2016年1月31日日曜日

使命

 noteでは今日がマンガコンテストの締め切りということで多くの力作が寄せられていた。ボクなんかではとても太刀打ち出来ないと思わせる傑作も応募されていて愕然とした。イラストの作品なら技術や表現などで判断されるのかと思うが、漫画の場合はそれに加えて物語性がある。設定の骨子がしっかりしているかどうかが安定感をもたらす気がする。
 ボクにはたぶんそのいずれの要素も不足している。

撮影:2006/01/29


 今日も机に向かったが、軽い頭痛があってどうも集中出来ない。遅い昼食の後、頭痛はいくらか緩和されたようだったが、今度は眠気に襲われた。それでもしばらく机に向かって格闘したが、たまらずそのまま机に突っ伏して仮眠した。
 仮眠の後は頭痛や眠気がウソのように払拭され鉛筆が走る。残念ながらすでに夕方になっていたからこの調子が明日に繋がることを願いつつ買い物に出た。最近、毎日腕立て伏せは継続しているものの自転車も散歩も激減しているので基礎体力が維持出来ていないのかもしれない。

 絵描きを志して絵画教室に通っていたことがある。そしていつしかボクは絵描きという生き物だということに思い至った。何をしてたって絵描きだ。生きてることが絵描きなんだ…と。実際、人生は様々な出来事を織りなす絵画のようである。
 色即是空 空即是色
…現象とは世界であり、世界とは現象である。深い意味を知るわけではないが、それはまるで白いキャンバスに人生を描くことのようだと思う。
 一般的に画家と絵描きは同じ意味を指すのだろう。しかし、ボクは少し違うような気がしている。画家になるためには社会的にも認められる必要があるのかもしれない。一方、絵描きは誰にだってなれるのではないだろうか。絵を描いて絵描きであると宣言すればいい。
 
 漫画家の定義は何だろう。
 出版社から作品を掲載された書籍が出版されていることが条件だろうか。聞けば、出版業界も厳しい時代だという。漫画家が印刷媒体という出版スタイルのみによって定義されるのであればゆゆしき事態である。しかし、インターネットの普及に伴って漫画を公開するための幅は広がった。サイトであれSNSであれオリジナルの漫画を描いて公開するのであれば漫画家を名乗ることも可能ではないのだろうか。それとも画家と絵描きの違いのように漫画描きと言うべきか。

 作品としての漫画を描くようになってどこか使命感のようなものがある。
 若い頃は衝動だった。描きたいという強い欲求だった。
 絵描きを志していた頃は存在意義だったような気がする。
 けれど、漫画は描かなくてはならない。その使命感が何を意味するのかボクもまだ知らないのだ。


 腕立て伏せ:105回

2016年1月30日土曜日

発掘

 何年か前の断水になった際に送ってもらったペットボトル入りの天然水の賞味期限が切れてしまうということで炊飯用に利用していた。とうとう最後の一本になってしまった。現時点で賞味期限は既に半年程過ぎているもののこれが実に美味しい。汲み置きの水で炊飯すると美味しいことに気がついたのもその断水の時だった。以来、朝沸かしたお湯が冷めてしまい残りがあるとペットボトルに汲み置きして炊飯用に利用していた。けれど、汲み置きの水で美味しいと思った感覚とは少し違う気がするのだ。一旦沸騰させてしまうと美味しさの要素が抜けてしまうのだろうか。

撮影:2005/12/21
車で15分程の所に地元の湧水がある。そもそも周囲が山なので湧水には恵まれているのだろう。水汲みに出かけていたこともあるが、炊飯に使ったことがなかったような気がする。ラーメン屋さんも水汲みに来ていた程の水なのだから炊飯に利用してみれば良かった。大きなポリタンクで汲み置きにしていたので衛生上の心配があったのだ。そしてその水はかわいがっていた金魚の水槽用に使っていた。急な坂があるので今の時期は車で行くのも容易ではないし、今は自転車なので雪のない時期であっても出かけるのは容易ではない。

 この時期なら水道水をそのまま汲み置きしてみるのも悪くないのかもしれない。

 今日は雪の予報が出ていたにも関わらず朝から陽が射しているようだった。車道の積雪も自転車で走れる程度に融けていたので買い物に出た。冷たい風が頬に吹きつける。自転車はペダルを踏めば踏むだけ身体が温まる。そういえば中学・高校と自転車通学だったと昨夜の入浴時に思い出していた。社会人になっても自転車通勤することもあったが、高校時代の自転車通学は坂が多くて大変だった。気が重いことだってあったはずだ。寒風の中、茹だるような暑さの中を走ったことが今に通じているんだろうか。正解だったとは言えない。しかし、他に道があったとも思えない。選択肢がいくつもあるように見えて実は一本道なのかもしれないと思うのだ。他の誰が認めてくれないとしても時には自身のやってきたことを認めることも必要ではないだろうか。

 前に進むことに一生懸命になっていたから自分がして来たことを見直す機会が少ないのだろうか。最近、写真を撮る機会も少ないということで過去写真を確認してみた。するとうんざりする程の写真が眠っていた。これでもフィルム時代のものが含まれていないというのだから我ながら呆れてしまう。せっかくだから少しずつ公開して行こうと思う。

 特にいつもと違うことをした憶えもないが、今日は少し疲れていたのだろうか。机に向かっても制作意欲に繋げることが出来なかった。土曜日だから気が緩んだのかもしれない。

 腕立て伏せ:110回

2016年1月29日金曜日

選別

 魚釣りの夢を見た。
 渓流にはたくさんの小魚が泳いでいたが、大きさが気に入らない。もっと大物はいないかと水の中を観察していると、瀬になっている所に穴を掘って潜り込んでいる大きな魚を見つけた。同行した人は「スズキだろ」と言っていたが渓流にスズキはいないだろう。尾びれを掴んで引きずり出すとちょっとしたサイズのマグロのようですらあった。少し下流に落ち込みがあって淵のようになっていたのだが、ボクは何を想ったのかせっかく掴まえた魚をその淵に放流してしまった。するとさっきまでマグロの様な容姿だったその魚はサイズそのままに巨大なタラのような姿になった。そしてそばにあったコンクリートの壁面にジャンプして張り付いたのだ。その時にはハゼのような印象に変わっていた。

 今日も制作…ちょっと出足がウマくなかったのかもしれない。夕方、スキャニング出来たカットは一点だけだった。外出していたわけではないのに手間取っていたのは積み重なった下絵の山を整理していたのだ。新しい紙に描く場合は新鮮な気持ちで取り組むことが出来るが、過去の下絵はネガティブな気分になりがちだ。「どうしてこんなにヘタなのか」「どうして下絵のままなのか」とツッコミどころも満載である。ペン入れ済みのカットはどうかと言えば、これまたどうしようもない絵になっていることが多く、救いようのない状態になっている。そんな絵は捨ててしまえば良いようなものだが、ホンの数パーセントでも次回へのヒントになりそうな要素があればなかなか捨てられないと思ってしまう。
 そう言う状態になる原因は簡単である。安定した下絵が描けていないから何枚も下絵を描き、ペン入れの実力がないからと繰り返し下絵を描く。そろそろいいだろうとペン入れに手を出して失敗の山を築くということなのだ。
 スキャニングしたカットを配置して見ると設定が安直ではないかと思えて来た。彩色も捗らない。漫画としては超短編なので間延びしないようリズムも大切だろう。
 思えば、noteを始めてから多くのフォロワーさんに励まされ支えられて来た。ボクに出来ることと言えば、元気で漫画やイラストを描くコトだけだ。そのための必要な苦悶であれば乗り越えなくてはならない。

 夜になってカレーを作ったが、煮込みすぎてジャガイモの形がなくなる程になってしまった。そこへルーを投入したせいか融け具合が良くない。味は悪くないので珍しく2皿食べてしまった。

 明日は買い出しの予定…でも、雪になるだろうか。

腕立て伏せ:110回

適応

 順応…最適化。
 新しい環境に身を投じた時、その環境に慣れる必要がある。
 金魚であれば新しい水槽に慣れるまでこれまでの水槽の水から新しい水槽の水へ馴染む必要がある。温度かもしれないし水質かもしれない。急激な変化は金魚にとって死を意味する。
 転職などの場合なら新しい環境で受け入れ体制が出来ていること。そして新人としての柔軟な対応が必要となるだろう。受け入れ側と転職者側ではそもそもの考え方にズレがある。受け入れ側は今ある仕事に取り組んで欲しいが、転職者側は経験を活かそうと考える。仕事の内容が両者の思惑通りであればウマく行くかもしれないが、実際にはそんなに単純ではないだろう。ある程度時間をかけてお互いが順応しない限り長続きすることは難しいかもしれない。

 今日も作画の調子は悪くない。
 下絵とペン入れの間の垣根が低くなっている気がする。ボク自身も描くということに適応して来たということだろうか。きっと漫画家のアシスタントをする機会があっても3日も保たないかもしれない。何という遅筆。何という適応力の低さ。しかし、じっくり習得したものは簡単に消えたりしないし、少しずつ磨きをかけ精度を上げることが出来ると知っている。焦らずじっくり取り組んだ者だけが手に入れることの出来る境地があるのだ。
 下絵やペン入れなどいつも以上に描けた気がする。下絵のまま保留になっていたカットにもペン入れをしてスミ入れ、デジタル彩色となる。ただ、保留になっていたカットは時間が経つことによって設定変更をしていたりするので調整が必要となる。


 noteに漫画の作品をアップするようになって気がついたことのひとつにデジタル作品におけるスクリーントーンの意味合いがある。そもそもスクリーントーンは印刷媒体でグレートーンの再現するために必要だったのではないだろうか。もちろん様々なパターンがあることも承知しているが、印刷を想定しない作品であればスクリーントーンにこだわる必要はないような気がする。何故なら印刷媒体のカラーモードがCMYKであるのに対し、デジタルのカラーモードはRGBである。印刷媒体でKに相当するBlackはデジタルにおいてはRGBがそれぞれ0なのだ。つまりスクリーントーンがKだけで表現出来るのに対してデジタルはRGBそれぞれの入力値が必要なのである。CMYで再現出来ない黒を再現するためにKがあり、それはインクの節約にも繋がっていたのかも知れないが、デジタルにおいては無数のドットによってデータサイズが大きくなるだけなのではないだろうか。
 もちろんこれまでの印刷物の漫画らしさを継承するには一役買ってくれるかもしれない。ただ、解像度によってはトーンが潰れてしまうだろう。グレートーンの再現という意味ではフラットなグレーで良いのではないかと思う。
 これもまた作品を発表する環境に最適化することなのではないだろうか。これまでの経験をそのまま活かせるかどうか柔軟な発想で対応することが必要なのかもしれない。

