き取りの回収業者も回っているようなので検討しないと押入れが中古パソコンで占有されてしまう。
そんなボクが少しずつリサイクルを心がけるようになった。流行のミニマリストに影響されたわけでもないのだが、これまでにたまっていたガラス瓶やペットボトルを外出の際に持ち出して収集所へ持って行くのだ。今やスーパーで回収しているので買い物ついでに持って行けばいい。もっとも、自転車で運んでいることもあるし、日々増えているものもあるので、そう簡単に片付くものではない。
この心境の変化は漫画に専念しつつあることにも関係しているのかもしれない。これまで様々な自分の可能性を想定しなくてはならなかった。山に行くのと海に行くのでは自ずと必要なものが違う。様々な局面に対応する必要があれば経験したモノは捨てずに維持することが求められる。しかし、何かに専念することが明確になれば必要最低限のもの以外は処分出来ることに繋がるのだ。
もしかすると断捨離やミニマリストになるコツは生活をシンプルにすることより人生の目的を明確にするということかもしれない。
もっとも、言い訳を並べ立ててみても所詮は分別のない大人。すっかりオジさんだというのにオトナになった自覚が足りないだけなのかもしれない。
今日は引き続き制作中の漫画のカットを作画。現時点で7ページなので1ページ削除して6ページにすることも考えたが、カットを追加したことでその必要は無くなったかもしれない。描きかけの状態で下書きページにセットしてみたら台詞の文字もカットも大きすぎる気がする。修正しつつ制作進行。
腕立て伏せ:107回
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