2016年6月30日木曜日

漂泊

 雨。気持ちは穏やかであっても木曜日は過ぎるのが早い気がする。先週も気がついたら金曜日だった。日めくりカレンダーを捲るような日々の中で何の進歩も成長もしていないのてはないかと不安がよぎる。
 答えのない日々。
 思えば、ずっと受動的だった。働きかけられるのを待って行動していた。そこに「なぜ?」が足りないことに気がつかなかった。どうしてもやり遂げなくてはならないという気持ちに蓋をしたがために漂流することになったのではないか。勧められるままに行動することが正しかった日々はもう過去の彼方。自分で判断し行動しなくてはならないことはわかっていたはずだ。
 自己責任の旗の下、行動して躓いて失敗して世間のせいだと結論づける。行動の基準になっていたの情報という名の罠ではなかったか。まんまとエサに近づいてありついたつもりで喰われているのは自分だったのではないか。

 誰のせいでもない。行動基準が甘かったのだ。自分のやりたいことを棚に上げ、生活するためだけに出来そうな仕事を選んでいた。あわよくば将来につながればと興味の持てることを中心には据えていたが、所詮は妥協の賜物ではなかったか。


撮影:2012/07/01

 時は過ぎ去り、失敗で築いた山を足がかりに未来への扉を探してみても、そこにはエサも罠もない。荒涼とした平原を乾いた風が砂埃を舞い上げながら吹いている。瑞々しい若葉茂る丘に咲き乱れていた色とりどりの花たちはどこへ消えてしまったのか。後戻りすら許されない時の流れの中を生きている。行く先はどこだ。目印になりそうな高い山も見当たらない。頼りになるのは星か。それとも風か。

 今日もまた、あっという間に夜になった。
 外出もせずパソコンや机に向かっていたはずなのに成果が何も見当たらない。わずかばかりのラクガキを手にとって途方にくれる。


 今日で6月も終わり。2016年も半年が過ぎる。



腕立て伏せ
1回目:70回
2回目:110回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月29日水曜日

舳先

 晴れ。ある程度試してみて納得が行かなかったり手こずったり手応えがなかったりした場合は、進行方向を見直す必要がある。見直しすぎて同じところをグルグル回ることもあるから何でもかんでも見直せばいいというものでもない。

 制作中の作品はヒネリに納得がいかないため保留中。何かのはずみでアイディアが浮かぶことを期待。要はアイディアが浮かぶような行動することが重要なのだと思う。


撮影:2011/06/30

 これまで漫画のアイディアはパソコンなどにメモしたりしていた。嵩張らないし手間も少ない。問題は後で読み返さなくなることだろうか。メモしたことで安心してひたすら蓄積している。そしてやがて蓄積していたことさえ忘れてしまう。
 一時実際のノートにネームを描こうとしたことがあった。ところが、描き込もうとしてもノートだから本気で描いても意味がない。本番でないと思ってしまうと雑になりがちで無駄にラクガキをするばかりになってしまう。そんなことをしていたからノートが無駄になるからもったいないという気持ちもあった。
 では、イラレのデータとして起こしたらどうだろう。
 イラレでネームに起こしたところでメモを残すことと同じことなのかもしれない。Macを起動しなければ見ることができないし、該当のファイルを開かなければ見ることができないからだ。ただ、レイアウトを組むことになって視覚的な印象は残るだろう。コマ割りのイメージ作りもできるかもしれない。何しろやっていないのだからやってみるべきかもしれない。

 Macを起動し新しいファイルを準備する。ほぼWeb限定の公開になっているのでRGBモードでいいだろう。そして幾度となくやってきたフォーマットの制作。イラレ10では単一ページの制作しかできないのでページの流れを把握するためにページ設定を縦に長いベースを用意してページを配置する。ページ数が多すぎてもパフォーマンスが低下するので今回は16ページとした。
 これでポンポンとアイディアが出れば言うことなし。当然ながら、そうは問屋が卸さない。大抵は準備しただけで満足してしまう。そして忘れた頃にまた一から作り直すのだろう。我ながら懲りないなぁと思う。作り直すたびに少しずつ改善している点は評価してもいいのかもしれない。




 自転車のサドル交換を忘れていたのでホームセンターへ。
 いつもの店員さんの姿は見えなかったが、いつでもいいという内容ではないので別の店員さんに作業をお願いする。作業そのものは難しくないようだったが、工具が必要だったりするから自分でやるよりいいのではないと思う。予定外出費ではあるものの致し方なし。交換してから乗ってみるとこれまでのサドルとの違いが歴然だった。これまでのものは最初に取り付けられていたスプリングタイプのものでクッション性が高かった。今回のものはスポーツ系の自転車についているようなスリムなタイプ。座るというより腰掛ける感じだろうか。以前は腰が動くのに合わせてくれていたようだ。今回のサドルは頑固で腰の動きに合わせてくれない。それが逆にペダルを踏み込む際に力の分散を防いでいるような気もする。最初に設定されたものではないため不都合もあるかもしれない。身体の方を合わせる必要もあるだろう。

 さて、方向性を修正して舳先をどこへ向けよう。



腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:106回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

体裁

 雨。昨日の日暈を思い出す。
 夜、深夜モードと称して描いていて最近自由に描いていないような気がしてきた。
「圧倒的な画力が欲しい」
 そんな意気込みとも願望ともつかぬような力みが、ペン先を不自由にしているのではないだろうか。そんなことを思ってできるだけ自由に描くよう心がけてみた。するとスルスルと鉛筆が走るような気がする。
「気取るな。」
 そう心に言い聞かせる。
 いつも外面ばかり良くてカッコつけたがって体裁ばかり気にしている。その結果はどうだ。ギクシャクした線で形も取れないデッサンの狂った絵になる。きっと考え方や生き方が絵に出てしまうのだ。


撮影:2011/06/29

 今日は随想のアイディアが浮かんだのでnoteの下書きを眺めてみると似たような下書きはないようだ。過去の下書きも相当たまっているので昇華したいと思いつつ、続きを書こうとするとまたエネルギーが必要だ。できれば挿絵を入れたいなどと欲も出る。そこで新しいテキストノートを開いてみる。いつもながらシンプルでサラッとした感じがいい。ひとしきり思いつくまま書き綴ってまた下書きへ。無駄にはなっていないと思うが、表現というものは公開しなければ、社会的な実効性はないだろう。自分のバックアップのような意味合いが強い。

 その後、描き進めていたカットを集めて1ページに配置してみる。アイディアを思いついた時は情感があって良作になると思っていたのに肝心の情感が抜け落ちている気がする。当初のアイディアから変更したヒネリの部分も甘い…と言うよりほとんど効いていないレベルだろうか。彩色してみるとトーンが浅くて薄っぺらい感じがする。どれもこれも生き方を表しているようで哀しささえ感じてしまう。
 こういう結果を見てそのままというわけにはいかないので体裁を整えなくてはならない。結局、カッコつけて見栄えだけ取り繕うことになりかねない。それは避けたいと思い、修正やら加筆やらで自問自答を繰り返している。

 これも下書きだけに止まらなければ良いのだが…。



腕立て伏せ
1回目:75回
2回目:101回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月27日月曜日

吟味

 晴れ。深夜遅くまで描いているため起床も遅い…というより、何度が目覚めては時間を確認してまた寝ている感じだから分割しているようだ。むろん身体にいいわけはないだろう。深夜に描くようになったのは、その方が調子がいいと思ったからであって調子が乗らないのに続けるのはどうかと思う。結果、またもボツを増産したにすぎない。

 スケジュール上は深夜制作シフトにしようと思い、日中は所用を済ませるために自転車を走らせる。ここのところずっと食生活の要となっている通称「元気カレー」を作るため食材を調達しなくてはならないのだ。最近、カレーの具材となるジャガイモ・玉ねぎ・ニンジンは高値水準が続いている。それぞれ3個100円を基準に考えているので1個58円の価格には躊躇してしまう。菓子パン1個で100円前後と考えれば高くもないのかも知れない。どこかおかしい気がしなくもない。そんなことを考えながら近所の畑のそばを通りかかったらジャガイモが花を咲かせていた。高値なのは当然かも知れない。

撮影:2012/06/28

 少し走って歩道の段差に差し掛かった時、サドルの辺りが「パキッ!」っと音を立てた。傷んできていたのは承知していたから「あ。」とは思ったが、ちょうど通りかかった小学生に「こんにちは!」と元気に挨拶されてしまったので何事もなかったかのように「こんにちは〜。」と挨拶を返してしばらくそのまま走った。確認してみると、3点で支えられているサドルの一本のバネが折れて2点留めの状態になっていた。これはもうサドルを交換するしかないだろうという諦めの心境。
 走れなくはないのでそのまま数軒のスーパーや産直の店をはしごした。やはりカレーの食材が高い。タマネギだけは何とか手に入れることができた。
 新しいリユースショップがオープンしていたので寄り道してチェック。新製品を扱う店と違って品揃が集客に影響するだろうから経営は結構難しいのかもしれない。価格帯を確認すると驚くほど安いわけでもなさそうだ。リサイクルショップの価格に目が慣れてしまっているのかもしれない。
 店を出て空を見上げると大きな日暈(ハロ)がかかっていた。
 ぐるりと回った挙句に最寄りのスーパーに入るとカレーの食材が安売りになっていたので安堵とも脱力感とも言えぬ感覚になってしまった。

 帰宅して元気カレーに取り掛かる。先日安く買ったサクランボが酸っぱいものも多かったためまだ残っていた。サクランボジャムにする計画をカレーに入れる計画に変更。軸と種を取る作業が少しばかり面倒。リンゴを入れるくらいだからサクランボだって美味しくなるに違いない。地元では「サクランボカレー」という市販品もあるくらいだ。

 今日は麺つゆがなかったものの醤油と酒とみりんを隠し味に使う。一週間に一回のペースで作っているのでもう慣れていると言っていいだろう。米を洗いながら米のとぎ汁で乳酸発酵ができるという記事を思い出した。空いたペットボトルに米のとぎ汁を注ぎ、砂糖と塩を少し入れてみる。液肥にしようと考えて納豆パックを洗った水やヨーグルトを入れてみたことはあるので発酵するとペットボトルが膨張することは心得ているが、砂糖と塩を入れてみるのは初めてだ。どんな風になるだろう。
 出来上がったカレーはサクランボがわからないくらいになってしまっていた。最後に追加すれば良かったのかもしれない。酸味はほとんどわからないもののいつもよりまろやかな印象。気のせいか香りが良いようだ。