 腕立て伏せ:112回

2016年1月27日水曜日

進歩

 巨大なザリガニの夢を見た。水路のような所を調査していたら、同行していた男性が大きな側溝の蓋のようなものを開けたら中にその巨大ザリガニがいたのだ。全長数メートルはあるだろう。巨大とは言ってもそのままスケールアップしているわけではなく尾が長い。ヘビやウナギのような動きをしつつ甲殻類の外骨格を持っていた。それでも全体に大きめでハサミを開いたり閉じたりしながら近寄ってくる。どうやら懐いているだけのようだが対応に困った。

 今日はいつもより気温が少し高かったようで雪ではなく雨が降っていた。一日外出もせず描いていると眠気に襲われた。気圧が低いのだろうか…などと考えたりしたが、脳のスイッチが眠りの方へ入りかけるとふいに夢のワンシーンが浮かんでくる。起きているので完全に思い出すほどではないのだが、高原を渡る霧のように去来する。

 描きなれているはずのキャラクターのバランスが取れなくなることがあるのは、文字の認識が狂ってしまうゲシュタルト崩壊に似ているかもしれないと以前に書いたが、それは見慣れたものの魅力や面白さを再発見することにも一役買っているのかもしれない。夢の中に登場する得体の知れない生き物はゲシュタルト崩壊と再構築の成せる技なのだろうか。また夢の中のエピソードも当たり前の日常の現実の体験を分解し再構築することで紡がれているのではないだろうか。分解や分析は崩壊と似て非なるものだが、人間の能力としては同じ意味を差しているのかもしれない。

 夕方になって「今日は何をやってたんだ?」と我に返ることが時々ある。今日もそんな感覚に陥ったのだが、一枚の作品が残っていたのでホッとした。スキャニングしてデジタルで彩色。今回はモノクロの単色のままでも良かったかもしれないが、春っぽい雰囲気にしてみた。



 そういえば、noteを始めてからどれくらいになるんだろう。2014/04/07に始めたから、今年の4月でかれこれ2年ということだろうか。長いようであっという間だった。2014年5月の段階の絵を見ると今よりずっと荒くて不安定だったことが解る。


 本当に少しずつであっても進歩出来ているのだろうか。
 作画が安定したら途中になっている漫画の制作も続行したい。
 イラストを見ているだけで満足出来るような漫画が描きたいのだ。

 腕立て伏せ:110回

発想

 足の裏にたくさんのシャープペンシルの芯が刺さっている夢を見た。ジンジン傷むので一本ずつつまんでは引き抜くのだが、短いものばかりではなく膝まで到達しているであろう長いものもある。シャープペンシルの芯だからそんなに長いわけはない。よく見るとストローのようなモノまであった。驚くべきは、夢から覚めるまでそれが現実の出来事であると信じて疑いもしないことである。
 他にもおかしな夢を見ている。誰かと海で泳いでいたのだが、陸地と島を結ぶ橋の下を泳いでくぐろうとしていた。ところが気がつくと細い橋の上に巨大な客船が乗っかっていたのである。これは橋の下をくぐるのは危険だ…というような夢だった。
 普段、漫画のアイディアが出ないと悩んでいる割に夢は奇想天外で面白いではないか。

 今日は天候が良く、車道の雪もかなり融けて路肩に残っているだけだったので自転車を出して買い物に出かけた。ヘタってしまったGペンのペン先の調達と火曜日は卵の特売日である。まずは文具店に立ち寄りペン先の他に製図用のインクも調達。そういえば、証券用のインクがいいと教わったことがあったような気がする。今頃思い出した。
 車道の雪はかなり融けているとは言え路肩に雪が残っているため自転車が走ると邪魔になることに配慮して自転車も通行して良い歩道に入るのだが、歩道は場所によって数センチ程度の雪が残っているから走るのは少しばかり骨が折れるのだ。
 屋外用の防寒ウェアがなかなかの優れもので最近室内でも着ていたりする。日中はこれがあれば暖房はいらないかもしれないと思えるほどだ。ただ、若干蒸れるような気がする。そんな出で立ちで自転車で走り廻りスーパーを練り歩こうものならむしろ暑くて店内にいられないくらいな感じになる。今日は特売日ということもあって客も多いようだった。そう言えば、最近はスーパーで男性を見かけるのも珍しくない気がする。いつからだろうと疑問に思う。

 帰宅するとどっと疲れが出たが、休憩した後は作画の方は調子が良い気がした。

 夕飯はどうしようかと考えていたらブリ大根の煮こごりがあったことを思い出した。丼一杯くらいあったのだが、予想以上にいい味になっていた。これなら他に何もいらないじゃないかとばかりにご飯をかき込む。そして煮こごりは平らげてしまった。昨日の夜の餃子スープも残っていたので意外と悪くない夕食になった。

 夜になって古いペンタブが古いPowerBookで使えないかとふと思いついた。そこで早速古いペンタブを引っ張り出しPowerBookをあれこれいじってみたが、結局使えないようだ。古い規格のADBポートで古いPowerBookに接続できないのだ。よく似た形のサウンド出力端子があるので勘違いしたのだった。もしかしたら、以前にも同じ勘違いをしたかもしれないと思いさらにガッカリした。いっそ新しくペンタブを購入すればいいようなものだが、出費も痛いし現在使っているMacのスペック的にも無闇に周辺機器を揃えない方がいいような気がしている。

 腕立て伏せ:110回

2016年1月26日火曜日

白猫

 白猫の夢を見た…いや、たぶん夢だと思う。考えてみれば、記憶と夢の整合性はどこで取っているのだろう。夢がリアルであればあるほど現実の記憶との差異は少なくなるのではないだろうか。昨日の夢に出て来た白猫はとても人懐っこく仰向けになって撫でろと言わんばかりのポーズで甘えていた。
 夢の中でしかあえない人がいる。夢の中でしか会えない動物もいる。実在しない者たちさえもきっとボクの一部なのだろう。

 今日は夕方に買い物に出るまで作画のために時間を使うことが出来た。
 少し前に見たイラストがとても印象的で細部まで意識が行き渡っていながらもシンプルな作品だった。いつも言うことだが、真似ようと思って真似られるわけではない。しかし、細部まで意識を行き渡らせシンプルで印象的な作品するという精神性を共有することは可能なのではないか。そこで今日のテーマは「細部を意識しシンプルを心がける」にしようと思った。これは今日のテーマと言いつつ今後のテーマと言ってもいいのかもしれない。

 このブログには日々の生活の中で思ったことや感じたことを中心に書き綴っているが、創作活動に関すること集中的に書きたいと思いnoteの方へ新たに「随創記」という記事を書いてみた。

 noteはクリエイターさんが多いので興味を持ってもらえると嬉しい。そしてその記事をこのブログで共有しGoogle+とTwitterで告知という流れになる。

 夕方になってスーパーに出かけた。かなり冷え込んで路面が凍結していたのでやっぱりヨタヨタしながら歩いた。少し日が長くなって来た気がする。
 餃子が安くなっていたので夕飯は餃子にしたが、例によってフライパンに焦げ付いてしまった。以前はウマく焼けていたような気がするので何かやり方を間違っているのだろうか。父が餃子好きだったので子供の頃は父や母の手作り餃子だった。皮から作るので夕飯前に家族で餃子作り大会だった。それが今は安売りになっていた出来合いのパック入り餃子を焦がすという有様である。独り暮らしを始めた頃は料理に対してもう少し熱心だった気がする。何かを工夫することは、それがDIYであれ料理であれ創作活動に通じていると思う。毎日の繰り返しだからと言って疎かにしてはいけないのだろう。

 久しぶりの友人と電話で少し話した。元気そうで安心した。


 腕立て伏せ:105回

2016年1月24日日曜日

構造


 今日は満月のせいかソワソワ落ちつかない感じだった。
 西の方は寒波襲来の影響で大雪になっている地域もあるらしい。ここ数年はこのパターンが多いような気がする。雪国であるはずの当地には青空が広がっていた。つかの間の晴天かも知れないので買い物の予定を一日繰り上げて外出した。この数日と夜の間に降り積もった雪に陽射しが反射して目を開けていられなくなるのでサングラスを着用し、除雪された道をウォーキングシューズで歩く。長靴と違って靴擦れの心配は少ない。ただ、所によって路面が凍結しているので油断は出来なかった。
 ヨタヨタしながら歩いていると跨線橋の下に差し掛かった。跨線橋は車道が線路を跨いでいる構造になっているのだが、その跨線橋の下には道路も通っている。その道を歩きながらふと見上げると跨線橋の裏側には耐震対策の構造が見て取れた。川を渡る道路の橋桁にも耐震対策が施されているわけだが、最近この耐震構造の不備が取り沙汰され問題になっている。跨線橋の耐震構造は実にシンプルだった。橋桁になる擁壁面と90°相対する道路面を支持するためにU字型に曲げた異形鉄筋を組み合わせて毛糸の編み物のように繋ぎ合わせているのだ。これなら多少の揺れに対する遊びがあり万一の落下も防げそうだ。ただ、コンクリート構造物とは違い剥き出しの異形鉄筋なので強度計算はどうなっているのか不思議に思った。
 天候がいいと普段歩いたことない道も歩いてみたくなる。思いがけず住宅地の中に知らない喫茶室的な建物を見つけた。他に人気もなく入るには勇気が必要な気もする佇まい。オシャレで大きくていつかこんなアトリエで仕事したいと思ってしまった。明るい未来をイメージするために一役買ってくれくれそうだ。
 衣料品店に立ち寄ると冬物が安売りになっていた。靴下を買い求めたりしてまた歩く。

