2016年3月30日水曜日

融合

撮影:2009/03/31

 たった3ページほどを描くために随分苦労した気がする。そのお陰で3Dソフトを利用することに少しだけ慣れたが、3Dソフトを使おうが使うまいが物語の本筋にはあまり関係がない。3Dソフトで物語の舞台設計をすれば空間的な整合性を取ることは可能だ。しかし、その世界に依存してしまうと面白味がなくなるのではないだろうか。どうしても空白を埋めてしまいがちだが、想像したり余韻を愉しむためには空白やシンプルな背景の考慮する必要があるのかもしれない。
 兎にも角にも先行して描いてあったページに加筆修正してアップした。


 遠回りしたせいかタッチにズレがあるのが気になる。3Dソフトを使っている時に描いたカットは線が甘くなっているのではないだろうか。かなりの精神力を奪われていたのだろうか。また、以前は陰影を表現するための中間色に薄墨を使っていたはずだ。薄墨の使用にはメリットとデメリットがある。メリットとしては自然な陰影の表現が可能であること。デメリットとしては描き直しなどで消しきれなかった鉛筆の跡や汚れが残ってしまうということだ。綺麗な原稿に仕上げることは大切なことだが、四苦八苦して描いているとそれが容易なことではない。それでしばらく主線の作画以外に薄墨の使用は控えめにしていたのだ。
 理屈で考えれば、敢えて薄墨を使わずともデザイル彩色でクリアな陰影表現が可能なはずだった。しかし、改めて薄墨を使った作画と見比べてみると薄墨の方が全体に柔らかなイメージで空気感も再現できている気がする。薄墨を使用する際の筆使いが功を奏しているのだろう。何よりデジタル彩色も薄墨との親和性が高いということだ。これまでのモノトーンを前提とした印刷物の漫画では白から黒への明度のコントロールが重要だった。スクリーントーンは印刷物で薄墨の再現が難しいために発達してきたものと理解している。一方で高精細のデジタル彩色ではRGB全方位に気を配らなくてはならない。

 おそらくは今後もRGBのデジタルカラーの作画に取り組んでいくことになる。アナログとデジタルの融合について試行錯誤していく必要があるだろう。


◇腕立て伏せ
 1回目:91回
 2回目:106回

本物

 絵画ならもちろんのこと、工芸や陶芸など有名無名に関わらず出会った瞬間に「本物だ」と思うことがある。それはプロだとか専門家だとかいう基準を軽々と超えて心を鷲掴みにするのだ。どうすればそんな作品を生み出すことができるのだろう。切磋琢磨して研ぎ澄まされた刃のように輝やかせるにはどうすればいいのだろう。
 そもそも本物と感じるものはどういうものだろう。
 例えば、規格品と手製では手製の方に魅力を感じる。もちろん規格品が本物ではないという意味ではない。規格品は手仕事では成し得ない製品を作ることができる。しかし、手仕事は時として手仕事ならでは輝きを持つ作品となるのだ。

撮影:2010/03/30

 子供の頃に読んだ漫画には本物を感じる作品がたくさんあったような気がする。手仕事のはずなのに規格品かと思えような精緻な描写。シンプルな線でデザインされたキャラクター。3Dソフトなど考えもしない時代に漫画の物語の中には世界があった。
 それに比べて今のボクはどうだ。パソコンだの3Dソフトだのと文明の利器がありつつも世界は描けているだろうか。物語は描けているだろうか。

 昨日、散々悩んで漫画を1ページアップしたところだが、次ページに取りかかろうとしたら既に8割方出来ていることを思い出した。そう、このページから前のページを遡って描いていたから時間がかかったのだ。少し手を入れればアップできそうな気がしたが、本当にこれでいいのか少し時間を置いて見直すことにした。

 先日、八朔をモチーフにしたデザインをアップした後で追加しようと思っていた八朔丸ごとの写真と断面の写真を撮影。コンパクトデジタルカメラで白熱灯を使用して撮影。Macで色補正を施した。依頼されたわけではないので自由に制作したデザインを八朔を購入したスーパーに持って行ったらどんな顔をするだろうと思ったら少し楽しくなった。


