2015年12月31日木曜日

呉越同舟

 行く先が同じ旅人同士が小さな舟に肩寄せ合って大河を渡る。
 旅の話を語る者。陽気に唄を唄う者。寡黙に水面を眺める者。
 船頭の穏やかな横顔に気の弛みはない。
 日は暮れかかり、せせらぎと川風の音が耳をくすぐる。
 夕闇は行く先を隠し川面に来た道は残らない。

 今も昔も変わらない。
 漠然とした不安と微かな希望。

***

 希望を託した2015年が終わろうとしている。
 そしてまた新しい歳に希望を託すのだ。
 この一年、ボクは何を残せただろう。
 顧みる過去は夕闇に紛れ、不確かな記憶の淀みに沈んで行く。
 向こう岸には何が待ち受けているだろう。
 新しいことは未知であること。
 未知の環境。未知の出会い。未知の出来事…。
 未知であるからこそ新しい。

 ふと…考える。
 旅人を気取っているボクは果たして旅人なのか。
 新しい岸に渡る権利はあるのか。
 来る日も来る日も岸と岸とを行き来しているのではないのか。
 行くべき未知を探さねばならない。
 新たな旅を始めなければならない。

 2016年の岸を踏みしめて。

腕立て伏せ:101回

2015年12月30日水曜日

捻れ

 いつものようにまず腕立て伏せをこなし、机に向かってコンディションの確認。悪くないようだが、一度イメージを取り逃がすと負のループに迷いこみそうになる。無闇に深追いしないように注意しつつ維持したい感覚を確かめるように描く。歳をまたいでもこの感覚を見失わないようにしなくてはならない。2016年は2015年に培ったものをさらに育てるのだ。

 鉛筆の下絵が調子良くてもペン入れが上手く行かない場合も多々ある。現在はGペンとスプーンペンと丸ペンと筆と竹串を使い分けている。薄墨で着色してデジタルで彩色している。濃淡で分版する方法も試していたが、今日のように濃淡をそのまま使った方が良さそうだ。


 お雑煮用の大根があれば、年内の買い物は終了と思って自転車を出した。山に雪。風は冷たく冬の匂いがする。近所のスーパーにも大根は並んでいるが、この時期は県外産のものが主流である。県外生活が長かったせいか、出来ることなら野菜や果物は県内産が食べたい。何故なら県外生活でさえ選んで購入していたのだ。幸いにして県内産のものは価格も安く鮮度も高い気がする。おかしなもので県外産のものはピカピカで形もよくメインの売り場に並べられているが、県内産のものは不揃いだったり形が良くなかったりするものが産直コーナーに山積みになっているのだ。産直の店は不揃いや形が良くないとしても「鮮度」がポイントではないだろうか。ところが、スーパーの産直コーナーはともすればB級品売り場に見える。地元のものにもっと誇りを持った方が良いのではないだろうかとしばしば思う。もっとも、A級品は県外に出荷されて県内に残らないということかも知れない。
 一軒目のスーパーに県産品の大根があった。触ってみると若干柔らかい。天日干しにして保存を考慮してあるとか?残念ながら知識が足りなくて単に鮮度が落ちているのか判断が出来ない。県外産は大きく白さも際立ってパリっとしている印象。つい、県外産でもいいかなと思ったりする。しかし、県外産を買うなら最寄りのスーパーの方が安いはず、わざわざ遠いスーパーで高い県外産を買う必要もないのだ。
 二軒目は本命の産直の店…のはずだったが、店頭に並べられた県産品の大根は立派すぎた。1本100円を目安にしていたが、予算より高い。買ってもいいが、残って無駄にしてしまうのがもったいない。どういうわけか店内では県外産が並べられている。産直であれば問題ないわけかも知れないが、意気消沈してしまった。生産者らしい方が声を上げてカブを勧めていた。漬け物にはいいかも知れないと思いつつ目的は飽くまでも大根なので店を出た。
 今日はリサイクルボックスにスチール缶を入れることも目的にしていた。ところがスチール缶のリサイクルボックスを設置してある店を記憶違いしていたらしい。仕方なく予定になかったスーパーに立ち寄った。ついでに大根も確認したが、残念ながら県外産しかなかった。一軒目のスーパーに戻れば…あるいは二軒目に戻れば…とも思った。後戻りが嫌いなのは人生に似ていると思ったりもする。これから先に希望を求めてしまうのだ。
 そして四軒目。一軒目と同じ系列店である。触ってみるとやっぱり少し柔らかい気がするが、既に一軒目で経験済みなので納得感がある。そしてここでやっと希望に近いサイズの大根に出会った気がした。一本毎に価格が違い100〜140円くらいの開きがある。100円の大根を選ぶと見事にねじ曲がっていた。まるでボクの根性みたいじゃないか。益々気に入って購入した。

 何かを求めてそれを追求することは無駄も多いし、結果オーライとも限らない。キノコ採りや山菜採りに似ているかもしれない。それがスキだしそうせずにいられないのだ。

 最終的に立ち寄った最寄りのスーパーはそれなりに混んでいた。目的は達成しているので夕飯のことを考えながらいつものレジに並ぶと自動清算のレジが突然トラブった。あろうことかおつりが少なくなるように暗算して出した端数のある支払いが仇となって「え?おつりいくらだっけ?」となってしまった。肝心の計算はレジに任せてしまっていたのだ。どうやら硬貨の通り道にたまたまゴミが引っかかっただけのようだ。顔なじみの店員さんなのだが思いがけないことでお互いに笑ってしまう。賢いふりして端数のある支払いをすると思いがけないトラブルに対応出来ないことが解った(笑)