 
 車道は雪融けも手伝って自転車でも走れそうだった。
 いつものようにスーパーを2軒ほどハシゴして帰宅する頃には西の空を雲が覆い始めていた。また雪になるのだろう。予定通り2時間ほどの行程だったが、自宅で少し落ちつこうとすると久しぶりの腰痛に気がついた。凍結した路面を歩いたせいだろうか。しばらくぶりの感覚だ。ボクの腰の耐震構造はどうなっているのだろう。

 思いの外疲れてしまったようだ。夕方になって何とか机に向かったが集中力が維持出来なかった。夜になって熱めの風呂に入ったら腰痛がいくらか楽になったようだ。熱めの風呂って何℃あるのだろう。計ったことがない。温泉に行っても熱めの方が好みのような気がする。そういえば、しばらく温泉に行ってない…と取り留めのないことを考えながら夜は更けて行く。


 腕立て伏せ:105回

予定

 昨夜の夢で見ていたのかもしれない。
 午前中、何となく新たな漫画の設定をぼんやり考えていた。

 人は予定に従って行動している。
 日常的に当たり前のこととなっているから疑問を持つことなどないかもしれない。しかし、時間通りに目覚ましが鳴り、定刻には電車が来て、いつもの時間に出社したり登校したりしている。おかしなことを言うかもしれないが、これは実際、不思議なことである。そしてそれを不思議に思わないまま生活していることがまた不思議である。
 子供の頃、大人のしていることはとても不思議だった。
 たとえば春の息吹が萌え立つ頃。山菜の芽吹に合わせて山へ行った。
 たとえば潮干狩りの日。大潮の時間に合わせて海へ繰り出した。
 たとえば秋の紅葉の頃…たとえば…たとえば。
 その多くを教えてくれたのは寡黙な父だった気がする。繰り返す季節を過ごして得た知識は季節を先読みする能力だったのだろうか。
 気がつけば、大人が先読みすることを不思議に思えた子供の頃の目線をすっかり忘れてしまっている。

 予定とは、つまりは未来のあるべき状態を予測して行動することだ。予定外の事態に遭遇することがあっても、その困難をくぐり抜けて不確定な未来を確定することである。
 考えてみれば、それは人間に限らない。野生の動植物とて経験則や遺伝子に刻まれた習性を元に行動し不確定な未来を確定することで生きている。そればかりか海も山も雲も雨も季節も月も太陽も…あらゆる事象が予定表のない予定を黙々と確定している。
 過去を変えることは出来ないと認識しているが、ともすれば予定のある未来が現在を拘束していることにならないだろうか。生きることとは、まだ見ぬ不確定な未来を確定することなのかも知れないとさえ思える。

 午後から制作続行。
 下絵中心に5枚。数枚は以前に描いてあったモノで加筆修正と言った感じだ。調子が悪いというほどではないが、少しいつものバランスがとれないような感じがした。ペン入れ前だが、いつものようにスキャニングしてイラレでレイアウトしてみる。思っていた配置では繋がりが良くないので大幅なレイアウト変更。ただ配置しただけでは動きがないし面白味に欠ける。まだ背景を描いていないことも原因だろう。いつになったら直感的にレイアウト出来るようになるのだろう。

 現在描いている作品は結末を曖昧なまま終わらせる予定だった。しかし、漫画の中くらいハッピーエンドを用意した方がいいような気がしている。たとえ漫画であっても明るい未来を想い描いた方が、今を幸福に生きられるのではないだろうか。それはもしかしたらボクの役割なのかもしれない。


 腕立て伏せ:115回

2016年1月22日金曜日

保留

…あっという間の金曜日…である。
 土日は雑用が少ないはずだから漫画のための時間も取れるだろう。そうは言っても描ける時には描いておきたい。今日は昼頃から机に向かうコトが出来た。
 ここ数日、鉛筆を走らせることに専念していたが、今日はペン入れを進める。気温が低いため、インクや墨の乾きが遅い。ついうっかり乾いていない所に触れてしまい、滲んだり汚れたり…漫画家の方の作画風景を見ると手袋をしているのを見かける。少しは原稿が汚れるのを緩和出来るだろうか。描く感覚が変わってしまわないか少し気になる。
 たまっていた鉛筆の下絵に一通りペン入れして薄墨で影をつけ、乾いた頃を見計らって消しゴムをかける。それからスキャニングだ。今日のスキャニングは全部で8点。何点かピックアップして彩色していたら保留にしてあった漫画が目に留まった。実は2ページにしてからアップするつもりもあって作画し直したりしていた。しかし2ページ目が思うように進まなかったこともあって保留にしてあったのだ。そこで例によって断片漫画である。


 このページではメールをプリントアウトするという謎の作業を登場させている。この設定には意味があって追加予定だった2ページ目の次の展開の伏線になっている。が、その設定が活かされるためには何ページか描き進めなくてはならない。
 こうして改めて見ると数ヶ月前は筆をメインに使っていた。今はGペンをメインに使っているからまた雰囲気が変わっているだろう。
 こんな風に描きかけて保留になっているものが何点かたまっている。唐突にスランプに陥る度に方向性を変えたり新しいことを始めたりした結果だ。描きかけの保留であっても残してあったからこそ数ヶ月前の作品の意図を見失わないでいられる。無駄に思えたことも無駄ではなくなるのだ。
 
 夜になって近所のスーパーへ出かけた。毎日行かないと特売品を見逃すのが悔しい。サラサラと細かい雪が降り続いていた。街灯の光を受けてキラキラ輝いていたからダイヤモンドダストのような雪質になっていたのだろうか。ブリのアラが安かったので購入。冷蔵庫の奥で保留になっていた大根と合わせてブリ大根にした。

 腕立て伏せ:115回

2016年1月21日木曜日

並行

 今日は外出せずに作画に取り組むことが出来た。調子は悪くない。それどころかこれまで描いて来た中で最も良い状態のような気さえする。無論、問題なしなんて言うことはありえない。日々の雑用の他、平日は別途やらなくてはならないことがある。特にこの時期は忙しい時期にさしかかっている。そうは言っても外出の時間が省けるだけでも数時間が節約出来ることになる。
 締め切ったままのカーテン。ブラインドの隙間からは外の光が漏れさして来ていたから天候は悪くなかったのだろう。
 以前、油彩を描いていた頃、絵の具が乾く時間を有効利用するために数枚の絵を同時進行していた。当時の油彩の出来はどうあれ、集中力を維持することにも一役買っていた気がする。それを今、漫画で再活用している。描いているうちに高まる集中力はゲシュタルト崩壊を想起させる現象を引き起こすことがある。バランスはとれていたはずの絵が捻れたりデッサンが狂ったりしているように見えて来るのだ。
 どうにも上手く描けないと頭を抱えるような時に机を離れて休憩すると、戻った時には作品が見えない誰かによって修正されたような錯覚を引き起こすのはそのためだろう。
 複数の絵を同時進行して渡り歩きながら作画することは集中力をほど良く維持することが目的だが、頻繁に意識を切り替える必要があるため違った意味の疲労は増大しているかもしれない。現在noteで制作している漫画の作品が複数あるので理想的な制作スタイルとしては、それぞれの作品を同時進行することだが、現在はひとつの作品の複数のカットを同時進行するので精一杯である。

 夕方になって別途やらなくてはならないコトに手をかける。予想通りうんざりするような作業が待っていた。昨年までなら4〜5時間かかっていたような作業だが、やり方を変えたことで2時間ほどには短縮出来ただろうか。作業をしている間に夕飯の支度も同時進行である。
 会社に勤めていたこともあるが、大抵は帰りに安い食堂で済ませたりスーパーで安くなった弁当を買い求めて食べたりしていた。仕事の疲れもあって朝が起きられなくなり朝食もコンビニのおにぎりで済ませることも珍しくなかった。冷静に計算してみると仮に1日1,000円の食費がかかれば1ヶ月で30,000円である。会社と自宅を往復するだけの生活であっても自動的に30,000円の食費がかかってしまうのだ。もちろん朝昼晩と買い食いしていては1日1,000円に抑えることも容易ではない。プライベートの時間もしっかり充実しているなら納得も行くだろうが、会社の仕事だけの為に生きるような毎日であるなら食費は全額会社負担でも当然ではないかとさえ思えてしまう。そればかりではない。通勤で使うことがメインの自家用車の維持費、通勤のための服装、女性なら化粧品代…そんな諸々の多くを自己負担で会社に奉仕していることになっていたりする。その奉仕が会社への忠誠心の現れであるかのようだ。しかもそれは会社員としての基本セットと見なされるのであって、それだけで会社に利益が出るわけではない。何だかひどくおかしな構造ではないだろうか。
 作業をしつつカレーを作ることにした。特製の元気カレーだが、温めて朝食のパンとセットで食べるので朝食の支度の時間を短縮することにも一役買ってくれる。そのために一回は鍋一杯のカレーを時間をかけて作る必要があるのだ。
 何度かの転職の経験の中では、定時になったらタイムカードを押してそこからサービス残業のスタートということもあった。そんな時間外であるはずなのに携帯に私用の電話が入ると注意されるということもあったが、自宅であればそんな心配はない。画期的な業務の効率化の可能性があっても社内で理解されずお蔵入りになって、オフィスの暗がりで毎日コピー三昧などという過去の苦い思い出もある。会社勤めでなければ、自己判断で考えられる業務の効率化はそのまま生活のゆとりとなるはずである。新しい仕事の開拓に当てることも可能だろうし、今だったら漫画の制作時間を捻出することに繋がる。
 自宅であれば、仕事や生活を分け隔てなく並行に同時進行させるコトが可能なはずである。管理職が幅を利かせる社会では、誰かの仕事を作るために自己負担の奉仕をして通勤しているような気がして来ないだろうか。