 漫画の方は少し調整して明日アップできるのではないかと思う。
「本物だ」と言われるような作品を描けるような本物志向でありたい。

◇腕立て伏せ
 1回目:101回
 2回目:50回

2016年3月28日月曜日

関所

 今朝も晴れていたようだ。気温が上がるという予想は軽く躱されたようでひんやり感が漂う。
 制作中の漫画の構成を見直しつつ知恵を絞る。

撮影:2012/03/29

 手描きカット、3Dカットを少しずつ描き続け、ジグソーパズルのように組み合わせつつさらに悩む。どうにもまとまりがなくバラバラな感じが否めない。青年のカットが多すぎる気がして何点か省略しようと試みるも失敗。彼女のカットの色彩が明るすぎる気がするのも気になっていた。大幅にカット数を減らすことを考えていたはずなのにあえなく挫折。セリフの配置や言い回しに調整を加えつつ、思い立って背景をダークグレーにしてみた。すると浮きまくっていたコマが落ち着いたようだ。おそらく濃度の高いコマが多いので白い背景とのコントラストが高かったのだろう。こうなると逆に明るいトーンのコマが目立ってしまうのだが、アクセントとか視線誘導を考えれば、上手く利用するのが賢いのだろう。もっとも今は手探り状態だから結果論にすぎない。結局、せっかく取り組んでいた彼女の部屋の3Dカットは使える状態まで至っていないし、構成上ごちゃごちゃしてしまいそうなので背景はシンプルにした。車内のカットも制作したシートのヘッドレストはほとんどシルエット程度にしか見えていない。そういう使い方をする予定だったし背景が目立ってはいけないのだと思う。

 あれこれ試しているうちにもうこれ以上は無理という感覚になってきた。大幅にレイアウト変更するとかカットを描き直すとかすれば別の角度から見られるようになるかもしれない。それは新たに制作をやり直すことを意味する。だからと言って今より良くなるとも思えない。



 完成点というものをどう見極めるのかというのもポイントだ。締め切りがあるのなら悔いが残っていようとも他に試したいことがあろうとも締め切りが完成点となる。しかし、現在は与えられた締め切りというものがあるわけではないから、納得いかないという理由でいつまでも制作し続けることも可能である。それではキリがない。締め切り以外の完成点が必要なのだ。納得とか満足は永遠に辿り着けないからこそ制作出来るのだからそれともまた違うのかもしれない。
 ここのところの完成点は行き止まり感という感じだ。悩んで悩んでもうこれ以上打つ手がないところ。将棋で言う「詰み」の状態だ。一滴ずつの知恵を絞って器がいっぱいになって溢れ出すところ。その一点のために小さな積み重ねを続けるのだ。

 完成点を見出したところで公開決定。難所をひとつ抜けた心持ちだ。
 明日からまた次の関所を目指してまた一歩ずつ歩き出すことになる。


 腕立て伏せ:103回

難所

 遅く目覚めた朝、軽い頭痛があるようだった。
 漫画の方は8割方出来ているつもりだが、仕上げるには何かが足りない。素材となるカットはある程度揃っているはずなのに納得行かないのだ。
 トイレに入って思案する。
 すると引き算が必要なのだということに思い至った。ここまで足し算を繰り返して詰め込む一方だったから仕上げるには引き算をしなくてはならないのだ。しかし…と思う。引き算するためには今あるカットを描き直す必要があるのではないか。
 晴れていたので思い切って自転車を出すことにした。