腕立て伏せ:110回

循環

 朝、燃やせるゴミを出そうと外に出ると雪がドンドン降っていた。年末に出しそびれてゴミと年越しするのは毎年恒例のようになっているので今年は回避したかった。ただ、プラスチックゴミは大袋なので容量がまだ残っているため年越しとなってしまった。こういう時のために小袋も用意しておいた方がいいのかも知れない。ただ、またゴミ袋が値上げになるらしく、あまり使わない不燃物やペットボトル用の袋のように無駄になってしまう気がするので余分に持ちたくないという部分もある。それにしてもゴミ袋はこれからまだ値上がりするのだろうか。生ゴミなどはガスを発生させることも出来るのに燃料や肥料になるものにわざわざお金を払って燃やして大気を汚していることになる。経済活動で流通しているものの社会的デザインを考え直すべきではないのだろうか。

 今年も残す所あと2日だという実感が湧かずにいたのだが、スーパーの産直コーナーで地物の大根の入荷予定があるかと訊ねた所、今年の入荷はもうないと言われて年末を感じた。
 意外なことに年末になってやっと作画の調子が出て来ている感じだ。相変わらず失敗を量産しているものの収集がつかなくなることが少なくなっている。描く時に主観的な心理状態を客観的な心理状態に切り換えるとわずかにペン先が安定する。悲しいかな近い所が見えにくくなっているので意地を張らずにシニアグラスを装着すればさらにコントロールが効くようになるだろうか。
 鉛筆で下描き、ペン入れ、薄墨で着色、スキャニング、デジタルで彩色、コマに配置。
 1カット毎に同じ手順が必要になる。アナログでペン入れしているので、修正が必要になったら最初からやり直しである。
 昨日描いていたカットがいい感じになったので使おうと思ったら手にコーヒーを持たせてしまったことでストーリーに影響してしまうことに気がついた。ボツにして描き直すかストーリーを修正するか思案中である。ストーリーの方が弱いと感じていたのでコーヒーで話が膨らませられるならその方がいいかも知れないと思ったのだ。それに同じポーズで描き直そうとしても微妙に違ってしまうので、最初に描いた勢いのある絵が描き直すと若干固くなったりする。躍動感のあるイキイキしたキャラクターが描きたい。

 この時期に調子が悪くないのは欲張ってないからかも知れないとふと思った。コツを掴むまで焦らず欲張らずに取り組むことが大切なのかも知れない。
 試行錯誤は続いている。


腕立て伏せ:110回

2015年12月29日火曜日

白旗人生

 完敗である。朝からすごい作品を読んでしまい敗北感に打ちひしがれた。競争がキライなのは勝てないことが解っているからだ。
 カメはどうしてウサギと走る勝負なんかしたんだ?泳ぎで勝負すればいいじゃないか。相手の土俵で勝負することに何の意味があるんだろう。



 言うまでもなく「ウサギとカメ」は寓話である。諦めずに頑張れば、思いもよらない勝利が待っていると大切なメッセージがあることを忘れてはならない。ただ、一方でこの競争心理と不断の努力を利用している場面にしばしば遭遇する。勝っても負けても恨みっこなして全体がお祭りのように楽しめる素晴らしいものもあれば、受験戦争のようにプライドを打ち砕き人生を左右しかねない残酷なものもある。競争に乗じて参加料や講習料などを徴収することを目的にしている場合もある。ウサギとカメの他に登場人物がいるのだ。競争そのものが良くないというより参加すべきか慎重に検討すべきということだろう。そして、勝利することはゴールではなく新しい始まりになることも覚えておくべきだろう。 

 実力があれば無闇に競う必要もない。才能に酔わなければ道を外れることもない。それでも人は何故か競いたがる。ボク自身も競争に身を投じたり、優劣を判断して生きている。負けを認めることは相手の尊敬にも通じるからボクは尊敬する人が多いのではないだろうか。言ってみれば、ボクは誰かを尊敬した瞬間に敗北を認めることになる。負けてばかりの白旗人生だ。もうイヤだ。負けたくない。たぶん心の底ではずっとそう思っている。そんな負けず嫌いなのに子供の頃から勝って嬉しかったと言う成功体験の記憶があまりない。何かも間違いでそんな立場になると嫌がらせをされたり無用な責任を押しつけられたりという不愉快な記憶ばかりが残っている。負け続けるのは勝ちたがらないボク自身にも問題があるのだろう。
 白旗人生も悪いことばかりじゃない。それだけ学ぶことも多いということだ。周りは先生ばかりということになる。
 わかっている。だからボクはボクの道を探して歩くしかないのだ。

***

年末年始になるので午後からコピー用紙を仕入れに出かけた。田んぼの向こうを雪雲が移動して行く。冬将軍の先発隊か。山は雪化粧。自転車で走れるのはあとどれくらいだろう。米も買っておきたい所だけど、年内はなんとか持ちそうだから年明けで間に合うだろう。
 帰宅して空腹だったので簡単にお好み焼きを作った食べた。
 夕方になってやっと机に向かったが、調子が良い日の翌日は描くのが少しコワい。案の定、3枚の下絵のうち1枚をダメにした。ペン入れしてからデッサンが狂っていることに気がついたのだ。1枚ペン入れして1枚は下絵のままスキャニング。彩色してイラレで配置。昨日の構成とは別物になってしまった。
 毎度のことだが、ファッションには疎いのでヒロインのファッションで悩んだ。

 腕立て伏せ:110回



2015年12月27日日曜日

彫る・削る・練る・磨く

 朝起きると雪が降っていた。薄曇りの空には青空が透けていて細かい雪がちらついてる。昨夜は風が強かった。そして風の唸り声に怯えた子供の頃を思い出していた。いい大人になってもやっぱり恐い。人ではない何か大きなモノの咆哮のようだ。この土地を遠く離れて暮らしていた頃は懐かしく思えていたのが不思議である。今は少なからず漫画のインスピレーションになっているかもしれない。