 これで一応、夜間に漫画を描く準備はできているように思う。
 とりあえず、サドルは早めに交換しなくてはならない。


腕立て伏せ
 1回目:92回
2回目:102回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月26日日曜日

興味

 晴れ。考えてみたら腕立て伏せ100回は1セットを目標にしていた。その準備のために事前に軽い腕立て伏せを始めたことからいつの間にか100回2セットが目標になってしまっていたのだ。つまり自分でハードルを上げておきながらスランプだと悩んでいることになる。

 自分のすることに対する興味が薄れているのだろうか。部屋が散らかっていようが、今日食べるものがなんであろうが深く考えなくなっている。慣れと惰性の集積で生きているにすぎない。挑戦が思うような結果をもたらさないことで新しいことに興味が持てなくなってきていることや変化に対応する精神的な柔軟性が乏しくなっていることが原因かもしれない。

撮影:2014/06/27

 無意識との対話によって掴みかけている感覚を定着させるべく今日も机に向かう。昨夜ねばった挙句におかしな絵を残してしまったので調整しつつキャラ設定のやり直し。女性キャラはある程度固まったが、男性キャラが固まっていない。
 キャラ設定の際は基本になる人物モデルを描き、髪型や目鼻口のをパーツにバリエーションを持たせることで変化をつけている。遠目に見ると似たり寄ったりの顔立ちをしているのでさらなる工夫が必要になるだろう。そしてパーツの構成により人格の雰囲気を演出する。
 人間というものは、見かけと中身が必ずしも一致しない。そもそも見かけによって受ける印象は人によって違うわけだから当然である。漫画では人格をある程度推測しやすいようにキャラ設定するのが基本ではないだろうか。もっとも、あらかじめズレを持たせることで面白くする場合もあるだろう。
 果たして今回の男性キャラはどういう立ち位置だろう。たった1ページの漫画の背後に広がる世界を想像してみる。
 なかなか決まらないのであらかじめ用意しておいた原稿用紙にキャラを描き込んでみる。すると最初に仮設定したキャラが一番しっくりくるような気がしてしまった。設定する際に伸び伸びと描けていたのにコマの中に収めようとするとまた勝手が違う。これらり作業がシームレスに出来るようになれば、制作スピードも上げられるのだろう。いずれにしても1ページの漫画に時間をかけすぎである。
 
 買い物があったので外出すると天候が不安定な様子で風が冷たい。Tシャツでは肌寒く感じるほどだった。
 夏場になると関節部のアトピーに悩まされる。軟膏は持っているが飲み薬や入浴剤で新しく良いものが安く出ていないかとドラッグストアやホームセンターを見て回った。残念ながら希望に沿うものは見当たらなかった。以前、入浴時にクロモジの枝を入れるといいと聞いて購入してあった。アトピーにも効くか試してみたいと思い巾着のような袋がないかと百均の店も見て回った。やっぱり希望のサイズや生地のものは見当たらない。結局自作するのが一番いいのかもしれない。あちこちの店を見て回りながら既製品に可能性を見出そうとしているのが自分が少し滑稽に思えた。


腕立て伏せ
1回目:91回
2回目:102回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月25日土曜日

対話

 雲の多い日。
 即や描いて上手く行かないと思っていたカットを朝見たら悪くないような気がする。
 ただし、作品のイメージとはそぐわない気がするので一考の必要あり。

 意識と無意識について考えていた。
 自分の中に内在する無意識は意思や意図を持ってアプローチできないからこそ無意識である。一人の人間が意識的な行動するために必要な基礎となっている。その無意識に働きかけ必要な情報や能力を引き出すことは可能なのだろうか。
 知る限りでは心理的なコントロールや潜在意識の操作となると途端にオカルト臭がし始める。故に古今東西無意識へのアプローチは、言わば禁じ手やタブーのような扱いになっていて軽はずみに関わらない方が良いと考えられているのではないだろうか。
 しかし、誰もが意識的な行動の基礎に無意識を不可欠としているとすれば、なんとも不思議なことのような気がする。

 個人的には、無意識との対話によって身体と心の状態を調律できないかと考えた。そして可能なら漫画などの作品を制作する際に必要に応じて発想や展開、吸収と解放をできるようになれたらと思うのだ。


撮影:2010/06/26

 幸も不幸も手の触れられない無意識に因るとすれば、まるで内在する神のようではないか。いつか対話は実現できるだろうか。

 考えてみれば、美しいとか醜い、美味いとかまずい、愉快とか不愉快といった感想は無意識から提供されたもののように思えてくる。
「わからない」というのは、無意識が判断できない状態ではないだろうか。
 すると無意識は世界を知覚し判断する役割を担っているわけだから内在しているのはむしろ意識の方である。
 意識は無意識を通して世界を知覚しているのだろうか。

 そんなことを考えつつ机に向かったせいか作画の感覚が少し違う気がした。無意識とはそもそも意識と切り離されて独立しているわけではないだろう。必要なのは意識と無意識の協働作業なのだ。

 夕方になって自転車を走らせながら考えた。自転車を走らせる時だっていちいちバランスを気にしたりペダルを踏むリズムだったりを考えているわけではない。目に映るもの。感じる風。匂い。様々な情報を無意識的に処理しつつ走っている。
 視覚的なことだけ捉えても、色や形の認識は太陽光線などの電磁波の特定の波長を認識しているにすぎない。正しく捉えているつもりでも既に仮想空間に生きているようなものだ。それに加えて嗅覚や触覚など五感から得た情報を無意識下で処理し必要な情報をフィルタリングして意識出来るようにしているのだろう。そうしなければ情報が膨大になって活動できなくなる可能性もある。
 問題は必要な時に無意識下に沈んだままになってしまう機能である。
「描こう」と思ったり「腕立て伏せしよう」と思った時にすぐに使える状態にならないと時間ばかりがかかってしまう。出来るはずのことが出来ないとスランプと思い込んで迷路に迷い込むことになる。

 出来るはずのことができなくなるのは何故なのか。
 無意識にアプローチする必要がそこにあるのだ。


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:101回
3回目:75回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月24日金曜日

道標

 曇り。
 まず、昨夜取り組んでいたペン入れの習作カットをアップした。気になる点はあるものの前に進むための道標としたい。



 用意してあった紙を立て続けに使って残りが少なくなっていた。そろそろ購入しておかなくてはならないので今日は文具店へ出かけようかと考えていた。天候の様子を見ると晴れてきたようだったのでとりあえず洗濯をしたら雨がぱらつき始めてしまった。紙を買いに出かけて雨に降られてしまっては台無しである。
 天気予報を確認すると一時的なにわか雨のようだ。じっとしているのもどうかと思い外ら出るとすでに上がっている様子。まっすぐ文具店へ向かいあらかじめ確認してあったサイズと厚さの紙を買い求めた。一〆で買うと割引になるということで予定より随分安く手に入れることができた。

撮影:2007/06/25

 紙も用意できたということで気分も新たに作画に取り掛かる。
 ふと、脳裏にイメージが浮かんだ。文字通り意識の裏側で形を持たなかった無意識が縒り集まって意図となり一枚の布を織り上げるような感覚。
 幾つかの工程に分けて取り組んできたことを一つの作品のために結晶化させる。
 どれほど稚拙で些細であっても作品という結晶の持つ意味は大きい。

 無意識が意図となり意識になる。
 意識とは経験の集合体という氷山の一角なのだということが理解できるような瞬間。それは本当に稀な出来事だから、もしかしたら気のせいかのかもしれない。それでも表現することの出来る技を持っていれば、作品として具現化することが可能だ。
 知恵を絞るのとは違った感覚。ふわりと浮かび上がるイメージを紙の上に定着させるのだ。
 もし苦悶の時を経て可能になることがあるとすれば、人に秘められた能力は限定的な経験を余儀なくされる現代社会の中で抑制され、開花することを封じられているのではないだろうか。
 人知れずそのことに気づいたとしても、伝える術を持たなければ個人の人生の中にのみ生かされることになる。もっともそれで人生が豊かになるのであれば、それ以上の幸いはないのかも知れない。

 背後にある無意識という闇にこそ可能性という希望の種が眠っている。


腕立て伏せ
1回目:90回
2回目:100回(ギリギリ!)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月23日木曜日

刻々

 雨。急に気温が下がると寒さすら感じる。
 室温を確認すると27℃。どう考えても寒いというほどの気温ではないが、30℃前後で推移していたことを考えると3℃程度は下がっていることになる。
 日中のコンディションが良くないことは既に覚悟しているものの天候やバイオリズムなどの影響も受けているのだろうか。それとも単純に昨日の疲れが残っているだけなのだろうか。帰宅して水風呂で汗を流した後、改めて入浴しなかったので疲れがちゃんと取れていないのかもしれない。要するに芳しくない。芳しくないなりにもがくのもいつものスタイルだ。

撮影:2012/06/24

 紙を厚手のものにしてからしばらく経った。鉛筆の方は慣れてきた気がする。鉛筆が走ると紙面にクロッキー的なイメージを落とすことができるようになる。ペン入れの方はまだこれからといった印象。インクがまだ新しい状態なので粘度が低くちょっと力を入れすぎると紙に浸透し過ぎてにじんでしまう。力加減が繊細なのと描くというより滑らせるような感覚が適当なのかもしれない。1枚4円相当の紙なのでとりあえず100枚買って様子を見ていた。一包500枚だということなので、そろそろまとめ買いしておこうかとも考えている。
 気がつけば、また下絵の山を作り始めていた。これではいかんとベン入れを始めれば、今度は失敗の山を築くことになるだろう。理想を実現するための現実だから如何ともし難い。

 前回の漫画の作品をアップしたのは4月末になるだろうか。もうすぐ2ヶ月が経とうとしている。毎日1ページとかせめて数日に1ページアップできれば良いのだろうと思う。それができないのは作画のクオリティとアイディアやストーリーのバランスが取れていないことが要因だと考えている。少なくても下絵で躓くことは少なくなってきたのでこの調子でペン入れや背景などの作画の作業をスムーズに進めることができるようになる必要があるだろう。

 例えば、毎日1作ずつ作品をアップすることができるとすれば1年で365作である。作家の負担が相当なものとなる一方で読者にとってどんな意味を持つだろう。新聞の漫画コーナーのように4コマ漫画を毎日連載することも容易ではないだろう。確かに読者にとって毎日の楽しみになるかもしれない。ただ、その場合は原稿料によって作家の生活が維持されていなければならない。それがないまま毎日描き続けることは難しいのではないだろうか。
 では一週間に一回ならどうだろうと考えた。まずはベージ数を限定せず、一つの作品をアップする。不可能なリズムではないと思える。一ヶ月に一回なら時間的な間隔としては充分ではないだろうか。では一年で一作なら?それでも感動作なら良いかもしれないと思う。漫画が好きで伝えたいことがあって納得のいく出来になるならそれでもいいのかもしれない。