 腕立て伏せ:115回

2016年1月20日水曜日

蓄積

 昨日の雪かきの疲れもいくらか残っているようで何かと億劫な気分だった。いつもの腕立て伏せもいつも以上にをやりたくない。しかし、1日休めばコレまでのことが台無しになってしまう気がする。いざやってみると昨日雪かきで身体を動かしたことでいつもより動きがいいような気がした。
 例によって食材の買い出しに出かけたいのだが、断続的ではあるものの時折堰を切ったように雪が降っていた。しかし、気になることを先送りした所で解決はしないと思い昼前になって出かけることにした。2時間ほどで戻ってくれば作画の時間も取れるだろう。
 今日も仕方なく長靴を装着。踵の靴ズレには絆創膏を貼ってあるから何とか保ってくれるだろう。今日は傘を持って出た。ザブザブと降り続く雪の中をトボトボと歩く。普段ならあれこれと想像を巡らせる余裕があるのだが、降りしきる雪の中を黙々とスーパーを目指す。目的のパンとジャム、それから丁度安売りになってたヨーグルトを購入。目的は達成したとばかりに踵を返し自宅方向へ向かう。あちこちで雪かきをしている人に出会うので挨拶がてら声をかけて歩いた。雪は人を繋ぐのだ。最後のつもりで近所のいつもお決まりスーパーに立ち寄って足りないものを買い込んだ。店を出る時になって甘いものを欲しかったと思い出した。そこで、たまにはいいだろうとコンビニに立ち寄ってみることにした。ところが、久しぶりに立ち寄ったコンビニの商品はスーパーの1.5倍くらいの価格に見える。スーパーを出たばかりということも関係あるかもしれない。スーパーで100円のメロンパンが1割引になっていたことを思い出す。しばらく店内をウロウロしたがすっかり意気消沈してしまった。手ぶらで出るのも気が引けると思い缶コーヒーを手にしたが、それも150円である。スーパーで買えば…些細なことでクヨクヨしてしまった。
 帰宅すると1時間半と少しかかっていた。予定よりは少し早い帰宅ということになる。これで数日分の食材はあると思うので何とか作画時間を確保出来るだろうか。
 昼食を済ませ作画に取りかかる。調子そのものは悪くないと言っても鉛筆が走るということであって、ペン入れのコンディションではないような気がする。せっかくなのでひたすら鉛筆を走らせた。
 気がつくと夕方になっていた。
 ジワジワと疲れが滲み出してるようだ。昨日の雪かきや雪道を徒歩で歩いたことなどの蓄積だろう。

 気になることを先に済ませて作画の時間を確保しようという考え方は一見計画的にも思えるが、たぶん気になることのプレッシャーに勝てないだけではないかと思う。そうしてこれまでずっと描くことを先送りして来てしまったのだ。しかし、描くことを最優先すれば身の回りのことは何も出来なくなる。独り暮らしでは自殺行為ではないだろうか。結局これまでと何ら変わりなく気になることを優先して行くことになるのだ。

 調子が良いと言えばまた言いすぎになるが、少なくても悪くない状態が続いている。この状態を少しでも長く継続すればその蓄積が未来へ繋がると今は信じるしかない。


 腕立て伏せ:110回

2016年1月19日火曜日

過渡

 昨日使用してみた描画ソフトはOSXのシステムが英語環境の場合で不具合が解消されることは解ったが、システムの設定を英語環境に切り換えないといけないことになる。その際に再起動が必要になることや英語環境で他の問題が出ないかという不安もあった。そこで普段利用していないOSXのシステムに英語環境専用のアカウントを作成し設定にしたらどうだろうと思い試してみた。そうすればユーザーの切り替えで作業環境の変更が可能になる。実行してみると初回のログイン時に読み込み時間がかかるものの実際に使えそうなことが解った。そればかりか日本語環境では表示されていなかったツールのアイコンなども正常に表示されるようになった。

 机に向かい作画しているとあっという間に時間が過ぎて空腹感を覚えたので昼食にうどんを食べた。

 休憩しつつMacの電源を入れてみるとプロバイダからADSL回線サービス終了の案内メールが来ていた。降って湧いたような悩みの種に軽いショックを受けた。以前に乗り換えのタイミングを逸していることもあって非常に腰が重い話である。今更ISDNというわけにも行かないから光回線という選択しかないだろうか。レンタル機器の返却なども頭を過る。あれこれ考えてみたが、何しろ情報が足りないので電話してみた。最初は「混み合っているのでおかけ直し下さい。」ということだったのでしばらくして再度電話する。非常に丁寧な対応で解らないことにきちんと回答を頂くコトが出来た。
 事情は解った…ただし、事実上の値上がりということになる。光回線なら2年間は値引きされるとは言え、これまでより高いことに変わりはない。しかも2年後にはさらに値上がりということになる。またアパートに回線が入っていないため大家さんの許諾が必要になるとのこと。現在のインターネットはパソコンだけで利用しているが、タブレットにも対応出来るWi-fi環境を選択した場合、2年割引は適応されないものの2年後には光回線より安い計算になるようだ。しかも、アパートに特別な機器の取り付けは必要ないので大家さんの許諾も 不要とのことだった。
 全く厄介な話だなぁと思いつつ不動産屋さんに相談に出かけることにした。
 考え事をしていたためか雪がガンガン降っているというのにか傘を持って出ることを忘れていた。昨日の長靴ズレは気になっていたが、ウォーキングシューズではすぐに靴の中が雪だらけになることが予想出来たのでやっぱり長靴で歩き始めた。そして間もなく靴ズレが痛み始めた。大粒の雪は容赦なく降り続き歩く雪だるま化していく。
 不動産屋さんはこの町に暮らすようになってずっとお世話になっている。光回線の導入に関して大家さんの許諾は問題なく得られるだろうということで安堵した。後は少し時間をかけて光回線かモバイル回線かの検討をすることにしよう。やりくり出来るかなぁ。

公園の雪

 買い物を済ませて帰宅すると結構な積雪になっていた。このまま夜間も降り続けると明日の朝が思いやられるので今季初の雪かきを始めた。ものの数十分で汗だくになる。いつもの腕立て伏せとは使う筋肉が違うので約1年ぶりとなる雪かきはなかなかに大変だ。

  腕立て伏せ:108回

積雪

 今朝は雪が10cm程度積もっていた。雪かきをしなくてはならないか判断に迷っていたが、やがて雪に雨が混じり始め、しばらくすると本降りになった。気温は上がっているということだろうか。雪かきは厄介だが、雨となると外出の際に傘が必要になるので億劫である。
 よくもまぁ、毎日外出の必要があるものだと思うが、些細なことでも気になり始めると片付けないではいられない。明日でも間に合う用件だったが外出することにした。普段ならアウトドア用のシューズを履いて出る所だが、結構くたびれた靴なので今日のような融けかかったシャーベットのような道路状況では水が染み入って来るので長靴にて出かけることにした。歩き始めてまもなく踵にイヤな感覚があった。長靴特有の靴ズレの予感である。以前に長靴で少しばかり遠出したばかりに靴ズレになって痛い想いをしつつ帰って来たことを思い出した。「今日は靴下を2枚重ねで履いている。きっと大丈夫。」と自分に言い聞かせて歩く。淡い期待は儚くも敗れ去り、用を済ませて帰る頃には踵に痛みを感じ始めていた。帰宅して確認するとやっぱり靴ズレを起こしていた。大した距離ではないのにコレだ。明日は卵が安売り。明後日はパンを買いに出なくてはならない。長靴では無理のようなので多少水が染み込んでも仕方ないのでウォーキングシューズにしよう。時間もかかるので自転車で走れたらありがたいのだが、今日の雪の降り方ではしばらくは無理かもしれない。

 帰宅して机に向かうも描き慣れたはずのキャラの描き方を見失う始末。長いブランクがあった影響ではないかと思ってしまう。
 夜になってまた描こうかと思っていた所へ新しい描画ソフトの情報があったので早速試してみることにする。オープンソースということで安定感の心配はあるが、Desktop向けの描画ソフトは使い続けられるものになかなか出会えないため期待が大きい。早速最新バージョンをインストールしてみるとやっぱり挙動がおかしかった。使い勝手は悪くないようなので安定版に慣れればイケるかもしれない。日本語対応しているはずなのに切り換えてもメニューが英語のままなので疑問に思ってサイトを確認してみるとOSXはシステムの設定が英語になっていないと日本語メニューが使えないという謎仕様だった。せっかくなのでひとつ古いバージョンをインストールしてシステムを英語設定にしてみると最新版より安定して日本語メニューを使えるようだ。ソフトに慣れるまでは日本語メニューで使えた方がいい気がする。目玉はCMYKモードが使えるらしいということ。またブラシのバリエーションもかなりの種類があるようだ。いつものことだが、ペンタブを持ってないのが悔しい。せっかくアナログの感覚を取り戻しつつあるので両方を上手に使えればいいのかもしれない。

 腕立て伏せ:103回





2016年1月17日日曜日

盆栽

 今日も起きると雪が降っていた。少し積雪があるためかやはり寒さが柔らかい。
 陽射しはあるのに雪が待っている。まるで春のなごり雪の風情だ。空に向けて何枚かシャッターを切ったが、コンパクトデジカメでは舞い降る雪にピントが合ってしまう。帰宅して確認すると肝心の空がピンぼけになっていた。



 漫画に取り組むようになって制作に当たって必要な様々なことに気がつくようになった。
 ウマいとかヘタより描き続け描き切るという画力。
 物語の構成力。
 コマ割りのデザイン感覚。
 そしてボリューム感…などである。
 ひとつの物語のアイディアはそれこそ種のように小さい。しかし、樹形や葉ぶりを気にかけながら面白がって育てているといつのまにか手に負えないほど大きく成長してしまう。1コマや4コマのようにまとめることは盆栽を仕立てるようなコトかもしれない。大きくならないように工夫しつつ樹形や葉ぶりは大きな世界観を描くのだ。つまりたとえ小編とて育てるのは容易なことではない。したがって制作に当たっては全体のボリューム感を意識する必要があるようだ。
 noteを始めてから描き始めた漫画が何本かあるが、描きたいように描き進めたお陰でみるみる大きな話に成長してしまい剪定すらままならないスケールに成長してしまった。形としては短編を何本か描いて全体を描写する方が良いようだ。2015年末から描きかけていた数本の作品もまた構想中に大きくなりすぎて保留となってしまった。ボクが描かなければ世に出ることはないのでいずれ何とかしたいものだ。