 キャラクターをイメージする行為は、一見何もない空間、真っ白な紙の上にずっと以前から存在し埋もれていたものを彫り出すことに似ている。油彩で言うところの荒描きである。何度も描くことで細部まで削り出され、どの角度から見ることの出来るキャラクターの脳内モデルになる。ポーズをつけたり表情をつけることでキャラクターを練る。「紙の無駄」と思いつつ何度も何度も描き直す。何度も描いて来たからこそ、ある程度パターン化しているのでお決まりのキャラクターになりがちだ。描き分けが出来なくては幅が狭くなる。そして磨きの工程。今はそこが最終段階の仕上げのような気がしているが、そこに辿りついたらまた次の段階が見えてくるのだろうか。

 年末年始の準備もあって買い物に出ると町の上空がぽっかりと青空になっていて周囲がぐるりと雪雲のようだった。空気はキリリと冷えている。スーパーで買い物するわずかな間に青空は雪雲に覆い隠され雪が降り始めた。
 それにしても昨日あたりから作画が妙に調子がいい。買い物のために外出しているどころではない感じだ。このまま調子を維持出来れば申し分ないが、そうは問屋が卸さないだろう。描けるうちに描くしかない。コピー用紙の買い置きが無くなりかけているので…また買い物かぁ。気分転換が必要とは言え調子のいい時は可能な限り描いて力をつけたい。


 腕立て伏せ:104回

雑念

 毎日、生活していれば様々に雑念が浮かんでは消える。どうしても悩まなくてはならないことよりはどうでも良いことが集中の邪魔をする。漫画を描くのにどうしてそんなに集中力が必要なのかと不思議に思う人もあるだろう。漫画とは言っても様々なので楽しんで描いている方もあるかもしれない。ボクの場合はまだまだ未熟者ということだ。
 ボクは描く時にあまり資料を見ることはない。もしかしたら知識のないものを描かないように迂回している可能性もあるが、物語を描きつつ必要なものがあれば持っている知識や想像力で補うことが多い。どうしても解らない場合だけそこから資料探しとなるわけだ。デッサンのためのポーズ集は持っているもののほとんど見る機会がない。どれだけたくさんのポーズが掲載されていても描きたいポーズがなければあまり参考にならないし、あればあったで自由が利かなくなってしまう。重要なのは脳内に人体モデルを持つことだと思う。脳内で360°回転させたりポーズを変えてみたりする。調子が良いと苦もなく浮かぶイメージが、集中力が足りないと糸の切れた操り人形のような不自然なポーズになる。良いと思って描いていても時間を置いて見返すとギクシャクしていたりすることもある。ポーズのイメージには写真を仕事にしていた頃の経験やデッサン教室に通っていた頃の経験が基礎になっている。いずれも充分な修行を積まず中途半端になっていることが悔やまれる。ここから先は今またひとつずつ積み上げて行かなくてはならない。
 物語がオリジナルであれば、背景も独自のものが必要になるだろう。ただ、克明である必要はないような気がしている。写真では背景をぼかすことで空気感や雰囲気を表現することが出来る。その手法は漫画にも通じるだろう。世界観の設定として克明な描写が必要であっても漫画の中でそのまま使用する必要はない。
 脳内の人体モデルにキャラクターを重ねて表情をつける。自然なポーズ、自然な表情、当たり前のような世界観の中に物語を展開するのだ。キャラがまだ安定していないことが悩みの種にはなっている。むしろ同じキャラを描いてしまうと広がりが無くなったとしまうようで自分自身が楽しめない気がしてしまうのだ。

 今日は、少しずつ描いていたイラストから作品に展開してみた。人物だけでイメージを描いて思ったより描けたのでスキャニングしてイラレでコマ割りし配置してみると5ページほどになった。台詞を配置して全体を見ると足りないコマが見えてくる。本来ならネームから展開すべきなので新しい試みかもしれない。
 冷静に眺めながら「これって面白いか?」と疑念が湧く。流れはあっても奥行きも広がりが足りない。絵も描き直さなくてはならないだろう。またボツかな…。

 若い頃もいろいろ悩みはあったが、制約のある中での悩みだった気がする。集中力がそれを凌駕していたのかもしれない。今は制約が少ない中で色々と考える。それが雑念になるのだろうか。
 そもそも漫画を描くということは、考えることがたくさんありすぎて雑念で出来ているような気もする。

 あ、牛乳買ってくるのを忘れてた。

 腕立て伏せ:105回

2015年12月25日金曜日

創造と共鳴

 最近、映画を観に行く機会がめっきり無くなった。創作活動をしていながら感動する機会が少ないと言うのは褒められたものではない気がする。そのうちテレビで見られるだろうと思っているからだが、そのまま忘れてしまうこともあるから感動の機会を逃していることに他ならない。もう少し感動に対してどん欲になるべきなんだろうか。映画などのストーリー性のある作品は漫画と共通点もあるので影響を受ける懸念もあるとは言え、感動そのものの機会が少ないコトによる弊害はないのだろうか。
 そもそも感動するということは、どういうことなんだろう。
 一言に感動と言ってもその中に秘められている意味はひとつではない。だから受け取るメッセージもひとつではない。ある人が感動したことに他のある人は感動しないということもある。素晴らしい作品に触れると感動することは共鳴なのかもしれない。多くの人が感動するということは、それだけ多くの人と共鳴する響きを持っているのかもしれない。
 共鳴は創作意欲を呼び覚ます。スランプだからと言って腕立て伏せをしてみたり近所を散策したりして刺激になることを模索しているが、入場料を払って感動を確かめることも必要なのではないだろうか。ただし、そこに感動があるかどうかは受け手の問題もある。どれだけ話題になっていようとも受け手がどういう印象を受け取るかによって意義が変わってしまうのだ。一種の賭けとも言えるだろう。その結果如何が創作意欲を左右してしまうような賭けをするは正直なところ勇気が必要だ。