 この2年で一体何本の作品が描けただろうと考えるとゾッとする。納得の行く出来だったろうか。作品のクオリティの他に体調や精神状態、気候や気象の影響、そして毎日の雑用…理由は様々あるかもしれないが、確実に2年という時間が矢のように過ぎ去ったのだ。これから先のことを考える時、これまでのことを踏まえる必要があるだろう。

 少しずつではあっても時は過ぎ、時々刻々と状況は変化している。
 新しい人生のスタートラインはきっとすぐそこなのだ。


腕立て伏せ
1回目:86回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月22日水曜日

間欠

 まるでブレーカーが落ちるかのようにダウン。
 最近の腕立て伏せはそんな感じで粘りがない。今日も80回をカウントした途端、これから踏ん張ろうとしたら力が抜けた。
 作画については夜の方が調子いいようで昨夜も気持ちよく描くことができた。もっとも深夜なので思い込みとか錯覚の類であることも否めない。
 こんな調子なので一日のスケジュールを見直す必要を感じていた。


撮影:2008/06/23

 今日はまず一度机に向かって調子を見る。すると案の定グダグダで調子がつかめない。そこで予定通り外出することにした。ショッピングモールの散歩と買い物だ。
 ショッピングモールは冷房も効いているし平日なので来店客も少ない。どこかでゆっくりすれば良さそうなものだが、大抵は歩きっぱなしのまま出てきてしまう。
 今日はそれからスーパーへ向かい百均に立ち寄った。一応目的があって行ったのだが、定規が100円なのには驚いた。方眼定規が欲しいと思っていたので探してみると50cmサイズが見つかった。普通に文具店で買おうとすると結構いい値段になってしまうことは調査済みだ。カッターナイフ用にガイドが付いたものもある。普段は目的以外のものは買わないようにしているのだが、必要なものと判断してあれやこれやと買ってしまった。購入に至らなかったもののコーヒーカップのデザインが面白いものがあった。久しぶりに立ち寄ったせいか思いもかけないものが安く並んでいるのでついつい長居。クロッキー帳やらキャンバスボードやら品質的にどうなのか一度試してみたい気がした。
 その後、ホームセンターを経由して産直の店へ。
 さくらんぼシーズンのはずなのに品数が少ない気がする。規格外品や双子果が並んでいるので加工用に使うことを考えるとありがたい。価格帯的には規格外の袋入りが200円で小粒のものが1パック250円。量的には規格外の方が多いので加工に使うかどうかで判断が分かれるところだろう。さらにキズありが1パック480円。粒の大きな双子果が中心のようだ。双子果は陽当たりの良いサクランボの樹の南側に出来やすい。しかも高い所で大粒になりやすいのだ。つまり甘味も強くなりやすい。贈答用の箱入りのものとは違う次元での判断材料が必要となる。アルバイトに行けばつまみ食いの対象となるようなものでも扱い方を知っていれば使い分ければいいだけの話なのだ。
 結局、悩んだ挙句に規格外品を一袋(200円)を購入。ついでに高値になっているキャベツの地物が140円と相場の半値程度だったので購入した。



 それからドラッグストアや書店、それから観光客向けの産直の店を見て回り最終的に近所のスーパーに立ち寄って帰宅。

 週の真ん中なので体力維持を考えてのこととは言え、ちょっと欲張りすぎたかもしれない。
 今夜は描けるだろうか。


腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月21日火曜日

入魂

 晴れ。暑くなりそうと思っていたら雨になった。雨は間もなく上がったので蒸し暑くなった。
 1日の終わりに今日の制作を確認して落胆することは珍しいことではない。今日は一体何をしていたんだと自分を責めたくもなる。筍だったらグイグイ伸びるだろうに鐘乳石なら長い時間を必要とする。
 せっかく描いたキャラクターに魂がないような気がする。躍動感とか表情とかポーズとかちょっとした工夫なのかもしれないし根本的に欠けているものがあるのかわからないのがもどかしい。

 夜も暑くて寝苦しいので昨夜は遅くまで描いていた。下絵はまずまずに描けたつもりだったので今日になってペン入れにかかった。これまでよりはいくらかマシのような気もするが、それてもやっぱり何かがおかしい。芯を外しているというか形に囚われて中身が描けていない感じなのだ。そればかりかバランスが微妙におかしいようで不愉快な表情になってしまっている。あれほど鉛筆でいい感じの下絵になっていたのにどうしてこうなるのだ。せっかく遅くので描いていたのに1日かけてまた台無しにしてしまった感覚になった。無駄とは言わないまでも成長の跡が感じられない。

撮影:2011/06/22

 これまでの制作スタイルは、アナログとデジタルが半々くらいの感じだった。
 アナログの割合を上げて作業をすることはたとえ1ページでも手間暇が増大する。コマ割りやセリフを含めて一枚のイラスト作品を描くような心持ちなのだ。やはりある程度割り切ってデジタル制作を導入しないと作品を完成させることそのものが危ぶまれる気がする。
 運動を兼ねて買い物に出て自転車を走らせながら考える。作画を進めていく上でまだトーンへの配慮が欠けている。デジタルでの彩色を想定してアウトラインだけを描いた状態なので墨ベタやスクリーントーンのようなハーフトーンが未設定なのだ。だからと言ってスクリーントーンを貼ってしまうとデジタルの作業に影響が出る可能性がある。パズルのような迷路のような手順の模索が続く。

 画力を上げようとすることで魂が抜けるのであれば本末転倒。
 自分らしいキャラを練り上げることも大変なら漫画の作品として仕上げることも本当に大変という実感。取り組んでみないとわからないことだった。苦しむことで魂が宿るなら避けて通ることのできない道なのだろう。

 入浴中にホワイト修正に思い至る。
 これまでデジタル修正を前提にしていたためホワイト修正の必要がほとんどなかったし必要のないように描き直しをしてきた。故にホワイトを使いこなせないのだ。このままでは描き損じの紙が増えるばかりで完成にたどり着けない可能性がある。ホワイトを使うことに抵抗のない程度までは使えるようになっておいた方がいいのかもしれない。


腕立て伏せ
1回目:98回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月20日月曜日

集中

 晴れ。気温はさほど高くないのに室温は高いというのは蓄熱しているということだろうか。湿度は高めなので何しろ蒸し暑い。
 平日の業務をこなしひと段落する頃には既に午後3時。カレーを作る予定でいたが、まずは作画に取り組む。
 昨日の反省に立って今さらペン入れの訓練をすることにした。紙は少し厚めの上質紙。練習するには少し高価だが、それでも漫画専用の原稿用紙よりはかなり経済的。そもそも練習と本番を分けるのが苦手で練習だと思ってしまうと集中力が欠けてしまいただのラクガキになってしまうことが多々あるのだ。

撮影:2010/06/21

 最初に紙の端に「雑念歓迎」と書いてみた。
 本来なら「集中」と書くべきかもしれないが、集中しても絶えず雑念は頭を巡ってしまうのだからいっそ雑念ありきではどうだろうと考えた。受験勉強の時だってラジオを聴きながらやっていたし、おしゃべりしていないから仕事が捗らないということでもなさそうだ。そもそも作画の時に音楽をかけているのだから程々の雑音はむしろ必要なのかもしれない。一定時間経つと集中力が切れる気がするのは、決まった姿勢を長く続けるから脳内の血流が停滞したり、血液が足の方へ下がることで脳内の何かが欠乏状態になるのではないだろうか。足ふみマッサージなどを試してみる価値があるかもしれない。

 作画の方はと言うといつものように一進一退。上手く行ったと思っても消しゴムをかけると印象が崩れてしまう。下絵は飽くまでも下絵でありペン入れで完成させることを意識しなくてはならない。
 考えてみると下絵にだって随分悩んでいたのだった。
 ペン入れで悩んでいるということは、ゆっくりとであっても前進していると考えていいのだろう。上達したかどうかが大切であることに違いはないが、同じことで悩み続けているわけではないという実感も大切なのではないかと思う。


腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:110回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月19日日曜日

弱点

 朝晴れていると思ったら間もなく曇り。日中は室温31℃になった。湿度も高いようで蒸し暑い。
 腕立て伏せは驚くほど力が入らなかった。粘りも踏ん張りもあったものではない。2回目で何とか目標の100をこなしたものの体調が芳しくないことは否めない。

撮影:2010/06/20

 作画の方は少し視点を変えて断片漫画に取り組んでみる。カットを組み合わせて後でセリフを考える形。何かヒネリを加えてと思ったのに思いついたアイディアは考えれば考えるほど陳腐でありきたりに思えてしまった。それでも取りあえず形にしてみようと手描きのコマ割りに取り組んでみる。
 普段コマ割りをイラレでやっているせいか手描きのコマ割りということになっただけで戸惑い、手間取る。そして鉛筆は調子良くてもペン入れでダメにしてしまういつものパターン。鉛筆だけで仕上げることも考えたが、出来るのにやらないのと出来ないからやらないのでは意味が違う。ペン入れは出来るのだが敢えて鉛筆の表現を採用するといった方式が望ましい。そこで何度も描き直したが、上手くいかないばかりか最初のカットの持ち味はどこかへ消えてしまった。
 紙を変えてみたらどうだろう。少し厚みのある紙に変えて描き直す。紙面もいくらかしっかりしているので鉛筆で描き直して消しゴムをかけても紙面の荒れはあまり見られない。ペン入れをしてもガサつきが少なくペンの走る音が安定している。
 これはいけるか…と思ったのもつかの間。肝心のペン先のコントロールが上手くいかない。そもそも腕立て伏せの不調というのは何か根本的な原因があって繊細さを要求されるレベルに影響を与えているのではないだろうか。

 鉛筆では悪くない感じだからやはりペンの訓練が必要だ。

 あまりに感覚がつかめないので外出。
 悩んでも行き詰まっても田舎の風景は自然に心を解きほぐしてくれている。そのことに甘えてしまっているのだろうか。

 夜になってまた机に向かう。外気温は下がっているようだが、室内はまだ蒸し暑く汗ばむほどだった。場合によっては遅くまでかかっても描こうとも考えた。しばらく描いて調子が悪くなる一方なので断念。
 物覚えは良くないが覚えると確実なものにする自信が密かにあったはずだ。一体誰の話だろうと思うほどものにならない。
 明日こそは明日こそはと思い続けてそれがローテーションになってもまだ明日は来る。安心してはいけない。油断すれば這い上がることを忘れてしまいそうだ。