 今日もキャラ練りを継続。調子は悪くない。描きたい雰囲気が少しずつ固まって来た。

 寒さはいよいよ厳しくなりそうだ。雪があった方が寒さは和らぐものの雪かきが必要になると体力を持って行かれるのが辛い。

 腕立て伏せ:110回

2016年1月16日土曜日

住処

 今朝は少し積雪があったようだ。例年とは比較にならないほど少ないが、雪が積もると刺さるような寒さが少し和らぐような気がする。しかし、寒さは足に染み入って来るようである。たまらず靴下を2枚重ねにした。ここ4〜5年の間コタツのない生活でこたつ虫を回避しているのだが、やっぱりこんな日はコタツが欲しくなる。

 田舎町に移り住んで16年ということになるだろうか。半ば発作的に決めてしまった転居は予想以上に生活が厳しくなったりして大変なこともあるが、ここで暮らせることを嬉しく感じることが度々ある。以前に住んでいた土地では感じられなかった感覚である。
 昔の人は住む処を決める時、どんなことを条件にしたのだろう。
 人として生きるために衣食住が重要とされるが、食を自然の中から得ていた時代には住処の環境も重要だったのではないかと思う。
 産直の店を訪ね歩いていると野草を乾燥したものが販売されていることがある。薬事法の問題もあってか効果効能について記載されていないが、調べてみると山菜ばかりではなく薬草としての一面を持っていたりするのだ。もっともスーパーで販売されている野菜や果物とて身体に良いとか栄養価が高いものの選りすぐりであるから、取り立てて薬事法がどうとか言うことではないのかもしれない。田舎はスーパーで手に入らないものが道ばたにあるということだ。そう言う野のものを食す習慣が残っているのは田舎ならではなのだが、資本主義社会では儲からないものは見向きもされない。人によっては高価な宝飾品以上の価値があっても評価されないのである。
 野山の幸により深く親しむようになったのはこの土地に暮らすようになってからなのだが、それは雪国という気候も関係しているだろう。雪が積もることで大地が乾くことなく春を迎えられるのだ。雪融けの田んぼで鮮やかな緑を目にするとハッとする。冬の間も大地は雪に育まれているのだ。

 部屋を温めつつ相変わらずのキャラ練り継続中。
 春夏秋冬、四季折々の気候と自然の変化は暮らしの表情を豊かにしてくれる。あまりの美しさにまるで絵の中で暮らしているかのような幸福感を味わうこともある。
 ただ、描くということについてはどうなのだろう。暖かい地方の方が脳の活動も活発なのではないだろうか。あるいは今流行の高気密高断熱住宅で寒さ知らずのアトリエだったら…何の事はない。寒さに弱音を吐いているのだ。
 
 腕立て伏せ:106回

規格

 古いシステム環境の職場に転職した夢を見た。
 実体験としてもあることだが、分業が進み自分の専門に集中することが出来る環境から何でもこなさなくてはならない環境への転職は刺激的でもあったが「経験者」とは何を意味するのかと考えさせられた。
 夢の中での転職は前回の夢の中での出来事だったが、昨夜の夢はその続きだった。ボクは見たことのない黒い金属製と思われるバインダーのような機械の前に案内され「経験者ならわかるよね?」的に放置された。わかるよねって言われても見たことのない機械である。そのバインダーには印刷物がセットされているようで言わば旧式のDTPマシンとでも言うべきか。しかしボクはパソコンでの作業しかわからない。そうこうしているうちに配置転換があったらしくボクの仕事を担当していた人がいなくなってしまった。わからないことを誰に聞いたら良いのかいよいよ困惑してしまった。所属長らしき男性から「何で出来ないんだ」と優しい口調で問いつめられ、優しさと裏腹に長く鋭利な金属で額に傷をつけられた。もうダメだ。こんな所は勤めていられないと決意した所で夢から覚めかけた。しかし、もう一度夢の中の職場に戻ると知らなかったはずの機械のことも仕事の内容も理解出来ていた。そして絶対に間に合わないはいずだった仕事を見事やり遂げるという夢だった。

 経験者というものは規格品ではない。たしかにその時代の技術的な知識はあるにせよ仕事の内容は企業によっても千差万別なのだ。困ったことにひとつの企業の中で長く働いているとそれが業界標準であると錯覚する。経験者の求人を出す気持ちはわかるが、即戦力などというのは幻想ではないだろうか。仕事の内容にプライドがあるなら丁寧に指導する覚悟が必要ではないかと思う。少なくても他の職場を経験していれば、未知の知識や技術を持っている可能性が高い。閉塞的になった組織に新しい風を吹き込むことに寄与することは可能なのだ。

 もしも規格化された人材を求めるなら一から育てるべきだろう。そして育てられる側は規格化されることに甘んじることなく知識や技術を拡張し独自な成長を遂げることが望ましい。

 腕立て伏せ:105回

2016年1月14日木曜日

舞台

 人生という舞台において人は常に主役である。
 よく言われることだが、ずっと意識していることは難しいし煩わしい。そればかりか自らが舞台を荒らしたり台無しにしていることがある。おそらくボク自身もそういうことをしているのだろう。徹頭徹尾演じ切るというのは容易なことではない。裏も表もある凸凹だからこそ人間らしいとも言えるだろう。
 しかし、そのステージが何を表現し何を伝えようとしているのか、どんな意味を持つのかと考えてみると疎かにしていることが恥ずかしくなることがある。
 一人の人間の力なんて大したことない。
 ちっぽけな自分が出来ることなど何もない。
 人は成長し、社会を知り、世界を知るうちに自らの非力さを知り身の丈の幸福の尊さを知る。そこに異論はない。しかし、生きた証を残したいと願った若い想いは果たして無意味だったのだろうか。非力なりにも役に立ちたいという欲求は偽善なのだろうか。

 そこに舞台があるなら…自由に演じることを許されるならどんな自分を演じたいだろう。

 漫画を描くということは、漫画の世界を生きるということかもしれない。それとも経験の中の凸凹な想いをキャラクターに重ねることだろうか。
 新しいキャラクターの必要を感じて数日前からキャラクターを練っているが、なかなかウマく固まらない。
 彼は仕事が忙しい割に給料は安く、思うようにプライベート時間を楽しむ気持ちの余裕がない。迷い込んだ人生の迷路が思いのほか窮屈で、若くして自分の意志で物事の判断ができなくなっている。
 疲れてやつれた印象の若者を描こうとしているのだ。髪型はどうか。眉は太いのか細いのか。鼻、口…彼の仕事の勤務状況はどんなものか…難点なのはそんな設定のキャラクターにいかに感情移入するかということだ。何枚も描いては失敗を繰り返している。
 世界には様々な人がいるというのにボクの描くキャラクターは似通った印象になりがちだ。人間観察が足りないのか。想像力が足りないのか。そもそも突き詰めが足りないのか。断片漫画は連載の予定がないのが基本とは言え作品中に描かない部分の設定も重要なのである。

 腕立て伏せ:110回

2016年1月13日水曜日

手甲脚絆

  心配事が舞い込んだこともあってか机に向かっても集中出来ない。それでも描いてみるが、乾いていないインクを無意識に触ってせっかく描いたカットを台無しにしてしまう有様。恵まれた人って言うのはどういう人なんだろう。求めなくてもあらかじめ持っているのであれば求める必要はない。それは恵まれているということだろうか。そういう意味では、ボクは足りないものばかりである。かといって欲しいという欲求も色褪せて来ている。足りないことに恵まれているんだろうか。
 バイオリズムも低調。そして気温も低く暖房を入れてもなかなか室温が上がらない。それもそのはず、設定温度が最低である。そしてどういうわけか出かけたくなった。寒いのにどうしてだろうと自分でも思う。身体が外に出たがっているという他はない。
 自転車を出す前に先日中途半端になっていたジーンズの切れ端にボタンをつけてみた。呼称が思い出せなかったが、いわゆる脚絆(きゃはん)ということになるだろう。現代ではスパッツとも言うのではないかと思う。布の素材が違えど昔の人も同じようにスネに布を巻いていたわけだ。イメージでは2つ付ければ足りると思っていたが、実際に手に取ると2つではどう考えても足りない。3つ付けても足りないくらいだった。予定通り斜めに取り付けて裾がしぼむようにする。予定では脚絆がずり落ちないようにジーンズを固定させるボタンをひとつつけるつもりだった。しかし、巻いてみると布が固いためそのままでも行けそうだった。


 実際に試着して走ってみることにした。締め付けが強くないためルーズソックスほど緩くないものの若干頼りない。しばらくすると脚絆がだぶつき始めた。そして早速チェーンで汚れた。汚れ対策なのでしっかり役には立ってくれたことになる。

 ポタンの見た目のカッコ良さを優先したものの実際に使ってみるとフックでピッタリ留められる方が良かったかもしれない。試行錯誤の結果であっても作ったものは残って行く。脚絆が出来たら次は手甲を作って旅支度かな。

 腕立て伏せ:115回

2016年1月12日火曜日

虹雲

 雲をつかまえる夢をみた。
 空は青く澄んで風が強く吹いているようで、白く透き通った絹のような雲が形を変えながら流れて来ては去って行く。ボクはどこかのビルの屋上にいるようで流れて行く雲に手が届きそうな気がした。そこで空に手を掲げてみると、天女の羽衣を彷彿とさせるような雲の細い切れ端がスルスルと流れて来て差し伸べた手にまとわりついた。実体を持っているかのような雲だったが、手に絡んだ雲の切れ端は陽の光を受けて輝きながら刻々と形を変えやがて消えた。もう一度やってみようと手を掲げる。するとまた青い空の彼方から雲はやって来て難なく手にまとわりついた。陽の光の加減だろうか。白い雲は虹色に輝き始めた。雲が虹色に発光して見える気象現象を彩雲と言うが、まるで彩雲のようであり雲そのものが虹色に輝いているようにも見える。ふと、食べてみようと思い口に入れてみる。味は解らないが実体がないはずなのにワカメのような食感があり、軽くコリコリとした歯ごたえがあった。
 これまで色んな夢を見たが、実に不思議で美しい夢だった。
 そう言えば、若い頃に漫画のアイディアのひとつとして「夢空間」という作品を考えていた。現実と夢を行き来する話だからいわゆる「夢オチ」が最初からネタバレしている。しかし、人間は現実世界で生きているつもりでいながら五感によって得た情報から外界を認識しているに過ぎない。つまり常に夢と現実の境界は曖昧で現実を錯覚して生きているのだ。
 今描いている漫画のそれぞれの話は、若い頃に考えていた「夢空間」が素地になっている。現実と非現実が交錯する不思議さが好きなのだ。もしかしたらそれ以外の漫画は描けないのかもしれないとすら思える。