 今日は昨日より少しだけ漫画を描く感覚が強くなった気がした。鉛筆やペンを握って紙に描くより前に微かながら脳内にイメージを描くことが出来た。以前なら当たり前に出来ていたことを今また自分のものとして取り戻そうとしている感覚だ。ただ取り戻すのではない。一度バラバラになってしまった感覚を新しいもの取り込んで組み立て直すのだ。

 ボクは画力というクリスマスプレゼントを受け取ったのだろうか。

 腕立て伏せ:109回

2015年12月24日木曜日

血が通う

 朝から脳内でオジさんキャラがダンスしていた。
 この1年、四苦八苦してきたけど、ようやくキャラに血が通い始めたのだろうか。基本的にイラストは1点で完結させるため肖像画のような捉え方でも良いと思う。




 しかし、漫画はコマからコマへの物語や動きの継続性が必要だ。脳内でキャラがダンスをするというのは、継続的な動作を把握するのに重要とも言える。静止画でしかイメージ出来なかったキャラに血が通い始めたと考えていいだろうか。ダンスはまだまだぎこちなく、コマ送りのような動きだ。それはもしかしたらボク自身の脳内ダンスなのかもしれない。

 クリスマスだからといってとりたてていつもと違うコトはない。いつものように日常を過ごしいつものように机に向かう。いつもと少し違うのは作画の際に顎の位置を意識的に描いてみた。漫画と言ってもギャグタッチからリアルなタッチまで幅がある。話の流れのに中で適宜描き分けられればベストだが、最初からそんな風に描き分けられたら苦労はない。顎を意識的に描くことで顔に締まりが出るような気がした。ただ…こんなことで手こずってたかな?という素朴な疑問は払拭出来ない。
 ダンスするオジさんの脳内イメージを描き出すことはまだウマく行かなかった。それでもシワとかたるみとか目の窪みによって年齢を表現することが楽しく線に愛着を感じるのは意外な発見だった。少しずつキャラに血が通って行くような感覚は嬉しい。

 腕立て伏せ:110回

2015年12月23日水曜日

来し方

 普段からこれまで辿って来た道を振り返ることが少なくないのは、現状に満足していないからだろう。しかし、いくら振り返ったところでどこで何を間違ったのか答えは見出せない。むしろ必要だから間違ったのかも知れないとすら思える。少し前に「勝ち組」「負け組」という言葉が流行ったが、少し考えればそんな単純でないことは明白だろう。
 たしかに他にも道はあったかも知れない。けれど、分岐点であってもなくても正解を考え続けて来たから、当時のボクにそれ以上の選択肢はなかっただろう。理解されなくても共感が得られなくても自分のことは二の次にして来たつもりだしそのことを後悔しているつもりもない。ただ、そのツケがたまってしまった。「本当は何がしたいのか」という大切なことを見失っていたのだ。

 高校を卒業する頃、級友のひとりがボクの席まで来て内緒話をするように言った。
「漫画家を志すなら(キミが)選択した進路は正解だと思う。」
 あれから何度も転職して社会に揉まれているうちに彼の言葉は淡く霞んで行くようだった。1ページどころか1コマすら満足に描けなかったボクは、漫画よりイラストや絵画のように1枚で完結する絵を描けるようになることが当面の目標になっていった。無論、それも容易ならざるコト。

 何よりも続けることは難しい。しかし、続けることによって得られるものがあることを教わったのは、工場派遣の仕事だったかも知れない。描くことにもデザインすることにも自信を失くし、生活するために敬遠していた生産ラインでの作業に従事した。現場は予想に反し職人的で人間臭かった。もっとも、現場を離れて時間が経ってやっとそう思えるだけであって当時はそんな余裕もなく、ひたすら交替勤務のために体調の調整に苦慮し人間関係に苦悶していた。経験した人には解るかも知れないが、経験したことがないと想像すら難しい世界だった。そんな現場に一ヶ月、半年、一年と身を置いているうちに出来なかったはずのことが出来るようになり、真面目に取り組んでいれば不器用なボクでも少しずつ信頼されるようになっていたのではないかと思う。
「やればできる」ことの中には「続ければ出来るようになる」こともあるのではないだろうか。三日や一週間で姿を見せなくなる人もいた。そんな短期間でも決断出来ることが羨ましいと思ったこともある。けれど、やってみなくちゃ解らないこと。そして続けてみなくちゃ解らないことがある。

 1年半前、ボクはまだ準備不足だった。そして漫画をメインでやって行こうとも思っていなかった。1ヶ月、3ヶ月、半年…時間を過ごすうちに本当にやりたかったことを思い出したのかもしれない。ボクにとって漫画は奥の手だった。奥にしまい込んでカビ臭くなっていた。するとある人に言われた。
「奥の手?最初っからそれしかなかったんでしょ?」
 そう。それも解っていた。ただ…方向性に迷いながら遠回りしてきたのだ。

 日本は職業選択の自由が認められているらしい。しかし、その実態はどうなんだろう。本当の意味で自由だろうか。サポート体制はどうなんだろう。競争の中で涙を呑む人がどれくらいいるだろう。終身雇用制度など実質的に崩壊してしまっているだろう。いつまでも自由主義社会は自己責任社会と断じていていいのだろうか。人が余っているなら足りない所へ回せばいいなんて言う安直な発想に振り回されて将来の夢や希望を描けるだろうか。

 2015年。細々とながら漫画を続けて来た。楽しさよりも難しさの方を学んでいるような気がする。そしてたぶん…本当の厳しさをボクはまだ知らない。

腕立て伏せ:110回

2015年12月22日火曜日

空間を描く

 今の漫画の描き方は、キャラクターを描いてから背景を描くことが多い。背景を描く際にキャラクターの部分だけ空白にしておくことが難しいので背景だけを描く場合もある。背景を先に描いてしまうと細部にこだわりたくなってしまうのでなかなか先へ進めなくなってしまうのだ。今はデジタルで合成することが可能なので背景とキャラクターを別々に描いて合成することも可能だ。ただ、分けて描くとさらに時間が必要となる。