 目先を変えると道に迷う。いつもの悪い癖だ。


腕立て伏せ
1回目:81回(力が入らない。)
2回目:100回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月18日土曜日

涙色

 人生に出会いと別れはつきもの。それでも普段は意識することがあまりない。大切な人の存在が当たり前になり感謝すら忘れていることもある。

 時に特別な存在になっていることに改めて気づいてしまうことがあるらしい。

 晴れて爽やかな日だというのに朝から泣いていた。どうして泣いているのかわからなくなるほど後から後からとめどなく涙が溢れてくる。

 単純に哀しいわけでも寂しいわけでもない。
 もしかするとこれほど大きな思いやりとかいたわりとか優しさの詰まった贈り物を受け取ったのは生涯で初めてかもしれないとさえ思う。ボク自身の不甲斐なさ、やるせなさ…人生には、頑張ってもどうにもならないこともある。それでも人は生きなくてはならない。そんな想いが交錯する。きっと全て包み込むような大きさを感じて涙が止まらないのだ。

撮影:2009/06/19

 なんとか机に向かって作画に取り組んでみると鉛筆は走っても動揺が抑えられずペン入れが安定しない。そのうち何を描いているのかわけがわからなくなった。

 夕方近くなって少し落ち着いたので買い物ついでに外出。ずっと涙が止まらなかったので目が真っ赤に充血していたが、サングラスをしているから大丈夫だろう。

 ひどく優しい気持ちになっていた。

 いつもの麦畑を通りかかると麦秋を迎える麦の穂が風に揺れていた。ふと気配を感じて視線を向けるとキジがいた。野生動物と関わる時は気持ちが解放されている方がいいと思うことがある。ちょうど最近野生生物との向き合い方を考えていたところだった。心を落ち着けて風に同化するような気持ちを心がけてみる。するとキジは何かを探しているようでありながらこちらには気づかない様子。
 偶然でも必然でも普段撮れないキジの様子を撮影できたのだから細かいことは気にしなくていいだろう。



 漫画はきっと自分のために描くのだろう。
 それでも誰かの想いまでも描くことができればと思ってしまうのは贅沢だろうか。
 誰かのために描けるならそれはボクにとっても意味があることなのではないかと深く強く感じた日だった。



腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月17日金曜日

非力

 晴れ時々曇り。早めに床に就くと案の定寝入りには苦労した。そして妖怪退治とか持ち物の盗難とかおかしな夢を長々と見た。大挙して押し寄せるゾンビのような妖怪たちに必殺技も効かずスルーされ、無くなったと思った荷物は見知らぬカバンに入れて自分で背負っていた。夢のテーマは「非力」ではないだろうか。フクロウやミサゴのような小型の猛禽類を飼っていてすっかり慣れていたというのは悪くない。


撮影:2011/06/18

 ヘンテコな夢を見たせいか今日は幾らか調子が戻る気がしたのだが、机に向かって間もなくして作画のバランスが取れなくなり始めまたも不調の底へ沈み込んだ。
 以前に描いた下絵を修正しようとするとバランスを崩してさらに悪くしてしまう。ここの所、自分の中のもう一人の存在との対話によっての作画を心がけるようにしている。もう一人の存在は目覚めたばかりのせいか油断するとまた眠りに落ちてしまう。しばらく続けたが集中力が続かない。今になって気がついたが、集中してはいけないことを忘れていた。
 取り敢えず、身体を動かしてみようと思い自転車を出すことにした。
 進路を西に取ろうと思ったのに西風が吹いていて自転車で走るには苦労しそうな予感。まずは所用を済ませようと近所を回る。精神状態が不安定な時は何をしても芳しくないものだとわかっていても立ち止まることも不安だったりする。ペダルを踏みながら帰宅するか迷っていた。すでに西へ走る気持ちは失せていた。
 そのままなんとなく北へ向かう。そしてしばらく行っていなかった書店に入る。最近はパッケージされて中を見ることが出来なくなっている漫画の単行本の棚の間を歩いてみた。以前だったら立ち読みする人たちが並んでいた棚の間はただ整然と買い手を待っている。その状態では、やはりネットの方が便利だと思うこともあるだろう。
 書店を出てまた少し北へ走る。
 線路を渡ると果樹園が広がっている。サクランボシーズンとあってたわわに実った樹もあれば、すでに収穫の済んだ樹もある。そしてまさに収穫中の農家の方の姿もあった。

 風の中をかいくぐるように自転車を走らせる。
 こんな季節をもう16回経験しているはずだ。そのうち2回はサクランボ収穫のアルバイトもした。ここで暮らすことを望んで選んできたけれど、予想外のこともあったし予定外のことばかりがあった。
 夏は動。冬を静。それをうまく回転させることをできれば…と考えていた。うまく回転したか?残念ながらYESとは言えない。むしろ春と秋こそが動であり夏と冬は静だろう。そして静の時間は何もかも動かせなくなる。静の時間を制作に当てようと考えていたが実際はそれも容易なことではなかったのだ。
 ボクのことだから都会に暮らせば何かと動けたかもしれない。それは制作に集中できないことでもあると考えていた。

 失敗も挫折も望んだこと。それでも諦めたり投げ出したくなることも何度かあった。それでも何とか生かされて生きている。まだ出来ることがあるのだろうか。



腕立て伏せ
1回目:100回(ギリギリ!)
2回目:90回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月16日木曜日

鮮度

 曇り。湿度高め。
 体調は相変わらず芳しくない。昨日自転車で走ったせいもあるのかもしれないが、言い訳をし始めたらきりがない。ノソノソと普段のローテーションをこなしつつやろうとして出来ていなかったことに手をつける。
 現在は漫画を中心に活動しているが、ストックフォトなどにも登録していて思い立った時に写真やイラストを投稿していた。数日前に気になるリクエストを見かけたので応募しようと思っていた。昨日は外出したために出来なかったので今日はなんとかやっておこうと思いつつ気力が湧かない。
 作業内容としては写真を選んでデータがRAWデータの場合は現像、色調補正してアップロードする。
 まずは写真の選定から入る。今回は冬に関する写真ということで2006年から10年分のデータのうち、12月から2月くらいまでのデータを総チェックとなる。毎度のことながらこれがまた大変なのだ。撮影時は大丈夫のつもりだったのに拡大してみると微妙にブレていて使えないこともある。やっとの事で選定した2点の画像はRAWデータだったので現像して色調補正。いざ投稿しようとしたらどうも勝手が違う。しばらく投稿していなかったのでやり方を忘れてしまったのだろうか。手探りしつつなんとか投稿完了。
 ふと思い出して他のサイトで公開中の写真をチェックすると2点のうち1点はすでに公開していたのだった。著作権はカメラマンのもので他のサイトで公開していても構わないことになっている。だから問題ないと思いつつ、使える作品の層が薄いような気もしたりするし出来れば未公開のものを応募したいという気持ちもある。
 悩んだところで採用される可能性はかなり低いということはすでに投稿された作品を見ても一目瞭然だ。


撮影:2007/06/17

 不毛なことを繰り返しているのかもしれないと思わなくもない。
 写真に限らずイラストでも漫画でも競争していると考えてしまったらきりがない。さりとて唯一無二のオリジナリティなんてそんなに簡単なものではない。いや、オリジナリティは誰もが持っているとしてもそれを磨いて研ぎ澄ます必要があるのだ。
 公開したまま放置してしまっている写真を眺めてつまらない写真のように思えてしまった。写真を撮っているのではない。カメラに撮らされている。今のご時世カメラ任せでもシャッターさえ押せばそれなりの写真が映るのだ。そこで満足してしまうからつまらない写真になってしまうのだろう。
 何故か昔のデパートの最上階に展示されていた伝統工芸や陶器や着物の光景を思い出す。技術の粋である作品はデパートの最上階で高値をつけられていたものの来店客は限られていたのではないか。多くの人の目に触れて興味を引くことも適わずいつまでも展示されたままになるとすれば何のために技を磨いたことになるのだろう。
 そうならないためにどうすれば新鮮であり続けられるだろう。


腕立て伏せ
1回目:90回
2回目:100回(ギリギリ!)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月15日水曜日

盛衰

 晴れ。そよ風あり。
 寝つけない日が続いている気がする。早く目が覚めるわけでもなくきっちり7〜8時間は眠っているので時間がもったいない。だったら早く起きれば良さそうなものだが、睡眠時間が短いとコンディションが良くないし、だからと言って早く寝つけるわけでもないから困ったものだ。
 ここ数日食欲が減退している。
 そういえば、以前に片道11kmほどの道程を一時間ちょっとで自転車通勤していたことがあった。往復なら22kmになるわけだ。されでも体重は増加傾向にあったから基本的に食べすぎなのだろう。今は買い物程度に自転車を走らせる程度だから運動量も少ない。基本体力の低下と精神的な何かが低下しているのかもしれない。
 そう。ワクワクする気持ちが。
 そこで自転車で少し遠乗りしようと思い立った。片道11km。既に昼を過ぎていたが、夕方までには帰れるだろうと南向きのコースをとった。

撮影:2012/06/16

 外に出てみると風があって涼しい…寒いくらいだった。慌てて自宅に戻り半袖の上着を追加。幸い、走るには問題ないくらいの風で暑くならずにちょうど良かった。ただ、雲行きが怪しく雨が降って来るのではないかと不安を感じつつ走る。
 産直の店はいくつもあるが、普段あまり行かない店をチェックした。サクランボが並んでいたので試食の味見をしてみる。濃厚な甘さが口に広がる。佐藤錦は酸味より甘みが強い。まだ数が出ていない感じがしたので「これからですよね?」とレジの人に声をかけると「いえ、もう出てます。」とのこと。最盛期は6/20頃という感覚なので今年は少し早いのかもしれないと思った。小さめの大根が1本30円だったので購入。
 風に向かって走っていると幾つかの橋を渡る。特に何もなくても川の上で自転車を停め、写真を撮ったり休憩したのするのがいつものパターン。最近はHDRが面白くなっているので同じ構図で露出を変えて何枚か撮影する。鮭が遡上する川に差し掛かると様子が変わっていた。どうやら整備したらしい。鮭はちゃんと遡上できるだろうか。
 今日の目的にしていたのはリサイクルショップ。
 手頃なMacや周辺機器が出ていないかということで以前なら割とよく出かけていた。今日は手頃なMacというより高スペックの機種が出ていてビックリ。本来なら喉から手が出るほど欲しいのだが、価格的に無理。それに自転車では大きさ的にも無理である。使っているキーボードがUSキーボードで使いにくいので日本語JISのキーボードがないかと見てみるとこれまた良さそうなのが出ている。もしかしたら高スペックのMacと同時に出たのかもしれない。これまた手が出せない。
 結局見ただけで店を出た。