 トイレに入っていたらアイディアが浮かんだ。
 これでまたカットを増やさなくしてならないのでページ数にも影響するかも知れない。現在の構成パターンは、まず筋書きを考えてからレイヤーを重ねるようにエピソードをオーバーラップさせて行く。エピソードが足りないとスカスカの内容になってしまい、相対的にメッセージ性が弱くなる。新しいアイディアのため新しいキャラクターが必要になったわけだが、描いてみるとこれまで描いたキャラクターと大差なくなってしまった。髪型の違いくらいなのだ。描き分けが難しい。
 追加するカットの配置を考えていたら9ページ程になりそうだ。足りないカットも増えるので制作全体が膨らんで行く。入浴しながらまた次の展開を思いついてしまった。途中になっている作品があるので無闇に長編にするわけに行かない。10ページくらいになるのは仕方ないとしてまずは作品の濃度を上げることを考えよう。

 腕立て伏せ:112回
(肩の不調にて仕切り直した) 

分別

 とにかく昔から捨てるのが苦手である。
 衣類は若い頃に買ったものを毎年着ているし、古着になったからと言ってまだ使い道があるのではないかと思って捨てられない。母もそんな感じだったから遺伝も関係あるのではないかと思ってしまう。
 もちろん捨てられないのは衣類ばかりではない。
 ガラス瓶やペットボトルの形がスキだったりする。子供の頃にラムネの瓶に憧れのような気持ちを抱いたことがあったが、ラムネほど複雑な形でなくてもものの形に可能性を感じてしまうのだ。ビー玉がスキだったからガラスに対して宝石を見るような感覚を覚えるのかも知れない。今や何の違和感もなく生活にとけ込んでいるペットボトルだってちょっと昔から見れば未来的である。しかも製品毎に形状に変化があり製品をアピールするデザインとしての役割まで担っているではないか。切ったり加工したりして利用することを想定するとまだまだ利用価値があると思ってしまうのだ。比較的購入する機会の少ない大きめのサイズのペットボトルを取っておいたりするのは、大きめのサイズなら切っただけで植木鉢にだって利用出来ると思うからだ。しかし、実際利用するかと言えば、なかなか行動に移さないのでペットボトルがたまって行くばかりになってしまう。数年前の断水時に空ペットボトルのストックが役に立ったことがあった。非常時なんてしょっちゅうあっては困るのだが、思いがけないことに対応できることもある。
 それから広告などの紙類。DTPやデザインの参考になるかと考えて取っておいたこともある。捨てようと思ってからも大切な書類が紛れているのではないかと思ってしまいこれまた捨てられない。そして買い物で発生するビニール袋はかさばらないので山菜やキノコ採りに出かけた時に便利だと思ってしまう。
 では、生ゴミはどうだろう。家庭菜園をしている方ならご理解いただけるかも知れないが、生ゴミはきちんと利用すれば上質な堆肥となる。言わば宝物である。今はなかなか手を出せずにいるが、畑の隅に埋めておけばミミズがやって来てきちんと堆肥にしてくれるのだ。もっとも、生ゴミをそのままでは悪臭の問題や虫が発生することもあるので一度乾燥させるのが良いと思う。乾燥させれば、軽くなるから堆肥として利用するにして燃やせるゴミとして処分する場合にも都合がいい。どっちが環境に対して負荷が少ないかと考えればやっぱり堆肥として利用することだと思うが、実行するのは容易ではないかも知れない。
 そんなわけで少し前に流行った断捨離の意味が理解できなかった。
 再利用を考えれば捨てられなくなるということを言いたいのだが、使わなくなったパソコンやモニターなどの処分には頭を悩ませる。オークションに出すのも煩わしいしHDDの初期化の必要などの懸念もある。以前、メーカーに処分を問い合わせたことがあったが、処分費用を聞いて意気消沈した。最近ではパソコン引き取りの回収業者も回っているようなので検討しないと押入れが中古パソコンで占有されてしまう。

 そんなボクが少しずつリサイクルを心がけるようになった。流行のミニマリストに影響されたわけでもないのだが、これまでにたまっていたガラス瓶やペットボトルを外出の際に持ち出して収集所へ持って行くのだ。今やスーパーで回収しているので買い物ついでに持って行けばいい。もっとも、自転車で運んでいることもあるし、日々増えているものもあるので、そう簡単に片付くものではない。

 この心境の変化は漫画に専念しつつあることにも関係しているのかもしれない。これまで様々な自分の可能性を想定しなくてはならなかった。山に行くのと海に行くのでは自ずと必要なものが違う。様々な局面に対応する必要があれば経験したモノは捨てずに維持することが求められる。しかし、何かに専念することが明確になれば必要最低限のもの以外は処分出来ることに繋がるのだ。
 もしかすると断捨離やミニマリストになるコツは生活をシンプルにすることより人生の目的を明確にするということかもしれない。

 もっとも、言い訳を並べ立ててみても所詮は分別のない大人。すっかりオジさんだというのにオトナになった自覚が足りないだけなのかもしれない。

 今日は引き続き制作中の漫画のカットを作画。現時点で7ページなので1ページ削除して6ページにすることも考えたが、カットを追加したことでその必要は無くなったかもしれない。描きかけの状態で下書きページにセットしてみたら台詞の文字もカットも大きすぎる気がする。修正しつつ制作進行。

成人式だと言う情報は目にしていたのに祝日だと気がついたのは夕方だった。


 腕立て伏せ:107回

2016年1月10日日曜日

縫う

 大雪に恐れおののきつつ布団から出ると、今日も太陽が顔を出し青空が見えた。
 買い物があったので自転車を出す。自転車に乗る際にチェーンの油がジーンズの裾を汚すので100円ショップで買ったマジックテープのバンドを巻くのだが、それでも気がつけば真っ黒になってしまう。そこで古いジーンズを切って巻いてみたらどうだろうと考えていた。その布を留めるために100円ショップで適当なボタンがないかと思ったが、古着のボタンで代用出来るのではないかとも思った。先日、そんなことを考えながら手芸店に立ち寄ってみたらジーンズのデザインに合いそうなスナップのボタンを見つけた。金槌で叩いて取り付けるらしい。それは便利と思い購入してあった。
 自転車を走らせながらどんな風にしようと考えを巡らせる。
 必要と思った食材を買い集めて回ったが、ネギだけは意に添うものがなかった。食パンを5日分。ジャム、牛乳…おでんが3割引きになっていたので購入。他に焼そばなど…これで外出回数が減らせるのではないだろうか。やはり天候は移ろいやすく最後のスーパーを出る頃は雨がパラついていた。

 帰宅して焼そばを作って食べた後、おもむろに裁縫箱を取り出す。裁縫箱と言っても小さめの段ボール箱に裁縫道具を詰め込んであるだけの代物だ。裁縫が面白いのは解っている。大したことではないが、古いシャツを買い物用の袋にリメイクしたり履き古したジーンズの生地で剪定用のハサミや草刈り鎌の袋を作ったこともある。それでやれば面白いことは解っているのだ。しかし、没頭するあまり時間を忘れてしまうという問題がある。特に今は出来る限り漫画のために時間を使いたいのだ。そうは言っても今回は目的がある。自分で作らなければジーンズの裾は真っ黒に汚れてしまう。こういう時はあまり構えるとズルズルと先送りになってしまうので、何となく始めるのが一番。ズルズル先送りするならスルッと始めた方がいい。
 既に古いジーンズの裾を切って安全ピンで留めて試用していたのでさらにリメイクすれば良い段取りだ。しかし、改めてジーンズの生地を眺めていると、足の内側と外側では縫製が違うことに気がついた。今回作るモノは右足用なのに切った生地は左足だったらしい。そのまま使うと縫製の内外が逆になってしまう…事前準備の観察が必要だということだろう。まぁ、今回は目をつぶることにしようということで、まずは切った部分の処理である。2回折ってから縫った方がいいのではないかと思い、幅1cm程度に2回折った部分を縫うことにする。ミシンは持ってないし使い方も解らないのでもちろん手縫いである。毎回針に糸を通すのに苦労するが、今回は勘で克服。縫い始めてみるとまっすぐ縫うのが意外と難しい。コツを掴むのに少し時間がかかった。しばらくかかってぐるり一周縫ってみると筒状ではなく切って一枚の布状にした方がいいように気がして来た。自転車で走りながら構想していたのは筒状にしたものにスナップボタンでベルトをつける仕様だった。しかし、そのデザインでは足を通す動作が必要になる。やはり地下足袋のスネの部分に巻つける布のようなデザインの方が良いような気がして来た。またも衝動的に切り開いて端の処理。手順としては所定の位置にスナップボタンをつければ完成となる予定だが、もう暗くなって金槌を使っている場合ではないと思い今日の作業を終えた。

 やってみれば面白いことはたくさんあるのだと思う。要はそれに没頭して夢中になれるかどうかである。
「そんなことをして何になる?」
「買った方が安いんじゃない?」
 そうやって楽しいことを他人任せにしていないだろうか。
 こんな作業が脳の刺激になり漫画の制作にも良い影響があるのではないかと期待していたりする。