撮影:2009/03/27
晴れてはいたが、気温はさほど高くない。自転車で走っていると体が温まってちょうど良い感じだった。
 今年は冬が比較的暖かく雪が少ない印象だったから、そろそろコブシの花はどうだろうと思ったのだが、お目当の公園ではまだ咲いていない様子。ここ1週間ほど寒の戻りがあったからか公園の様子はあまり変わっていないようだった。そこで少し足を延ばして川沿いのサイクリングロードを走ることにした。頭痛が治ったわけではなかった。ただ、快適な天候なので気にならない程度に痛みに意識を向けずにすんでいる感じだ。
 ふと土手で何か採っている人がいたので声をかけてみると野生のニラを採取しているとのこと。たしかにハナニラを見かけることはあるが、食べられるとは知らなかった…と思い、帰宅してネットで検索するとハナニラには食用のものと毒のあるものがあるらしい。その人は同じものだと言っていたが、理解して採取していたのだろうか。ちょっと心配である。
 そのまま川沿いに道を下って護岸であんパンを頬張りつつコーヒーを飲んでいたらウォーキングの人に挨拶がてら声をかけられた。普段人と話す機会も少ないので何気ないやり取りが嬉しかったりする。モンシロチョウが飛んでいるのを見かけたのは今年初だろう。
 川沿いのサイクリングロードは緩やかに下っているはずなのだが、風が向かい風なので意外とら楽ではなかったりする。何度か走ったことのある道とはいえ季節によって表情が違う。スズメや小鳥たちがさえずりながら春を確かめていた。家庭菜園を抜ける道を黄色い八重水仙の花が飾っている。フキノトウが咲いているのも何度か見かけたが、小さくて痩せているようなので採らなかった。
 どこかでウグイスが歌の練習をしていた。まだたどたどしく初々しい啼き方だ。梅の花も満開になり春は確実に動き出している。
 ふと、自転車で走りながら黄色い小さな花が咲いていることに気がついた。自転車を止めて近寄って見ると花は星のような形をしている。周辺には4〜5株ほど咲いている様子。デジタル一眼を持ち出していたので撮影を試みた。しかし、今時マニュアルフォーカスレンズを使っている上、絞りを開放でピント合わせしてから適宜絞り込む必要がある。本来なら三脚必須な条件の撮影を手持ちでやるのだから正気の沙汰ではない。賭けのようなピント合わせである。
 野外ではディスプレイが見にくいのて帰宅して確認すると一番期待していた写真が見事にピンボケだった。落胆はしたものの何の花だったのか気になるので調べてみると「キバナノアマナ」という花のようだ。
「食用も可能。しかし、個体数が少なく貴重なので絶対に採取してはいけない。」
 貴重な植物が身近にあるということは幸せなことなのだろうか。それとも希少種を育む環境の保全に心を砕くべきなのだろうか。

 明日のために漫画のレイアウト変更の予習をしてみると、案の定、また手こずりそうな予感。このページができれば難所を一つ越えられるのではないだろうか。



腕立て伏せ:103回

2016年3月27日日曜日

八朔

 今日も気温は上がらなかったようだ。
 戸惑ったのは、腕立て伏せ100回クリアするために3回のトライしなくてはならなかったことだ。いつもなら少なくても1回目で体が温まって2回目には楽になっているはずなのに一向に楽にならないばかりか力が入らず100回に届かないので焦ってしまった。体調が良くないのか…いや、外出が少ないせいか体重が増えているのが問題なのかもしれない。

 今日は制作中の漫画の制作を続行。
 イラレで制作していたレイアウトが納得行かないのでガラガラとレイアウト変更をした。インパクト、リズム、流れ、躍動感…それでいてシンプル…。漫画というものは本当に奥が深い。絵が描けるだけでは足りない。お話だけでも足りない。そしてレイアウトにも工夫があった方がいい。少しばかりデザインの経験があるからなんて役に立たない気がしている。
 しばらく作業して頭を休めると登場人物の苦悩や想いが表情として描けていないような気がしてきた。もっと読み手を引き込むような表情が必要なのではないだろうか。しかも改めて見直すと色数が多すぎるようだ。まだ暗中模索の手探り感が否めない。色数のコントロールくらいはデザインを経験している時に身につけておくべきだったはずだ。
 後悔先に立たずとは良く言ったものだ。どうすればそういう力が身につくかということは誰かに教わるものではないのかもしれない。結局、自分で学ぶしかないのだ。

 昨日、水に浸けておいた八朔の皮を砂糖で煮ることにした。
 完成する前にもう少し水分を飛ばした方が良かったかもしれない。仕上げはグラニュー糖だとさらにきれいなのだろう。
 撮った写真をレイアウトして雑誌のデザインっぽく仕上げてみようと考えた。レイアウトすることで漫画のレイアウトの訓練にもなるかと考えたのだか、こういうことをするとまた横道に逸れてしまいそうになる。八朔の断面とか食べる前の丸ごとの写真があった方が良いと思ったのだ。そのためにまた先送りにすると仕事が増えるだけなのでひのままアップすることにした。修正等をしたらまた改めてアップすることにしよう。