 ついでにカメラ店を見ていこうと思って自転車で走っているとネットで移転の告知を見ていたMacの店がドーンと出ていた。中古品なども扱っているらしい。これはありがたいと思ったら定休日だった。そのまますぐ近くのカメラ店へ入る。新しい機種のカメラはもう把握できないほどの種類が並んでいる。しかも価格帯が下がっているわけでもないようでおいそれと手が出せるものではない。中古の棚を見に行くと今も大切にしているカメラが数千円で並んでいた。時代はすっかりデジタルだ。いつもの所にフィルムが並んでいなかったのでとうとうフィルムが…と思ったら別の棚に移動になっていた。ただし、種類が少なくなっているような?ポジフィルムも値上がりしているような?調べてみると20%値上がりしたらしい。愛用していたネガフィルムに至っては何年も前に販売終了となっていたようだ。既に使ってもいないのに寂しく思えてしまう。フィルムカメラは使えなくなってもしばらくはアダプターでレンズがデジタル機で使えるのが救いだ。

 帰宅しようと来た道と違うコースを選んだら陶芸用品を扱っている店を見つけた。中に入ってみると粘土やろくろや陶芸のための道具が並んでいる。店のご主人のお話ではこのご商売も35年ほどやっていて現在の場所に移転して10年くらいになるらしい。思い立って飛び込みで入ったので詳しいお話までお聞きしなかったが、なんだかワクワクしてしまった。

 帰りにイワシを買って帰ろうと思っていた。麺つゆが残っていたので梅干しを入れて煮たらいいんじゃないかと考えたのだ。いつものスーパーに立ち寄るとちょうどイワシが並んでいた。「お刺身用」とシールが貼ってあるから鮮度がいいということだろう。1パック3尾だったのでせっかくだから1尾は刺身にしようと思った。イワシは身が柔らかい。魚の調理に慣れているわけでもないので予想通り惨たんたる状況になった。それでも美味しい!残り2尾を予定通り麺つゆと梅干しで煮てみるとこれまた予想以上に美味しかった。
 どうやら食欲は戻ったのかもしれない。

 夜になって雨。
 ボクには誰かをワクワクさせることが出来ているだろうか。
 何事にも栄枯盛衰があり時代は移り変わっていく、流行に乗ることですら容易ではないが、出来ることなら消費されて終わらない普遍的なことを残したいものだと思う。


腕立て伏せ
1回目:98回(右肩に違和感あり)
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回
自転車:22km

2016年6月14日火曜日

助手

 くもり。蒸し暑い。
 ここ数日続いている体調の不調。いや、不調と言うほどでもないにしても芳しくない。相変わらず腕立て伏せに力が入らない。精神的なものだろうかとも考えてみる。これといって思い当たることはない。コーヒーとクッキーをかじった後、朝食を食べる気にならない。昼を過ぎてようやくそばを茹で、ざるそばにして食べた。

 インターネット回線を見直さなくてはならない事案が発生して色々調べている。心配事というほどではないにしても接続料が上がるし、光回線にすれば工事の必要も生じる。引っ越す可能性を考えればあまりあれこれいじりたくない。ところが固定電話があるのでセットにした方が安くなると来た。今後のことを考えると固定電話よりスマホの方が問題だろうと考える。その前にMacのスペックが問題だ。ネット回線が速くなっても処理能力が上がらないのではシステム環境改善につながるかどうか判断が難しい。
 体調が良くないとろくなことを考えない。発想もネガティブ。つまらないことに不平を言いたがる。そんな状態。気分転換の必要がありそうだ。

 天候を気にしつつ自転車を出した。花の季節はいつの間にか緑の季節へと移り変わっている。運動のつもりで自転車を出したもの天候が怪しいのではのんびりしている場合でもない。スーパーに立ち寄った後、ホームセンターで自転車のサドルをチェック。ネットで見ていた価格帯と同程度。送料を考えれば、ホームセンターで調達した方が良さそうだ。しかし、そもそも自転車を新調すべきなのではないかとまた思考が堂々巡りを始める。


撮影:2008/06/15

 結局、何も買わずにホームセンターから出て、近所のスーパーで牛乳だけ調達。

 帰宅して机に向かう。作画の方はここ数日の調子を維持できている模様。
 これで体調のコンディションが復調してくれたら言うことはない。鉛筆で描いていた下絵をペン入れなしで公開することにした。いずれ加筆するかもしれないが今の調子の線を記録しておくのもいいだろう。
 鉛筆+デジタル処理。

 先日感じた「他動感」を助っ人として見立ててみた。武士であり、戦士であり、従順な助手である。彼は優秀だがまだ若い。ゆえに失敗も勘違いもある。


 誰もがそれぞれに助手がいて、共に悩み、励まし合い、成長していく物語って言うのもいいんじゃないだろうか。


腕立て伏せ
1回目:95回
2回目:110回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月13日月曜日

能力

 雨。体調は優れない。食欲もなかった。どこが悪いということでもないのに力が入らない。腕立て伏せで顕著だった。昨夜なかなか寝付けなかったせいかもしれない。昨日の不調が続いている感じである。ふと気がつくと奥歯がぐらついている。歯槽膿漏だろうか。重曹水のうがいが合っているような気がしていて油断してしまったのだろうか。歯ブラシでマッサージしつつ様子を見ようと思う。


撮影:2015/06/14

 昨日は体調が芳しくないながらに作画の方は悪くない印象だったので今日も机に向かってみる。
 他動感という言葉が浮かんだ。
 自分が描いているのに誰かが描いている感覚がある。あるいは描かされている感覚と言うべきだろうか。主観であるはずのボクが客観的に見ている。そしてバランスや絵の状態を評価している。描いているのもボク自身でありながら誰かが描いている感覚。客観的視点を得ただけで作品が変化したように感じる。過去絵が酷い状態に見えるのは、客観視が出来ているからではないかと考えてみる。精一杯描いた。一生懸命努力した。そんな時には客観視できず欠点や弱点が見え難くなっている。その蓄積も必要ではあるが、時に迷いのない厳しい視点が必要となる。
「描く」と言ってもその動作には様々な要素があるのだ。少なくても紙面を見て意図した線を描くという行為が連携されていなければならない。その背景にはバランスに配慮して評価することや肩から腕、指先までもをコントロールする感覚が養われている必要がある。
 訓練、修練、修行。
 目的に応じて使いこなせるようになるまで能力を磨くこと。その中でしか得られないものがあるとしたら…。指示や命令といった他者からのアプローチではない。自らの意思によって自らを御す。自転車や車の運転がそうであるように意識せずとも動けることが必要なのだ。

 他動感とは無意識を味方につけるということかもしれない。



腕立て伏せ
1回目:81回(力が入らない!?)
2回目:103回
3回目:95回(やっぱり踏ん張りが利かない。)
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月12日日曜日

放心

 晴れ。涼しい朝だと思ったら間もなく暑くなった。
 気温が上がれば腕立て伏せも快調になると思いきやそうでもない。100回クリアをノルマにしているのに100回目に撃沈。1回目は100回クリアできなかった。

 最近、自転車で走るのも夕方に買い物する程度で限定的。歩くことも少ない。そんな日が続いているのにたまに歩いたり自転車で走ったりするから疲れが残るのだろうか。腕立て伏せや腹筋運動などもやらないよりはマシという程度に過ぎないのかもしれない。週一回ではなく何回かに分けて動いた方が良いのだろうと思う。

撮影:2010/06/13

 まるで気力が湧かないような放心状態のまま机に向かってみる。すると予想外に鉛筆とペンが走る。無心と放心は近いのだろうか。集中しようと懸命になるより放心状態の方が欠点が見えたりするのが不思議だ。それが過去絵の未熟さを痛感させたりもする。以前に描いていくらか良く描けていると思ったのが嘘のようだ。かなぐり捨ててしまいたい衝動を抑えつつ鉛筆で描いたものの修正を試みる。外形線を維持しつつ目鼻などのパーツを描き直す。何度か描き直しても納得できないので結局全部消して描き直すことになる。調子がいいのか悪いのか混沌としている。
 それでも放心状態の方が不思議と紙面への目の焦点も合いやすい気がする。力を抜いて適時集中する方法と常に集中しようとして力んでいる状態の違いだろうか。過去絵は常に集中しようとして力んで描いた結果なのかもしれない。描くことについて期待や思い入れの強さを反映していることだと思うからあながち悪いことでもないのだろう。

 夕方になってまた自転車を出す。曇り空で雨が降りそうな雰囲気。湿度も高くなっていたのかもしれない。いつものようにスーパーを二軒はしごして帰宅。

 夜になっても倦怠感は改善せず。それどころか増している感じで動きたくない。
 放心というより放電してしまったかのようだ。
 明日には改善するだろうか。


腕立て伏せ:
1回目:99回(!?)
2回目:103回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月11日土曜日