腕立て伏せ:110回

2016年1月9日土曜日

背景

 昨夜はまた様々な夢を見た気がする。どこかを旅していたような気がするが、割とはっきり憶えているのは、薮から双頭の大蛇が這い出してくるシーン。大きめの銀色のウロコがきらきらと輝いていた。夢にヘビが出てくると縁起が良いという話を聞いたことがある気がするが、大抵の場合は噛まれるので御破算ではないかと思う。今回も指先を少し噛まれた。大層な大蛇なので少し噛まれるくらいはかわいいものかも知れない。
 その後、話の繋がりはわからないが、ボクはレストランの厨房で働いていた。先輩従業員は美しく気立ての良い女性でテキパキと誇らしげな様子で仕事を教えてくれる。コップ洗浄機が見たことのない珍しいものだったが、使い方はよく解らなかった。ボクは仕事をしっかり憶えて働きたいと感じていた。
 夢は毎日見ているのだというが、憶えていることとそうでないことがある。何か違いがあるのだろうか。漫画のヒントが隠れているような気がしてしまう。

 今日は雑用も少ないということで机に向かった。
 漫画の背景の必要を感じて制作。自動販売機の絵が欲しいと思っていた。定規を使って描くときれいに描けるのだと思うが、むしろくたびれた感じが良いと思いフリーハンドで描いてみる。自動販売機の背景は冬木立の林をイメージ。
 モノクロで描いたものをスキャニングしてデジタル彩色。背景なので鮮やかすぎたり目立ち過ぎてももいけないと思いつつ全体のバランスを考えてしまい一通り彩色してしまった感じがする。ところが、いざコマに配置してみたら使う部分がホンの一部で良いことが判明。ありがちなことだが、イメージする上で画面に入らない部分も重要だったりもする。一枚の背景を分割して複数のコマで使用するコトにした。計算違いだったのは、合成するためのイラストと倍率が違うため線の太さが異なってしまうこと。
 フリーハンドで制作したこともあり、画像にひずみがあったため画像ソフトで変形を描けて修正。
イラスト:待ちくたびれた自動販売機
待ちくたびれた自動販売機

 他のカットも制作して少しずつページが埋まって行く感じは嬉しい。全身カットを描くと手足の長さやバランスがおかしくなりがちなのが難点。描き上がってから「何で気がつかないかなぁ」と思ったりする。



腕立て伏せ:108回

金賞

 それは絵画展の受賞者を掲載した新聞記事。ボクの作品が金賞を受賞したという夢だった。夢の中での喜びは純粋に嬉しかった。
 現実世界ではどうだろう。
 何かしらの受賞しようものなら大量の石が飛んで来るような時代である。受賞さえしなければ平穏な生活を送れるかも知れないのに受賞したばかりに渦中の人となり築き上げて来たものが音を立てて崩れ去る。
 昔からこんな風だっただろうか。インターネット普及前でも羨望や嫉妬の目はあったに違いないだろうが、立上がれないほどまでに叩きのめしていただろうか。

 競争がスキではないボクでも何かのはずみで選ばれてしまうことはあった。
 小学校の頃、写生大会で描いた絵がたまたま選ばれてしまった。しかし、それはボクには不本意だった。たしか写生大会の前に図工の時間に点描の技法を学んだのではなかったかと思う。それで写生大会では点描で描き始めたのだが、描こうとしていた絵は牧場の羊だった。緑色を多彩に描き分けることなど知らず、不透明水彩の絵の具はいとも簡単に溶けて先に塗った色と混じり合った。つまり隣の色と混じり合わない距離感を保ちつつ一面の緑と羊を表現しなくてはならないことになる。始めこそ真面目に点描を開始してもしばらくすると時間内で仕上げることは不可能と気づいた。点描の点は徐々に大きくなり、なかなか乾かない不透明水彩に苛立って集中力が切れてしまった。そこからは太い筆にたっぷり緑色の絵の具を含ませ、太鼓を叩くように画面を叩いた。描きたい絵にはほど遠い見るも無惨な絵に仕上がっていたのだ。やりきれない想いのまま写生大会は終わり不愉快な気持ちを抱えたまま作品を提出した。ところが、後日図工の先生が選んだ数点の絵にボクの絵が入ってしまっていたのである。たしか「今回に限り」という条件つきだった。担任の先生も「良さがわからない」と言う。描いた本人にすらわからないのだから当然だ。そして不本意だった。
 納得出来る作品を描くというのはいつになっても容易ではない。だからこその挑戦なのだ。

 ちょうど同じ頃、夏休みの工作が入選してしまった。当時、夏休みの工作をやらずに登校して巧みに出来のいいものを作って来た級友と共同作品ということにしてしまう同級生もいた。もっともその級友でさえ自力で作ったとは思えない出来だったからどっちもどっちかなとは思う。だからボクが気に病むほどのことではないかも知れないが、ボクの作品は母のアイディアが元になっていた。作ったのはボクであっても選ばれたのは母のアイディアだと思ったのだ。オリジナリティとかプライドを意識し始めた出来事だったのかも知れない。それからはウケが良くなかろうが自分のアイディアで作ろうと思うようになり、それは絵を描くことにも繋がっている。

 社会人になってたまたま小学校の頃の同級生に地域のコンクールの絵を描かないかと言われたことがある。彼はその運営事務局の一人らしく、コンクールを盛り上げるために作品が欲しいということだった。応募者が少ないのかも知れないと思った。何よりも審査委員長は尊敬する漫画の大家である。締め切りまで時間がなかったが、ちょうどボクには制作に打ち込める時間があった。その漫画家さんの好みそうな曲線を意識してオリジナルの構想を組み立てた。締め切りギリギリまで徹夜で仕上げ、郵送では間に合わないので事務局に直接持ち込んだ。もっとも作品の出来に満足していたわけではない。友達に協力し尊敬する漫画家さんに見てもらう機会があるならそれでいいじゃないかと思っていた。ところが、その作品が入選してしまったのだ。授賞式があるというので会場へ出向くとボクは審査委員長の漫画家さんの特別賞をいただくことになってしまった。壇上には受賞者のために一段高くなっていたのだが、一番最後に呼ばれたボクはその段に収まりきらなかったためひとりだけ他の受賞者より低い位置に立つことになった。地方の小さなコンクールだし、大した不手際ではないのだが、何だか釈然としない想いが残った。賞には漫画家さんの直筆サイン入りのイラストという副賞があったが、それこそが主たる賞だったように思う。石こそ飛んで来なかったが、この話には個人的に不愉快なこぼれ話があったため、複雑な思い出になっている。後悔するのは、時間があればもっと良い作品が描けたのではないかということ。そして受賞の際に漫画家さんに握手をお願いすれば良かったということ。

 そしてさらに後になってインターネットで募集していたイラストの仕事をすることになった。その時にあの漫画家さんの雰囲気がぴったりだと感じたのが、制作に当たっては真似にならないように関連資料は見ないようにしてオリジナルを心がけた。そして曲線より直線を意識した。ただ、尊敬する方だけに影響からは免れないだろう。心のどこかがミシミシ音を立てている気がした。本人が真似したつもりでも似ても似つかぬ場合もある。結局、結果で判断を仰ぐしかないのだ。
 ボクの仕事で唯一書店に並ぶことになったが、オリジナリィについてこれからも常に考えていかなくてはならない。欲しいのは見せかけの金賞ではないのだから。


「芸は身を助ける」という言葉がある。ボクは人生の危機的状況を迎えた時、何度も「描く」ことに救われているような気がしている。


 腕立て伏せ:102回

2016年1月8日金曜日

RUN

 朝はハラハラと雪が降っていたようだったが、間もなく雨混じりになった。今年はこの調子なんだろうか。

 昼食のために初めてオムライスなるものに挑戦。テレビで見た記憶を頼りに作ってみたのだが、半熟の卵焼きをケチャップライスに乗せたあとでカメラの準備をしていたら蒸し上がってしまったらしい。ケチャップライスの卵焼き乗せになってしまった。急いで切り開いてみても当然間に合わない。漫画で登場するような見事なまでの失敗料理を作ってしまった。もっとも味は悪くない…はず。いつか漫画の資料に使えるだろうか。

 年末辺りから作画の好調。サンタクロースに願った「描画力」を受け取ったのかどうか定かではないが、悪くない感じが続いている。そんなことを思った途端不調の谷へ真っ逆さまというのがいつものパターンなので油断は禁物だ。
 調子が良い時と言うのは鉛筆もペンも走る感覚。
「走れ!走れ!走れっ!!」
 考えるより先に手が動く感覚。これまで慎重に、そして何度も失敗を繰り返して来たのは、この感覚を思い出すためだった。取り戻すためだった。歓喜とも陶酔とも知れぬ時間が瞬く間に過ぎて行く。やがて脳の方が先走りがちになり手先との連携が上手く行かなくなるので制御する意識も必要になる。
 ふと時計を見ると大抵1時間くらいが過ぎている。そんな時は小休止を入れてまた机に向かうのだ。
 夕方になって彩色しつつイラレに配置。 必要なカットがまだまだ足りない。

 夜、夕飯に悩んでスーパーに出かけた。しばらく店内をうろついたが、良いアイディアが浮かばない。結局カップラーメンをひとつ買って店を出た。

 腕立て伏せ:105回

2016年1月7日木曜日

多重人格

 ある意味で漫画のキャラクターは自分の分身である。ある時はボクの想いを代弁し、ある時はボクを叱咤激励する。ボクの意志を 継ぐ者もあれば、背く者も必要かも知れない。

 人の性格は見る角度によって違って当然なのではないだろうか。若い頃は裏表のないことを美徳と感じていた気がするが、世の中には様々な人がいて様々な形の交流がある。それぞれの出来事に対応するには、整合性を考えつつ自らが変化することが必要になる。誰から見ても変わらないというのはむしろ不自然なことの様な気がする。

 漫画のキャラクター設定に際してはそんな変化を細分化する。デコレーションケーキのようにどこで切っても同じ形というわけではない。その結果、様々な切り口で様々なキャラクターとなる。まん丸な性格よりもゴツゴツと変化に富んだ性格の方が切り分けた時に様々な形を生みやすいかもしれない。まん丸な性格であるなら切り分けた後でデコレーションするのも良いだろう。性格の多面性をそれぞれの面で捉え直すのだ。

***

 今日は一日中自宅で制作。
 描いたカットをイラレで配置したら思いがけない躍動感が出てテンションが上がった。1カットずつ別個に描いているので伸び伸び描けるからだろうか。お陰で構成をやり直す必要が生じるという副作用があった。漫画の作品としては必要な躍動感だと思う。小さなコマに入れなくてはならないカットがちょっと辛い。真面目にバカバカしい感じも悪くないはず。
 躍動感のあるキャラは、普段のっそりしているボクにはあまりない部分なので性格設定が少々難しい。このまま軽く華麗な躍動感が描けるだろうか。