 写真を始めたのは18歳の頃。それまでも母のカメラを借りて写真を撮っていたものの、OLYMPUS PENというコンパクトカメラだった。近年デジタルで復刻されたが、当時のOLYMPUS PENはハーフサイズカメラと言って24枚撮りのフィルムで48枚撮れることが魅力のひとつだった。プリント代は嵩んでしまうもののフィルム代は節約出来る。この発想はデジタルカメラのセンサーサイズの違いにも通じるかもしれない。ハーフサイズカメラを使っていたことで比較的気軽に写真を撮ることに親しむことは出来たが、やはり露出やピントや構図に気を配って撮影するのには物足りなかった。それは仕事として写真に関わることになれば必須項目だった。写真に親しむことは構図を考えて画面作りをするという点で絵画やイラスト、そして漫画と通じるものがある。直接関わることは出来なかったが、学校関係の卒業アルバムの制作は物語を紡いでコマ割りするという点で漫画にも通じる。当時はレイアウト用の台紙にプレントを貼付け、拡大率の指示など書き込んでいたようだ。その工程は後年になって関わることになるDTPにも密接な関係があるということに当時は想像だにしなかった。

 そんな写真との関わりの中で「空間を撮る」ことに関心が向くようになった。写真の場合は撮影する対象、漫画の場合は描く対象があって絵作りをするのが常であるが、具体的な対象のない空間を撮りたいと思うのだ。


 技術的には「構図の取り方」の問題ではないかと思う。しかし、何もない空間を撮影する時に必要となるのは「何を撮りたいか」なのである。具体的な何かを撮る時より強く意識する必要があるかも知れない。撮りたいものがある場合は少なからず撮影対象に依存している。しかし、具体的な撮影対象がない場合は依存することが出来ないのだ。

 この考え方は漫画を描く場合にも深く関係していると思う。真っ白な紙を前にして何ものにも依存出来ない所から始めなければならない。しかし、キャラクターや背景という対象を描くうちにいつの間にか何を描きたかったかを見失ってしまうのだ。どれだけ緻密に描いた絵でも画像処理でピンぼけの表現をするなどの勇気が必要なんだと思う。
 キャラクターや背景を描きつつも目指したいのは何もない空間を描く境地なのだ。

***

 年齢的に50〜60代くらいの世代をカッコ良く描くことが難しいような気がする。何度も描き直しては行き詰ってしまう。やっと少し掴みかけたのでスキャニングして彩色。もう少し肌に艶をのせた方が良かったと反省。お酒を飲む機会の多い幹部社員の設定であれば、赤味を強くした方が良かっただろう。光源も不規則になってしまった。スキャニングデータを諧調に分けて重ねる際にざらつきが生じる。彩色の際に上から色をのせることである程度抑えることができるが、そうすると逆に質感が固くなってしまうのだ。今後の課題は少なくない。



 腕立て伏せ:108回

逆境


 意外に鉛筆もペンも筆も走る日だった。夕方になって描けた絵を見返したら思ったより面白くない、つまらない絵になっている印象に少し落胆した。思い違いだったということだろうか。それともまだ本調子ではないと言うことか。
 完成と思えるものはなかったが、制作中の5〜6点の絵をスキャニングしてみた。漫画のカット用に描いていたモノはトリミングして配置してみるためだ。アタリを取るとでも言おうか。配置してみて気に入らない場合もあるが、他のコマとのバランスが新しい効果を生み出すこともある。カラーで制作しているので彩色の過程で色のバランスをチェックする必要もある。
 スキャニングした中から1点に彩色してみた。絵が先だったかも知れないが、彼は軽薄なダークサイド。言ってみれば、鋭い洞察力を持った皮肉屋という役回りである。一歩離れた所から斜に構えて世の中を見ている。彼が本気になった所を見てみたいと思わせる存在にしてみたかった。
 元々考えていた台詞はもっと長かった。
「逆境を生かすも殺すも自分次第なんて言うでしょ?でも、活かし方が解るなら逆境とは言わねんじゃね?」
 逆境に直面して落ちこむ人に訳知り顔で諭す言葉をチクリと皮肉る一言。この台詞から彼を諭す人物や或いは誰かを諭す人物などの設定が想像出来る。街角なのか職場なのか、駅のホームなのか…場所によって展開にも様々な意味が生じる。それを手がけてしまうとまた横道に逸れて頓挫しかねないので1コマの断片漫画とした。台詞を短くして設定をより自由にすることで起承転結を見る人の想像力に委ねることとした。彼は周囲の誰かでもいいし、自分自身でもいい。或いは心の中のダークサイドの存在でもいいのだ。



 描きながら短くなった彼の台詞が意味する所について思った。
「活かし方が解るなら逆境とは言わない。」
 つまり逆境そのものが障害ではなく、解決方法が解らないことが逆境を生んでいることに思い至ることが出来れば、無闇に落ち込んでいるより前向きに解決方法を模索した方が良い場合だってあると言うことになる。
 もちろん、逆境と感じられる局面も様々あるので一概に解決への道筋にはならないかも知れないが、もし行動を起こすきっかけになれるなら、皮肉屋の彼の大きな存在意義になるだろう。

 腕立て伏せ:100回

2015年12月21日月曜日

雪待ち

 朝は雲が多かった気がするが、いつのまにか晴れていたらしい。気温は下がっているものの雪はまだ麓まで下りて来ていない。
 午後になって机に向かうもイメージが先行していないので思うままに鉛筆とペンと筆を走らせる。西陽が射して来たので晴れていることに気がついた。ショッピングモールでも散策しようと思い自転車を出した。冬至が近いこともあって日没が早い。自宅を出たら夕陽が沈む所だった。