新調

 晴れ。気候は快適ながらエンジンのかかりが良くない。
 そういえば、ガスコンロの点火の調子が悪くなってしばらく経った。今日は一段と調子が良くなかった。


撮影:2011/06/11

 土曜日だからということで運動不足解消のため自転車を出した。
 携帯ショップに立ち寄って現行機種の確認。スマホが欲しいのは山々だが、問題は通信料だろう。ガラケーの機種もまだあるようだ。電話をするだけならスマホでなくてはならない理由もない。今の携帯電話は東日本大震災の頃に地震速報などを考慮して購入したのではなかったかと思う。するともう5年くらいは使っていることになるだろう。まだ使えなくはないとは言え、このままガラケーを使い続けるならこの辺りで機種変更しておいたほうがいいだろうかと考えてみたりもした。
 近所のショッピングモールに向かうと多くの来店客で賑わっていた。ショッピングモールは大きいが、閉鎖空間には違いない。香水などの匂いが充満していて人が行き交うことで撹拌される。普段人ごみに行くことが少ないので匂いの濃度が高いだけでも長時間は耐えられない。
 飲み物だけ買って外に出る。陽射しが暑い。
 スーパーに立ち寄ってホームセンターに寄る。ペットショップでやたらに愛想のいいワンちゃんにおもてなしされた。後足で立って腰を振りながらダンスをするのだ。聞けば教えたわけでもないらしい。最年長の1歳ということだったので温かい家族に迎えられることを願わずにいられない。それから店内を見て回ると鉄のフライパンが安売りになっていた。フッ素樹脂加工のフライパンが焦げつくようになってネットなどでも調べていたので購入決定。1300円だから思っていたより少し安い。フッ素樹脂加工のフライパンが1〜2年で焦げつくようになることを考えれば、鉄のフライパンを10年使うことを想定すれば高い買い物ではないだろう。上手に育てれば、焼きそばでも餃子でも焦げつく不安を解消できる。
 産直の店ではさくらんぼが出始めていた。500gの規格外の佐藤錦が180円。1kg買ってさくらんぼ酒にするといいかもしれない。ただ、佐藤錦は甘さと引き換えに酸味が弱いのでレモンを追加した方がいいだろう。結局買わずに店を出てすぐそばのドラッグストアへ向かう。いつも買っているやすいコーヒー豆を買おうとしてふと手を止めた。いつもより高い。すぐ買わなくてもまだ残りがある…と思いつつ、またその店まで足を運ばなくてはならないことを考えれば購入したほうが賢明だ。そもそも内容量が多いので価格的には他の製品よりまだ安いはずだ。50円程度の差額に葛藤して結局購入。他にチーズ入りのホイップクリームメロンパンが安くなっていたので昼食代わりに購入して近くの休憩スペースで食べた。以前、カモシカを見かけた場所なので様子を伺ってみる。今日はお出ましにならないようだった。
 書店を経由して産直の店をもう一軒回るとジェラートを販売している店の前に人だかりができている。椅子もテーブルもないのでその場に座り込んで食べる子供たちがいたりする。持ち運べば融けてしまうものだけに売れればいいという感覚だけではよくないのではないかと思う。もっとも平日は閑散としてしまうのだから一時的なものという感覚なのだろう。
 近くにある足湯や裏手にある噴水公園も賑わっていた。
 季節限定とは言え、地方にありながらこれだけの商業施設や遊戯施設が充実していて地元民のみならず観光客も楽しめるということは恵まれているのかもしれない。
 もう一軒スーパーに寄って帰宅。

 気がつけば自転車のサドルが壊れかけている。


腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:110回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回





2016年6月10日金曜日

中間

 晴れ。昨日より少しは湿度が下がっているようだ。快適。 

撮影:2014/06/11

 数日前から描いていた背景カットの制作を続行。
 ポイントは波の向こうに光が透けているところ。多くの画家や写真家が魅力を感じているのではないだろうか。描けば描くほど深みが出てきて面白い。欲を言えば、エッジを竹串で描くのではなく色鉛筆で表現したいところ。それには少し画材としての力が足りない気がする。漫画の背景としての用途だから今回は明確な表現のほうがいいだろう。
 色鉛筆を使いながら中間色の使い方について少し考えた。作画の際に黒や灰色などの無彩色を使用すると色が濁ってしまう印象があって、それが苦手意識にもつながっていたため砂浜を描こうとして迷いが生まれた。
「…砂の色って何色で描けばいいんだろう。」
 真っ先にイメージしたのは濃い灰色だった。砂の色=灰色という固有色としての認識だ。しかし固有色として認識される色も環境光によって左右される。周囲が青なのでそのまま灰色で描けば補色のオレンジ色系で感知されるだろう。全くのオレンジ色というほどではないとしてもそのままでは浮いてしまうことも考えられる。そこで周囲同様の青を重ねてみる。この青は暮れてゆく空の色を反映している。青+灰色なので彩度が抑えた濃い青ということになる。相対的に茶系の印象になった。悪くないようなので波打ち際の砂が流れる様子を描いてみる。最初は手探りだがこれも悪くないようだ。グレーの中間色を抜くことで水の流れを表現できることもわかった。脳内のイメージをスケッチしている感覚だ。
 不思議なのは何故わかるのかがわからない。
 何度か波頭の絵を描く試みをしたことはある。波打ち際を描いたことがあっただろうか。
 これまでは色の扱い方は無彩色を極力避けて彩度を下げない手法で描いていた。適宜彩度を下げることで扱える色の数が増えたことになる。
 グレーを使って描きながら思う。短絡的かもしれないが、近景に中間トーンを使用し明度を下げ彩度を上げ、遠景には中間トーンを抜いて明度上げ彩度を下げれば色による遠近の表現が可能になるだろうか。夕景などの光の表現の際には遠景の彩度も維持する必要があるだろうか。



 目で見ることではなくイメージを見ること。
 心に思い描いたものを辿ること。
 それが絵になる。
 忘れていた不思議な感覚だ。

…もう少し空にもこだわって良かったかも知れない。


腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:110回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

2016年6月9日木曜日

蒸発

 湿度高めの曇り空。
 腕立て伏せしても汗がにじむ。
 腕立て伏せの回数だけ記録していたが、実は少し前から腹筋運動と背筋運動を追加していてその他に軽い体操もしている。脳の活性化が目的で始めたことだから他に目的はないもののよく続いていると我ながら思う。

撮影:2013/06/10

 今日はまず机に向かって作画。
 調子が出ないと言いつつも描いてあったた昨日の下絵を修正してペン入れ。インクボトルの蓋を開けようとしたらカチャッと鳴った。蓋が緩んでいたのだ。残りのインクが少なかったとは言え、まだいくらか使えたはず。中を確認するとほとんど蒸発していた。新しいインクを買ってあったので慌てることはないとは言え、使ううちに少しずつ蒸発して濃度が上がり、滲みにくくなっている状態なので惜しい気がしてしまう。仕方なく新しいインクボトルを開封して使ってみると案の定滲んでしまった。安いコピー紙に何度も消しゴムをかけたりしているから当然の結果ではある。
 鉛筆の下絵を修正してペン入れの後は乾くのを待って消しゴムをかける。この時、鉛筆の下絵が持っていた雰囲気が蒸発するような感覚になる。なかなか慣れることができない。
 昔、写真の仕事をしていた時に暗室でモノクロフィルムや写真の現像もやっていた。フィルムは現像から定着までほぼ真っ暗闇の作業である。一方、写真現像の方は適時仄かな灯りの下で作業する。最も感動的だったのは感光した印画紙を現像液に浸けた時の様子である。まるで空間から影像が浮き上がり、白い印画紙にまといつくようだった。無から有が生まれる瞬間を目の当たりにするような驚きがあった。
 理想的には印画紙に像が浮かび上がるように描きたいと思っている。
 あたかもそこに実在していたものを写真で撮影するように原稿用紙に定着させたい。今はむしろその逆で消しゴムをかけるとその絵の魂まで消え去ってしまう。その後のデジタル彩色によってまた別の雰囲気をまとうことになるとは言え、できれば元のイメージを仕上げまで維持したいのだ。
 蒸着という言葉を知ったのは工場派遣の仕事先だった。気化させた材料を目的に応じて意図した素材に定着させるということだったと思う。自然界ではなかなか同様の現象を見ることはない気がする。
 例えば、霧氷が近いかもしれない。
 空中の水分が冷やされて木の枝などで氷結する現象だ。

 何もない空間に漂うイメージを捉えて紙に定着させる。
 齟齬のない的確な定着のために日々の修練が大切なのだ。

 夕方になって買い物に出るとパラパラと雨が舞っていて帰宅した途端強くなった。夏の夕立のような雰囲気さえ感じる。


腕立て伏せ
1回目:109回
2回目:110回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回

無風

 向かい風でどれだけもがいても前に進めないばかりか逆に押し戻される日もあれば、ごく稀にではあってもすこぶるコンディションの良い日もある。そして何日かに一度こんな風に凪いでしまう日がある。

 たとえば「生きていてよかった。」とか「生まれてきて良かった」心から思えるほどの努力をボクはしているだろうか。
 大抵のことは情熱だけでは達成できない諸々の事情がある。時には事務的に、時には渋々取り組まなくてはならないこともある。その繰り返しが長く続くと目的や方向性を見失ってしまう。最初は大胆に情熱に任せて始めたことであってもおそらく目的に近いほど微調整しながら慎重に進めることが必要になるのだろう。
 スイッチを入れたり切ったり方向性を修正しつつ歩みを進めるしかない。

 今日もイラレのネームとにらめっこ。
 ストーリーの矛盾に気づいてしまった…というより、気づいたのに忘れていたのだ。しばらく悩んだ後、作画の方にスイッチ。調子が悪いわけではないと思うが、キャラクターの形が取れない。
 子供の頃は「漫画や絵なんか歳を取ってからでも描ける」なんて説き伏せられて渋々勉強に取り組んでいた。
「あれは嘘だな」と実感として思う。
 視力や桁外れの集中力は若い頃ならではのものだ。少なくても目をつぶってでも描けるくらいに描いておかないと歳を重ねてから容易に描けるようになるものではない。始めることに遅すぎることはないとしても早いからと言って問題になるだろうか。
「鉄は早いうちに打て」という。
 熱く柔らかいうちに形を整えた方が良いのは漫画や絵だって同じだろう。

撮影:2010/06/09

 夕方になって自転車を出すとパラパラ雨が舞っていた。
 麦畑の様子を見てから田んぼ沿いに自転車を走らせていると一羽のカモが何やらつぶやきながら歩いている。自転車を停めると少し立ち止まってこちらの様子を伺っていた。危険がないと判断したようで、また何やらつぶやきながらヨチヨチと歩いている。カモの足元は田んぼの水を含んだぬかるみだ。体重が重ければたちまち沈んでしまうだろう。水かきのついた足で踏みしめる土の感触はどんなだろう。一瞬そんなことを考えた。
 スーパーでは、だし用の昆布とかつお節などを購入。以前はちゃんと出汁をとるようにしていたが、最近は麺汁の出汁をとる時くらいだろうか。夕飯にベーコンが欲しいと思っていたのでチェックすると2軒目での安いベーコンが1パックだけ残っていた。
 天候は不安定な様子でスーパーを2軒回って帰宅すると雨は大降りになり、雷鳴まで聞こえ始めた。