 腕立て伏せ:102回

2016年1月6日水曜日

地平遥か


 暖かいお正月が過ぎて寒気がやってくるらしい。天候が崩れる前にと思って自転車を出すと雪まじりの雨がパラパラと落ちてくる。濡れるほどではないようなのでそのまま走った。明日は外出なしで制作出来るのではないだろうか。早めに用件を済ませたので午後になって机に向かう。
 年末からだったか断片漫画の素案からキャラクターを練る。掌編とは言え、練りが足りないとキャラが安定しない。

素案段階でのカット

 素案のネームの段階である程度カットが決まっていたが、髪型や服装を整理してキャラを練り始めてみると新しく描き直す必要を感じた。それでキャラの設定からやり直しているのだ。登場人物は2人の予定。
 今回で女性のキャラがかなり固まった気がする。素案ではかわいい感じだったが、少し勝ち気でサバサバした雰囲気に変更。少し姉御肌で寂しがり屋な印象。


 漫画としてまとめる前の段階にイラストとして描いていると自由度が高く実験的なコトも出来るし遊ぶこともできるが、漫画としてまとめるなら流れや統一感を意識する必要が生じる。可能な限り矛盾を排除する必要もあるので実験したり遊んだりすることは難しくなる。キャラクターが固まったらネームに沿って必要なカットを洗い直さなくてならない。
 漫画の制作現場の経験があるわけではないし、やり方もそれぞれに違っているものらしい。だからついステップを省略して結論に走りがちだが、それをやると結果が良くないようだ。

 多くは望まない。今年は昨年より階段を一段上がれたらそれでいい。

腕立て伏せ:110回

2016年1月4日月曜日

日進月歩

 歩みを止めれば進歩はない。
 そんな当たり前のことを改めて思う今日この頃。若い頃は多くの可能性を感じるから様々なことを試したくなる。それはそれで良いと思う。その中からこれと思うことに取り組んで行けばいいのだ。もっとも、実態はそれほどシンプルではない。組織や人間関係、社会的・経済的問題、健康面、持って生まれた資質や努力…と様々な事情が方向性に関与し、進みたい方向へ進むことは難しい。
 しばらくすると思いもかけない道を歩いているコトに気がつき「あの頃は良かった」と懐古するばかりになりかねない。どんな道を歩くことになっても悔いのない生き方が出来れば迷いやためらいは軽減されるのだろうか。
 ボクの人生はと言えば、迷いやためらいで出来ている。人生の地図があれば非効率で無駄な道を選択してきたことが一目瞭然だろう。時に目的を変え、時に手段を変え、いつしか方向性すら見失った。大したコトない気力や体力が続く限り目の前のことに打ち込むあまり間もなく限界に達しては頓挫したり挫折したりを繰り返すから周囲の理解を得ることも難しい。
 思い返せば、漫画家になりたいという想いを否定し続けたのは両親だけだったかもしれない。両親は公務員になることを望んでいたが、それはウチに限ったことではなかっただろう。時代背景や経済事情を考えるからこそだったのだと思う。最近になってそれは両親の夢だったのだということに思い至った。漫画家と比較して現実的で安定した生活に思えたのかも知れない。ボクには漫画家以上に非現実的なものに思えていた。漠然として何を目的に頑張ったらいいのかすら理解出来なかった。そもそも中学の頃には勉強が面白くなくなっていた。唯一成績が悪くないのは美術。入試科目でないばかりか高校の頃には授業からも姿を消してしまい、力を伸ばすなどと言うことは口に出すことすらはばかられた。ボクにもし翼があったとしても強い向かい風に煽られて叩き折られていたか飛び方すら解らずに大地に落下していたことだろう。だからボクは翼を畳んだのだ。
 少なくても今飛んではいけない…。
 漫画家になりたいなら絵画や映画、音楽などジャンルを厭わず良質な芸術作品に親しむこと。裸婦デッサンを経験すること。社会を経験すること。雑誌などから得た知識でも身近に取り組むことが出来るものがあった。そしてとにかく描くこと。裸婦デッサンを経験出来たのは20代の半ばを過ぎていた。
 父が他界したことで色んなものの形が変わったようだ。夢を追うことに終止符を打たねばならないと思った。あれから瞬く間に過ぎ去った時間の中で一体何を得ただろう。何が起きても大したことではないとポーカーフェイスを気取った結果は行き止まりになっていた。その間に経験したことに不満があるわけではない。むしろ得難い経験だったと思う。ただ、ボクが歩みを止めてしまっていたことは否めない。知人の絵描きさんはいつも描くことを勧めてくれていた。にも拘らず状況が許してくれないと思い込んでいた。その思い込みのお陰で長いブランクが出来てしまった。
 生活のため家族のためと思って選んだ行動は必ずしも理解されない。それでも役に立ちたいし、生きなくてはならない。想いと成果がチグハグになり周囲に迷惑をかけてきた。

 もしかしたらボクに必要だったのは「すべての希望とすべての可能性が断たれること」だったのだろうか。そして翼はまだ…生きているだろうか。


 腕立て伏せ:105回

2016年1月3日日曜日

冬何処

 小春日和を思わせるほど暖かい日となった。暖房費の節約になってありがたいが、しわ寄せがコワい。雪が少ないと思っていると大雪になるのが毎年パターンだ。さもなくば、ここの所の夏の猛暑。天井知らずかと心配になるほどの気温の上昇との関連性はどうなのだろう。

…とは言え、自転車移動の日々だから雪がないのは助かる。少し厚着して出かけたのでしばらく走ると汗ばむほどだった。中腹程まで白く雪に染まっていた山々は冬枯れの木々の色になっていた。こんなに暖かいとフキノトウなどの山菜が間違って顔を出してしまうのではないだろうか。春の味覚は雪融けの後に限る。冬の間、厚く大地を覆い適度な湿度を保って大地を厳しい寒さから守っている雪がなければ、春風が吹く頃に瑞々しい大地の息吹を開かせることが難しくなるのではないか。
 雪は厳しいほどに優しいものなのだ。
 少し書店に立ち寄ってコーヒーやコーヒーフィルターなど買い求めつつ自転車を走らせる。町には正月らしい飾りが目立つわけでもない。正月は1日から営業している店も多いようで益々正月らしさを見つけることが難しい。ただ、産直の店がまだ開いていなかったことが正月らしい気がした。
 最終的に近所のいつものスーパーに立ち寄るとお米がセールになっていた。年末に購入を控えていたが、近所とは言え雪が積もっていると自転車が走れなくなり10kgの米を担いで帰るのは楽ではないので購入した。

 帰宅して机に向かう頃には夕暮れ時。灯りが必要な時間だ。少し描いていると電話が鳴った。しばらくご無沙汰している知人なのでたまにはと思い長電話になってしまった。

 この暖かさは火曜日くらいまで続くらしい。
 瞬く間に過ぎて行く2016年。
 何を残すことが出来るだろう。

腕立て伏せ:110回

2016年1月2日土曜日

描き初め

 深夜の討論番組で人工知能やビッグデータが話題になっていたと思ったら朝起きるとWebでも人工知能の話題が流れて来た。有効な開発が進めば、人類は巨大な可能性を持ったテクノロジーを手に入れることになるかも知れない。

 西暦1990年代。IT革命の爆発的な影響は様々な産業を巻き込み社会に浸透して行った。

 ボクは写真業界や印刷業界に関わる者として様々な変化を目にした。
 デジタルカメラの登場により写真屋に必ずあった暗室は使われなくなり職人的な写真の修正作業はパソコンで出来るようになった。
 印刷業界では切り貼りしていた版下作業がパソコンで出来るようになり自動組版という未来が垣間見えるようになっていた。
 おそらくは様々な業界で効率化が進み、場合によっては業務そのものがなくなったり企業の存続が難しくなったりしたのではないだろうか。一方で、在宅勤務やフリーランスの可能性が開けたのではないかと思う。
 IT革命は印刷の組版における自動化の可能性も示唆していた。原稿と画像などの素材があれば、大部分を自動化出来るのではないかと言うものだ。それが確立すれば残業や休日出勤に苦しむDTPオペレーターやDTPデザイナーの仕事が著しく軽減出来るではないかと考えられた。しかし、自動化のためには定型化が必要だった。同じパターンの作業をこなすのであればかなりの効率化が可能なのだが、単発ものや臨機応変な対応が求められる場合はプログラムを組むより作業した方が早いことになる。そして作業を複雑にして効率化の妨げとなっているのは、そういう仕事なのだ。
 あれから時は流れボクは現場を離れた。果たしてどこまで自動化は進んでいるだろう。
 人工知能やビッグデータとの組み合わせにより更に複雑な仕事への対応は可能だろうか。それが可能になった時、過重勤務ばかりではなく仕事そのものがなくなるのだろうか。
 大変な作業だからこそ仕事として成立している場合もある。丁度いい加減は難しいのだ。

***

 今日は正月2日目にして作画した。漫画のシーンを思い浮かべながらキャラクターを描く、昨日は初詣に出かけたこともあって机に向かわなかったので少し心配したが、調子そのものは悪くないらしい。ただ、やはり少しデッサンが狂う。デッサンとは言ってもキュラクターが立体として成立しているかという部分であってさほど難しいレベルではないと思うのだが、それすらひずみが出てしまうということに苛立ちを覚えるのだ。
 2016年が始まった。これから一年を思って不安と焦りが浮かんでは雑念となる。


 腕立て伏せ:110回

2016年1月1日金曜日

幕開け

 A Happy New Year!!

 明日の天候が心配なので近所の神社に初詣。
 雪のない元旦。歩いていると少し暖かく感じるほどの気候で早春を想ったほどだった。
 神社には地元の方々が参拝に訪れてそれぞれの2016年を願っている。



 2016年が皆様にとって素晴らしい一年になりますように。
 今年もよろしくお願いいたしします。

 腕立て伏せ:110回

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...