 ファンヒーターのスイッチを切ったかどうか心配になって一旦自宅へ戻ろうとしたら電線に鳥がいた。自転車を停めるとこちらを見下ろしている。ワシとかタカとかトンビのような猛禽類。寒いからか身体がこんもりしてフクロウのような雰囲気もある。写真が撮れるだろうかとちょっと目を離している間に音もなく飛び去ってしまったようだ。
 食品売り場は人で溢れていてレジも混み合ってるようだった。冬至に小豆とカボチャの煮物を食べる習慣があるのでカボチャが売り出しになっている。

写真は以前に調理したもの

 ボクは何を好んで人の多い時間に人の多い所に出かけているのだろうと思いつつ、行き交う人を眺めていると人間の存在の不思議さを感じる。30分程度の散歩をしてまた自転車に乗った。もう辺りはすっかり暗くなっている。

 スーパー二軒を梯子して夕飯はおでんにすることにした。おでんとカレーと鍋でやりくりしている気がするほど頻度が高い。

 雪のない12月が暮れて行く。

 腕立て伏せ:105回

2015年12月20日日曜日

 現在の様々なWebサービスを見ていると、巨大な知の集合体が樹のように成長して行こうとしているようなイメージが湧く。

 たとえば、SNSやサイト、そしてブログに至るまで言葉やイメージ、音楽などの知を吸い上げて成長している。発信者は自らの経験や知識を提供し、受信者は膨大な情報の中から必要な情報を抽出することで成立する。インターネット普及前であれば、書籍や新聞、テレビやラジオなどから情報を受け取っていただろう。限られた情報を不特定多数が受け取っていたことになる。この構図こそが著名人を輩出してきたのではないだろうか。この構図は現代も未だ成立してはいるが、インターネット上では不特定多数と不特定多数が情報を共有する構図になっている。そして共有された情報が知の集合体となる。必要な時に必要な情報を取り出すことが可能になっていることは間違いないだろう。朝刊の配達を待つ必要もなければ、放送時間を待つ必要もない。

 そんなネット社会の中で技術やセンスを活かして収入に繋げようと言うのが、ストックフォトやクラウドソーシングの動きである。そこには写真やイラスト、デザインやコビーライトなど集積している。必要になったら膨大な作品の中から希望に近いものを選択したり依頼したりすれば良いのだ。無償で発信する場合と違って、作品を提供する側は厳しい現実に直面する。限られた人しか手に出来なかったツールを多くの人が手に取っているため、むしろ競争率が高くなっている場合もあるだろう。技術やセンスを駆使し時間を掛けて制作しても採用されなければ徒労に終わってしまう。それはネット社会で生計を立てる難しさの現れであると言えるだろう。

 知は現実社会からネットへと向かっているにも拘らず、ネットの中での循環が成立しなければ大きくの人が行き場を失くすことになるのではないだろうか。

 巨大な知の集合体の樹はどこまで成長するだろう。もしかしたら無限に成長するものではないのかも知れない。あらゆる知識が共有され飽和し臨界点に達した時、「知」という栄養を必要とするだろうか。
 それでも人間は必要だろうか。

***

 とりとめもなく作画。50代くらいの男性を描こうとして何度も行き詰る。水面の表情の描き方を模索。

 夜、相変わらずデータベースソフトに手こずる。

 腕立て伏せ:103回

2015年12月19日土曜日

山に雪

 雪の予報が出ているはずだが、朝起きてみたら陽が射していた。買い物の予定があるので自転車で走るには都合がいい。

 所用を済ませつつ自転車を走らせていると、気になっていた事務所の前に男性がいた。思わず声をかけてみる。その事務所は知的財産に関わる事務所で相談無料となっていたが、四方山話程度で入るのも申し訳ないと思い気後れしていたのだった。
 その男性は紳士的で物腰かな印象だったので声をかけやすかった。立ち話で色々とお話を伺うと、特許や商標に関わる申請を代行してくれるとのこと。実際の申請手続きは東京の本社で行うので受付窓口業務ということだった。地方ということもあって特許に関する申請はあまりないようだが、デザイン関係でシンボルマークやロゴデザインを手がけるのであれば、相談窓口があるというのは心強い。飽くまでも申請手続きと相談ということのようだが、デザインや設計関連と連携して開発まで手がけるのは難しいことなんだろうか。高度な知識や経験を必要とする業務に対応するため専門性が高まった結果、周辺技術や業界との連携が難しくなっているのかも知れない。
 しばらく走ると店先にMacを並べているのが目に入った…でも、看板がない。電光掲示板には「…パソコン修理…」の字が読み取れたので中の人に声をかけてみる。あいにく担当者が不在とのことだったが、パソコン修理を請けていてMacでも大丈夫とのこと。サイトの制作と写真の撮影も請けているという。聞き捨てならないとばかりにお話を伺った。店舗スペースを二人でシェアしているらしくそれぞれに専門分野が分かれているとのこと。写真撮影もスタジオ撮影ではないそうで写真スタジオ特有のストロボや背景セットも見当たらない。代わりパソコン周辺機器を充実させているご様子だった。身近で活動する若きクリエイターの存在は心強い。また立ち寄ることにして店を後にした。
 ほんの30分か1時間程度の出来事だったと思う。大型のショッピングモールが出来たので通る機会が以前より少なくなった駅前通り。なかなか定着することも難しいことかも知れないが、挑戦している人がいると言うことが何だか嬉しかった。
 常々、地方への企業誘致には疑問を持っていた。人口流出に一定の効果はあるかもしれないが、昼夜交替の工場勤務は社会との繋がりを断ち切り生活や暮らしを破壊しているのではないか。下請けに徹する企業が多いため開発等の知的財産に関する相談も少ないらしい。地域資源の有効活用のアイディアはどこも似たり寄ったりとすれば、集客競争は楽なコトではない。地方が地方の文化習慣の中で豊かに暮らす方法は何かないのだろうか。