 ボクが立ち止まっていても季節は動いていく。


腕立て伏せ
1回目:102回
2回目:107回

2016年6月8日水曜日

創世

 どこで間違ったかといえば、生まれた所から間違っている。
 そんなことを時々思う。
 自分の意思で決めているつもりでもそれは太古の昔からの進化と退化、積み重ねや取捨選択の末の結果論だとすれば、今この時を生きていることすら宇宙創世の時に既に決まっていたことになる。では宇宙創世は…?
 否定を繰り返せばきりがない。否定の根源には「現状への不平や不満」があるだろう。
 満足し納得していれば、否定する必要もない。
 だから肯定することを試みる。
 ただ、正しいというのには語弊があるのかもしれない。
 そこに善悪の判断基準が介在するから。

 すべてあるがまま。
 何故なら宇宙創世があるがままだから。

 確かに人類は多くの過ちを繰り返してきた。個人もまた失敗の末に経験を獲得する。宇宙の試行錯誤の中で生かされ、ホンの一瞬の幸福感を享受する。
 ボクもまた大きな流れから逸脱することはできない。幸も不幸も逃れることはできない。そもそも幸か不幸かも人間の価値観であり、個人の基準だ。

撮影:2011/06/08

 昨日に引き続きHDR合成した画像を少しいじってからネーム及び台詞回しを検討。
 登場人物を追い詰めるような内容なので書くのが辛い。昨日思いついた設定を追加して、ひどいなぁ…辛いなぁと思いながらも書かなければできないというせめぎ合いだ。
 こんなに辛くても書くべきなのかとまた疑問が生まれる。中止半端にはしたくない。なんとかハッピーエンドの方向はないだろうか。
…いや、この話はハッピーエンドではいけないのだ…と思い直す。
 それでも何か救いはあるべきではないのか…と思案は続く。

 たとえば神様だったらどう考えるだろう。個人の悩みや苦しみをどんな風に見ているだろう。そもそもそれらの苦悩は誰が何故与えたのだ。不足があっても不満があっても人は自分の人生から逃れることはできない。誰かに成り代わることはできない。
 漫画の作品の中の一人か二人の登場人物の心境を想って頭を悩ませるくらいだからとても神様の代役を務められないことだけは確かだろう。

 高校を卒業する頃、漫画家やイラストレーターなど描くことを仕事にしたいと考えていた。当時、道を見つけることはできず、表現すべきことも見当たらなかった。
 だから長い時を経てやっと登山口に辿り着けたような心境なのだ。そして描くべきことはここまでの旅路の中にあったはずだ。

 富士山の麓に生まれた人が富士山頂を目指すとは限らない。富士山から遠く離れた土地に生まれた人が富士山に憧れないとは限らない。
 いつか駅のホームで電車を待ちながらこれから向かおうとしている方向から来て反対側のホームに降り立つ人のことを思った。その電車に乗ってこれから反対方向へ行く人もいる。もしかしたら交差しないすれ違いの人生を送る人たちも同じようにタイムカードを押して働いて残業もあったりする日々なのかもしれない。それでも反対方向からやってきたり出かけたりしているのだ。効率化を追求する社会が実は非効率の中で成立している。そんな生活の中で人は夢を見たり見なかったり一生懸命になったりならなかったりしながら生きている。

 宇宙創世はあるがままだとすれば、人はなぜ生まれ死んでゆくのだろう。
 それすらも理由などなくあるがままなのだろうか。
 たとえ真理の欠片を見つけたところであの世に持ち去ることはできない。
 人類文明発展の鍵になっているのは、人生に意味を求め、生きている間に何かを残したいという幻想だったりするのかもしれない。



腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:110回




2016年6月6日月曜日

分岐

 晴れ。涼しい日。

 人生は分岐と選択の繰り返しである。
 日々の暮らしの中にあって迷うこともあり、迷わない時ですら選択をしている。

 子供の頃から何度考えてきただろう。

 正解などあるのだろうか。一時的に正解や成功にたどり着いたとしても長い目で見ればただ一時の出来事に過ぎないことともある。



撮影:2006/06/07

 以前に書いてあったストーリーのプロットを引っ張り出してセリフまわしの確認作業をしていると2つのストーリーを用意してあったことに気がつく。一言を言うか言わないかによってその後の流れが変化してしまう。どちらが正解なのかわからない。どちらも捨てがたいのだ。ゲームのシナリオであれば分岐する条件はいくつもあった方がいいのかもしれないと考えたりする。漫画の場合はストーリーを一本で進めることが最終的な目的にもつながるので選ばないわけには行かない。そして、否が応でも物語の主旨について考えなくてはならないのだ。選択肢が2つあった場合は3つ目の選択肢を考えてみる。今回は2つの案を統合する方向で考えてみる。その場合、分岐によって得られるはずだったものを失わないようにしなくてはならない。こういう時、物語を編んでいる感覚になる。
 プログラムにも条件分岐というものがあるようだ。ある条件を満たした場合とそうでない場合。あるいは複数の条件の中から適合した場合のみプログラムが実行される仕組みだ。物語の構成もそれと似ているのかも知れない。心の動きを左右することになるので的確な描写が必要だろう。

 夕方になって買い物に出た。自転車を走らせながら作品の成り行きについて考える。ハッピーエンドとは言えないしバッドエンドでもない。思い入れが強いせいか涙ぐんでしまいそうになることがある。自己満足できないのだろうか。この作品を世に出していいものだろうか…。

 サバの切り身が安くなっていたので購入。
 帰宅して穴が開いて捨てる他ないかと考えていた鍋にアルミホイルを敷いて焼いてみることにする。ネットでは中華鍋の利用例が紹介されていた。中華鍋は底が丸いのに対して鍋は平らなので鍋の方が好都合ではないだろうか。空焚き状態になるので穴の空いた鍋なら惜しくない。結果、上手くいったような気もするしそうでなかったような気もする。アルミに焦げついて身が崩れてしまったのだ。味はもちろん悪くない。初めての挑戦なのでこんなものかもしれない。要研究といった所だろう。

 夜になってHDRのソフトを使って写真を合成するテスト。HDRに関しては撮影方法の他ソフトの機能に依存する所が大きい気がする。最近、露出を変えて撮影することを心がけていたので初めて使うソフトに挑戦してみた。意外と使い勝手が良くて快適だ。少し問題になったのは他のソフトを同時に起ち上げているとメモリ不足になってフリーズ同然になるということ。これはスペックの問題で古い型のマシンで最低限のメモリ構成でも単独なら動かせるので充分と考えていいのかも知れない。少し触ってみただけでもこれまで試用したソフトに比較して格段に使いやすいと感じた。
 HDR処理適用後、画像編集ソフトで補正。単独ソフトではないので少々無理があるようだ。自然でありながらドラマチックな作品に仕上げたい。

腕立て伏せ
1回目:100回(ギリギリ!)
2回目:110回

2016年6月5日日曜日

意義

 山に登るのとに理由はいらない。
 そこに山があれば登るのだ。

 漫画を描くことに意味も意義も必要ないのかもしれない。
 それでも…と思う。一体、何のために、誰のために描こうというのか。自分が楽しければそれでいいという時代も確かにあった。だからもしかすると自分が楽しむための意味や意義を求めているのだろうか。
 仕事をするのは生活のためだけではないのと同様に描くことに対する熱量を維持するための燃料を欲しているのかもしれない。

撮影:2012/06/06


 今日もまずMacを起動してイラレのレイアウトデータに向き合う。
 本来ならイラレではなくInDesignだとページ管理が楽なのかもしれない。InDesignは画像管理ソフトではないし漫画用のソフトでもない。つまりは漫画用のソフトを用意すればいいのだろう。ただ、イラレをメインに使用していることを考えると新たなソフトの導入や習得が億劫でもある。実際、漫画で使える無料のソフトをいくつか試用しているもののどうにもうまく使いこなせていない。ペンタブを使っていないからなどという単純な問題ではないだろう。
 コマ割に配置したカットを眺めていて何となくイラレでカットを描いてみる。思った以上に収まりがいいのでそのまま描き進めてみた。手軽に図形やイラストを描くことができるのはイラレの利点だ。ある程度描いていると透視法を適用していないことが気になり始めた。デザイン的にシルエットのような扱いをしたかったのでむしろフラットに描こうと思っていたのだ。気になり始めるとやってみないと気がすまないので改めてそのカットを一点透視で修正。そのままではデジタル特有の綺麗すぎる画像なのでフォトショへデータ移行して汚しと劣化を試みる。やはりデジタル画像では限界なのだろうか。「手の跡」は再現できない。時間をかければそれなりになるだろうか。デジタルデータを汚すために時間をかけるのも本末転倒なので要するに手描きからやり直す方が良いということになる。

 改めて全体を眺めてその工程を思い途方に暮れた。毎日のように公開している人もいるというのにたかだか12ページを前にして怖じ気づいてどうするのだろう。
 思えば、毎日終電を気にしながらDTPに取り組んでいた頃は、とにかく作業するしかなかった。慌てようもないくらいの内容で分厚い書類を渡されて何週間、何ヶ月…先のことなど見通せず一つ一つ進めていくしかなかった。不要な電灯を消した暗い部屋でひたすら画面に向かっていた。
 少なくても今は自分の意思で進めなくてはならない。何週間、何ヶ月…完成した時をイメージして制作するしかないのだ。やり遂げることの難しい大変なことに取り組んでいるのかも知れない。

ゆえに作品に意味や意義を求めてしまうのだろう。



腕立て伏せ
1回目:106回
2回目:110回

2016年6月4日土曜日

魅力

 晴れ。気温も少し上がった模様。
 いつものように軽い体操をして腕立て伏せをしてみるといつもに増して体が重く感じる。その日の状態によって力の入り方が違うのでコンディションの確認になっている。

 今日は描きかけの作品のネームを再構成しようとMacに向かった。

撮影:2009/06/05

 頭の中にはイメージがあったが、8割程度しかプロットしていなかった。新しく構成したレイアウトにセリフを割り振ってみる。カットは下絵のみでまだこれからだ。
 2年前に描いたネームを確認しようとデータを探してみるとまた作りかけて忘れていたデータが出てきた。煮詰まると他のことに手をつけるのでやりかけて中途半端になっているものがあこちにあるのだ。部屋が散らかっているのもそのせいだろう。
 構想していたセリフを配置しつつ、まだプロットしていなかったセリフを配置してみた。こうすることによって全体を見渡せるようになりページ数もある程度確定する。
 セリフを配置しているうちに自分の作品にグッときて涙ぐんでしまった。未熟者である。まだまだこれから作り込んで行かなくてはならない。
 前回の作品は描き進めるごとにページも増えてしまった。連載する場合は、ある程度調整できるとしても作品としての全体を考えた場合はあまりスマートとは言えないだろう。今日取り組んでいた作品は後編のイメージもあるため、前編としての完成度を上げておきたい。ざっと流れを組んでみると12ページ程度。短編にも及ばない小編と言ったところだろうか。週に1ページ描ければ3ヶ月。無論早く描ければそれに越したことはない。
 ただ、着実に進めることを忘れたくはない。
 何しろ2年前の絵はひどい絵だと痛感する。一生懸命できる限り描いていたつもりの絵がここまでひどく見えるとは。だからこそ今描ける精一杯の絵で可能な限り完成度を上げておかなくてはならない。

 イラストにしても絵にしても仕上げの一振りでグッと迫力が出て魅力が増すことがある。一点ものの作品の場合はその感覚を大切にしていた気がする。漫画の場合、カット数が多いことやコマ割りの流れなどもあってなかなかその感覚に到達できないのがもどかしい。

 その感覚に辿り着ければ、繰り返し読んでもらえる作品になるのではないだろうか。

 夕方になっていつものように自転車で買い物に出た。帰りに麦畑を見に行ってみるとすでに麦秋を迎えている畑もある。光に透き通るような麦の穂がサヤサヤと風に揺れていた。一振りの夕焼け色が麦畑に舞い降りれば世界は神秘のベールを纏うだろう。魅力とはそんなものかもしれないと思う。


腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:103回(中断有りのため参考値)

2016年6月3日金曜日

干渉

 気温が低く推移しているせいかテンションも上がらない。昨夜、意図せずして就寝が遅くなったこともあって朝の活動開始も遅くなった。

撮影:2008/06/04

 活性を上げるためということで身体を動かそうと割り切って午後から外出した。ショッピングモールを散歩してお米が安くなっていれば購入して帰ろうかという計画。晴れてはいてもやはり気温は低い。麦の穂がホンの少しずつ色づいて風に揺れていた。
 金曜日の日中ということでショッピングモールは人出も多くない。
 書店では中学生風の姿が見られたが、今日は学校なかったのかなとふと思う。漫画雑誌はいつからかビニールの紐で縛られて中が見えないようになっているため、立ち読みする姿も見かけなくなった。肝心の販売数は伸びているのだろうか。
 時々出かけているので顔を憶えた店員さんもいたりするものの用のないお店だったりするので話す機会もない。

 散歩しながらアナログ作品のことを考えていた。色と色が混じり合って新しい効果を生み出すこと。相互に干渉し合うからこそ意図しない結果になって驚くこともある。一方でデジタルはレイヤーに分配することで相互干渉しないよう重ねることが可能だ。同一レイヤーで作業すれば、限定的に相互干渉させることもできるから意図に応じてコントロールすることが可能なのだ。
 デジタルは相互干渉をコントロールできることがポイントかもしれない。意図するにせよしないにせよ計算で結果を導いているはずだからどこまで計算されているかが効果を結定しているだろう。
 アナログの場合、意図的に偶発的な効果を誘発させて結果を制御しない面白味ということがある。それが意図を超える効果につながり思いもかけない感動を呼ぶのだ。

 ショッピングモールを回ってそろそろ店を出ようとしたら商品展示のポスターに目が止まった。最近注目している俳優さんが大きな写真で商品を紹介している。吸い寄せられるように写真に近づくと、待ってましたとばかりに小さな紙コップに入った試食品を差し出したのは売り子さん。その紙コップを差し出した売り子さんの顔を見て「あ」っと息をのんだ。そこには5年ぶり会う知り合いが立っていた。以前は日に焼けて自由な活動をしているような印象だったので、日焼けの様子もなくメガネをかけ売り子さんスタイルの姿を目の当たりにして他人の空似かとも思った。恐る恐る確認しても相手もしばらく気がつかない様子。5年前の話をしたらようやく話が繋がった。ボクも相手の名前を思い出せなかったのだからお互い様だろう。そして「それにしてもどうして?」とつい訊いてしまった。すると「どうしてって…仕事だから。」と笑う。それはそうだ。愚問だった。

 5年前…そう東日本大震災の頃である。あれから5年。お互い辿った別々の時間がある。あの頃は自由に振舞う様子が羨ましくさえ思っていた。その自由さゆえ、ボクの事など憶えていないだろうと思ったら「まだ自転車乗ってるの?」と言われた。そんなことが印象に残っているのだなぁと苦笑しつつ今も自転車に乗っていることに違いはない。
 あの頃は進むべき道を模索する多くの仲間がいた。そしてやがてそれぞれの道へ進んで行った。お互いがその一人に過ぎなかったのだ。

 人と人との関わりもデジタルだったりアナログだったりするようだ。当たり障りなくノイズのない関り合いで後味すら残さないこともあれば、干渉しあい影響しあって新しい色へと変化することもある。どっちが良くてどっちが悪いということでもないだろう。
 混じって濁るなら干渉せずデジタルな関係の方がいいかもしれないし、進化・成長したいならアナログな関係で気がすむまでしっかり干渉し合う方がいいのかもしれない。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:110回

2016年6月2日木曜日

彩能

 雲の多い朝。しばらくして晴れたものの気温は低く肌寒い日になった。
 昨日、海の絵のカットを描いていたら水彩かアクリルで描いてみたくなった。水彩紙やスケッチブックがあったかもしれないと思って探してみたが、大抵はラクガキに終始している。まだ描いていないページを探したりラクガキを消したりしつつ「勿体無い事してきたなぁ」と思う。必要な時にスケッチブックがないとはなんという事だ。
 賞味期限切れのように黄色くなったスケッチブックをなんとか見つけ出し、まだ描いていないページに海を描いてみる事にした。

撮影:2011/06/03

 絵画は年齢とともに成熟するらしい。人生経験もさることながら他にも理由があるのではないか。若い頃に描けなかったものが描けるようになるのは何故だろう。そんな事を考えていた。もしかしたら細部にこだわらなくなるからかもしれない。ディテールよりも雰囲気を大切にしたい気がするのだ。
 水彩かアクリル絵の具かで少し迷ってアクリル絵の具を取り出す。もうずいぶん前に購入したにも関わらずまだ使える状態だった。久しぶりなので試し描きの意味合いもある。小さなスケッチブックは経年劣化により紙面がガサついているので絵の具の浸透具合も場所によって違う。思うような筆運びができないもどかしさはデジタルでは得られない感覚だろう。海の波を描くために波頭を筆先のばさつきで白く残したり、重ね塗りして色に深みを出したり…デジタルのレイヤーで乗算などの透明効果を便利だと思っていたが、手描きでは自然にやっていたのだった。そんな風にしばしアクリル絵の具でスケッチブックと格闘した。

 夕方になって外に出ると空気が冷たい。
 少し離れた山に視線を移して驚いた。普段と見え方が違う。うまく言葉にできないが、存在感が違って見えるのだ。ずいぶん前に忘れてしまっていた感覚のような気がする。

 脳は実に不思議だ。
 例えば、出かけたことのある場所でも地図を描こうとすると分からなくなったりする。道順が説明できなくても実際に出かけてみると的確に道を選んで目的地にたどり着ける。まるで現場の風景に記憶を呼び起こすスイッチがあるかのようだ。
 経験したことは脳が何かの形で覚えていて五感によって得られる情報が鍵となって起動するのかもしれない。それまでは眠った状態なのではないだろうか。
 そう考えてみると調子が出ない時や行き詰まった時は過去に経験して夢中になったことに取り組んでみるのがいいかもしれない。そのことによって起動した記憶が脳の活性化に繋がるのではないだろうか。


腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:103回

研鑽

 昨夜の突然の雷雨は寒冷前線の通過によるものらしい。一夜明けて今日は空気が冷たく季節が逆戻りしたかのよう。近所の山に大きな雷球が落ちるのを見たという話もあるらしい。温暖化対策が活発な昨今、寒冷化説を唱える科学者もあるとか。資源は有限であるからイズリ石油に頼ることもできなくなるだろう。もしそうなったとすればかなり危機的な状態で寒冷化を迎えることになる。再生可能エネルギーを中心としたエネルギー改革はどこまで進むだろう。

撮影:2007/06/02

 今日は、既に用意してあるページレイアウトを意識して作画。鉛筆で描いてあった下絵を元に色鉛筆で彩色。ちょっと弱い感じだったので竹串に薄墨をつけてエッジを立てる。薄墨でエッジを立ててから水彩で着色の方がスマートだろうか。

 そもそも漫画は印刷技術と共に進化してきたのではないかと思う。モノクロが主流なのは印刷コストを抑えるためであり、薄墨を使用しないのも印刷で再現することが難しかったからだろう。代わりにスクリーントーンが利用されるようになった。細かい点や線などにより淡墨に代わって中間トーンを再現できるようになった。限られた選択肢の中でいかに豊かな表現をするかということで研究を重ねて来たのではないだろうか。

 近年ではデジタル技術の発達により表現方法は格段に増えたのではないだろうか。これまで限られた条件の中で新しい表現を生み出してきた流れとは事情が違う。モノクロからカラーになっただけではなくRGBで光の表現まで可能になった。無限に広がった可能性を全部試すことは不可能に近いかもしれないから最適な表現を選択していかなくてはならないということだろう。
 適切な道具で適切な作画技術を身につければ、汚れやノイズの少ない美しいデータを作成することも可能だ。一方で汚れやノイズなどがないことが物足りなさを感じさせてしまうのではないだろうか。そこで敢えてデジタル処理で汚しを入れて粗くしている。すると手描きのカットがいくらか写真のような雰囲気になる。出発点がアナログなのでデジタルデータにしてから汚れやノイズをクリアにすることは大変な手間がかかるという事情もある。そこで写真をデジタル処理して絵画やイラストのように加工する手法を逆利用して手描きのイラストをデジタル処理して写真調に加工するのだ。実在しない風景に実在感が加味されるのではないだろうか。





 夕方になったので例によって買い物のために自転車を出した。魚を手に入れたかったのでいつものスーパーに行くとブリとかアジなどの魚が目に入った。なんだかピンとこないので別のスーパーへ出かけた。すると小さめながら北海道産のカレイが二尾で88円になつていた。カレイを調理するなんてもう10年以上ぶりではないだろうか。自分で釣ったカレイを煮付けにしようとして醤油を入れ過ぎてしまい塩っぱくなってしまった苦い思い出がある。今日は薄味で…と思ったら薄すぎてしまった。これまた最適な分量を選択する必要がある。

 何事も自分のものにするためには絶え間ない研鑽努力が必要ということだろう。


腕立て伏せ
1回目:110回
2回目:110回

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...