 住宅地を走っていると書店が閉店していた。最近は書店も大型化しているが、その店は昔ながらのこじんまりした佇まいだった。見慣れたはずの風景はこんな風に少しずつ変わって行くのだろう。
 別の書店に立ち寄ってみると書籍の配置換えをしてあるようだった。定期的に購読している本はないので気になるコーナーを見て回る。内容もデザインもその道に精通した方々が手がけているはずなのに物足りなく感じてしまうのは何故だろう。手に取ってみたい本があまりないように感じるのはインターネットのせいだろうか。圧倒的な選択肢の違いを感じてしまうのだ。書籍は著作者や出版社はもちろんのこと印刷会社や書店、流通関係者を含む業界が生計を立てるためのものである。ジャンル別の分類を眺めていたら、そんな当たり前のこと改めて実感した。それはおそらくインターネットと比較して考えたからだろう。書店ならでは、書籍ならではのものももちろんあるだろう。けれど、同様の内容がインターネットで無償提供されているものもあるだろう。知識から知識へ越境することも容易である。
 IT革命の頃、大きな影響を受けた業界や企業…個人があったと思う。その余波はまだ鎮まったわけではない。そればかりか新たにビッグデータや人工知能が胎動している。知の集合体が脅威となるのか頼もしい味方になるのかまだ見えていないのだ。

 様々に想いを巡らせながら自転車を走らせる。山には雪が降っているようだった。

 描き進めていたイラストをスキャニングしてデジタル彩色。
 原画は墨とインクのモノクロ。デジタル彩色によって水彩調の表現。
 原画がアナログなので気に入らない所があれば、デジタルでの修正も可能とは言え心情的にはボツにするか最初から描き直したくなる。


腕立て伏せ:108回

2015年12月18日金曜日

2年目のジンクス

「2年目のジンクス」なんて言葉を聞くことがある。生活でも仕事でも1年目の好調期の後に訪れる不調の谷。個人的には中学2年につまずいて歯車が狂った記憶がある。思い込みの類かも知れないが、仕事にしてもその時期を乗り越えられるか否かによって大きなスランプとなり立ち直れないほどの谷間となる危険性をはらんでいる気がしている。勢いでなんとかなった1年目とは違い2年目は慣れによる気持ちの弛みや迷いが生じる時期なのではないだろうか。
 これまで何度も転職を経験しているので2年目については用心しているつもりではあるが、最近の状態を省みると意に反してどっぷりと谷間に落ち込んでいるのではないだろうかという気さえする。しかし、歩みを止めたり軌道修正して新しいことを始めたとしてもやがて2年目はやって来るのだ。

 今年は漫画やイラストを中心に創作活動を始めて2年目だ。その前の1年間もフリーでの活動をしていたと考えれば3年目となるわけだが、この2年とその前1年では気持ちの持ち方に歴然とした違いがある。同じフリーとは言っても仕事を依頼されて初めて仕事になるのと絶えず創作物を発表し続けて行くのとでは大きな違いがあるような気がする。言ってみればパッシブ(受動)とアクティブ(能動)の違いである。
 受動的であれば、闇雲に作品を制作する必要はないが、どんな依頼にも対応すべく常に技術を磨き知識を蓄積する必要があるだろう。そしてどんな依頼に対応出来るか発信して行く必要がある。デザインやイラストの著作権(財産権)も譲渡が前提になっていることも多いだろう。制作物については発注者の意図が鍵を握っているが、制作者が責任を問われることもあるという側面が否定出来ない。しかし、高い技術でオーダーメイドの制作物が出来るという大きなメリットがある。
 能動的である場合、基本的には何をどう表現するか制作者の意志によるが、仕事として取り組んでいる場合は需要を模索する必要もあるだろう。世の中の期待をあらかじめ把握している人などそんなに多くはないだろうし、むしろ社会の風潮に満足出来ないからこそ創作活動をしているのかも知れない。世の中にないものを生み出して是非を問う行為は矛盾を秘めているのだ。創作物の命運は制作者が鍵を握っているため著作権を堅持する必要があるだろう。


  noteのもくじを少しメンテナンス。いつかやろうと思っていたが、先送りになっていた。トップのバナーも時々差し替えた方がいいのかも知れない。今回はカテゴリ別のタイトル画像を追加。



 夜になってデータベースソフトと格闘。原因不明のクラッシュに悩まされたが、どうやらテキストや数字の属性や文字数に厳格であるため例外が紛れているとクラッシュするらしい。

 腕立て伏せ:105回

2015年12月17日木曜日

足踏み

 相変わらず調子が出ないので散歩に出ようと思ったら朝からの雨がまだ残っていて足踏み。
 下絵が描ける時にはとにかく描いて後日改めてペン入れや墨入れをするのだが、調子かが出ない時にはこれまでの下絵がもれなく駄作に見えてしまい活かし方が見えなくなる。そんな状態でペン入れや墨入れしようものならせっかくの下絵が台無しになってしまうばかりか改めて新しい下絵を描いてもデッサンが狂ってしまいバランスもとれない。要するに描かない方がいいのだろう。

…そんなことを書いているうちに雨は上がったらしい。

 一時は中止を考えていたが、意を決して自転車を出した。近所のショッピングモールで散歩である。平日とあって客もそんなに多くはない。自転車で走りながらもショッピングモールを歩きながらも想像力を遊ばせて様々にイメージほ広げる。あてのない回遊が適度な刺激になるのだ。
 珍しく衣料品の品定めしたりしつつ手ぶらで外に出るとまた雨が降り始めた。季節はもう雪になっても不思議ではない。夏の酷暑を思い出しつつ地球温暖化という言葉が脳裏をよぎる。

 自転車と徒歩で身体を動かしたせいか夜になって頭が回転し始めたので時々使ってみているデータベースソフトを起動した。そして、よく解らないまま頓挫していた原因を解明。少し気が楽になった。

 雨の日も風の日も、まして嵐や吹雪の最中にあっては進むことも容易なことではない。立ち止まる判断と勇気も必要なことがあるのだと自分に言い聞かせる。
 雨が止んだら、風が凪いだら、また一歩を踏み出せるよう準備だけは怠らぬよう過ごしたいものだ。明日はまた一歩を踏み出せるだろうか。

2015年12月15日火曜日

花より団子

 花より団子…花の美しさを愛でることを差し置いて食欲に走るさまが微笑ましくもある一方で美や趣を意に解さないことを揶揄している。

 日本は文明開化と戦争、そして高度成長期とバブル経済の崩壊を経て、美より機能性を優先するようになってしまったのだろうか。言うなれば花より団子社会である。もっとも、江戸時代以前の文化や習慣に関しては残された文化的遺産から憶測するしかない。もしかするとずっと以前からそういう精神性だったのだろうか。

「芸術品じゃないんだから、こだわる必要はない。」
 その台詞は職場でも何度か耳にした。あまり時間を掛けるなというよりまるで丁寧な仕事は悪であるかのようだった。しかし、誰かのその場凌ぎの仕事の修正や変更の仕事を回されたりすると必要以上に時間がかかることになり、またも「芸術品じゃないんだから…」となるわけだ。その度に「本当にそうなのだろうか。」と疑問を感じて来た。そう言ってしまえば、まるで免罪符のように美しくないことを見逃してもらえるような錯覚に陥る。
 見た目より中身が大切…確かにそうだと思う一方で何かが欠落してしまう感じが残る。

 庭木や庭石から表情を読み取って美を見出して来た文化は機能や性能はもちろんのこと見た目にもこだわって来たのではなかったろうか。豆腐にだって裏表があり、寿司にも和菓子にも美学があると聞いている。味はもちろんのこと見た目にも気を配ること…それが和食らしさではなかったか。

 芸術品でないからこそ見た目にもこだわらなくてはならないのではないかとさえ思う。そこをないがしろにするからビジネスはデザインを活かせずデザインは萎縮するのではないだろうか。


 表裏一体。
 機能と美が両立してこその高品質ではないだろうかと思う。

***

 今日は著しく調子が悪い日だった。
 どれくらい調子が悪いかと言うと、この記事用に描こうとした一点のイラストが描けない。買い物に行くのも忘れて夕方まで頭を掻きむしりながら机に向かうも敢え無く断念。珍しいことではなくなったがやはり楽しくはない。午後になって日課の腕立て伏せをした。机に向かう前の100回をメニューにしていたが、午後の方が調子が良いようなので今日は午後になって110回…もしかして机に向かう前の方が作画の調子は良いのかも知れない。もともと作画のコンディションを上げるために始めたことなのにいつの間にか回数に気を取られるようになっていた。明日は午前に戻してみよう。

2015年12月14日月曜日

まんがやさん

 日々、生きていれば様々な出来事に出会う。誰かにとって奇妙で不可思議なコトであっても本人にとってみれば取るに足りないありきたりの日常。つまりボクもそんな日々を過ごしている。

 5枚切りの食パンを切らしたので買い物に出ようと思ったが、生憎の雨…天気予報では夕方には上がるようだった。しばらくはグズグズしていたが、雨が上がるのを待っていれば時間は過ぎるばかりなので意を決して自宅を出た。既に小雨になっていたものの傘は必要だった。コンビニで電気や電話の料金を支払い、少し遠いスーパーへ向かう。5枚切りの食パンはそのスーパーにしかない。以前は6枚切りの食パンを3日毎に買いに出ていたが、5枚切りを一日1枚ずつにすれば、5日に1回の買い物で済む。もっとも、賞味期限が切れてしまうので工夫は必要になる。
 制作時間を確保するのが目的ではあったが、生鮮食料品等が順次なくなるので結局毎日買い物に出ることに変わりはない。それで若干の運動不足解消にもなるかもしれないし、少し遠いスーパーへの3時間の行程を近所のスーパーで済ませば30分程度に出来るので良しとすべきだろう。
 車があれば天候や荷物の量をあまり気にしなくて良いのにとは思うが必要経費や事故などのことを考えれば、自転車や徒歩で用が足せる生活なら不便を感じる必要もないのだろう。

 歩きながら想いは様々に広がる。自転車で走っていても車でドライブしていても同様な感覚になるが、それぞれに少しずつ違うのかもしれない。歩く速度や身体の動作は独特のリズムとなり脳を刺激する。運転中やサイクリング中のような危険を回避するための思考の中断は少ないだろう。

 意図せずとも目に映る田舎町特有の光景さえ思考の刺激になり得る。
 空き店舗を見ていたら、漫画や書籍を楽しんだりアイディアを持ち寄ってクラフトなどをする創作コミュニティスペースが出来ないかと空想した。販売をメインとせずに運営することは可能だろうか。漫画中心とした現在の活動で地域社会への貢献は可能だろうか。
 通りかかった家庭菜園に人がいた。一見キャベツのような、それでいて軸の長いあまり見覚えのない野菜を作っているご様子だったから声をかけた。
「その野菜は何ですか?」
「ん?これか?これはケールだ。だいぶ摘んでしまったけどな。」
 聞いたことはあったが、初めて見た気がする。お礼を言って別れる。
 こんな風にあちこちで見かける空き店舗や庭の家庭菜園が想像力の糧になるのだ。

 最近は、こんな入力と制作という出力がうまく噛み合っていないのがちょっとした悩みのタネでもある。そのせいか体調のコントロールも苦慮している。

 最初は勢いで何とかなっても、続けるためには様々な波の動きを捉え、出来るだけ力まずに流れを乗りこなすコトが必要なのかも知れない。

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...