◇腕立て伏せ(思うように力が入らない日)
 1回目:75回
 2回目:94回
 3回目:100回

2016年3月26日土曜日

苦味

 晴れていると思ったら雨が降り出したり、そうかと思ったら陽が射したり変化の著しい天候だった。少し身体を動かしておきたかったので外出を考えていたのに中止することした。


 漫画の制作の方はやらなくてはならない事がいくらでもある。
 まずは、機能途中になっていた車のシートの制作。画面上で使用するのはヘッドレスト部分だけなので8割くらいは使わない部分になる。もっとも、作っておきさえすれば、いつか使えるわけだ。
 例によって制作している間は時間が矢のように過ぎていく。
 シートを車にセットして2Dデータとして書き出し、手描きの彩色済みデータと合成しイラレにレイアウトする。いつもの手順だが、ひどく工数が多い気がする。角度が気に入らなかったり少しばかり手直ししたいという時であっても最初からやり直しとなる。
 イラレに配置して全体を見るとどうも面白くない。あれこれ配置換えをしているうちにアイディアが浮かぶかもしれないからしばらく作業を続行してみるとにした。

制作:2016/03/25

 春は何故か苦味のある食べ物が食べたくなる。フキノトウなどの山菜もそうだ…と書きかけて意外と苦味の強い山菜が思い当たらない。実際に食べると苦味はそれほど強くなくてむしろ甘みの引き立て役になっているせいだろう。
 数日前に八朔を買ってあった。柑橘系というとレモンは時々買う機会があるが、ミカンとかオレンジは口に入れる機会がめっぽう少ない。それでたまには良かろうと購入したのだ。実は果肉より皮の方が目的なのだ。ブログに掲載する写真を選んでいる時に皮を砂糖で煮た物を見つけて「そういえばこの時期に作っていたんだっけ」と思い出した。
 もう数年も前に作ったきりなので作り方を忘れてしまっている。まずは苦味を抑えるために細く刻んでから水に浸しておくことにした。



◇腕立て伏せ
 1回目:75回
 2回目:105回

2016年3月25日金曜日

利己

 寒の戻りなのかぐっと冷え込んだ。明日の天気予報では雪のマークもあるようだ。

撮影:2009/03/24

 予定していた背景の制作を進めることにした。今回、必要としているカットは車内と室内。まずは前回制作していた車内の3Dデータが使えるはずだった。手描きのカットに合わせて3Dソフトで丁度良い角度を探す。何点かピックアップしたらサイズ指定して2Dデータとしてボクの場合はTIFFで書き出す。TIFFデータはイラレに配置する前にPSDデータに変換する。TIFFの方が汎用性は高いが、PSDデータ対応ソフトも多くなってきていることもあるしメインになるソフトがAdobe製品なので親和性やデータサイズが小さくなることを期待している。
 気がかりなのは、まだ室内用の3Dデータが出来ていないことだ。カットとしては背景がいらない程なので手描き対応でもいいかもしれない。車内のカットがある程度できたら再検討ということにしたいと思う。
 これまでの作画ではシートを手描きしていたが、ヘッドレストのカットを一箇所3Dにしたくなった。しかし、ヘッドレストを描くならシート全体がないと位置関係が維持しにくい。そこで3Dソフトでシートの制作に取りかかった。当初のイメージとはずいぶん違う感じになった上に結構時間がかかってしまったので肝心のヘッドレストに取りかかれなかった。ヘッドレストの位置を固定するだけならなんとか使えるかもしれない。
 夕方になって目の疲労のせいか動きたくないほどになってしまった。買い物に出かけた後、食事を済ませたら機能停止。





 作品を制作するにあたって、どこを重視するのかという点は作者の意図次第である。背景も手描きの方がいい場合もあるだろうし、ストーリーの制作に特化してフル3Dという制作方法もあるようだ。ボクは人物を描くのが好きなので人工物の作画は3Dに置き換えることで制作を効率化できるのではないかと考えているわけだ。言うまでもなく背景も手描きにすることで味わいが出たり微妙なニュアンスを出せたりするのだと思う。それも修行次第というところだろうか。
 ボクが作画にこだわるのはおそらく人生観が影響していると思う。美大に憧れた時期もあったが、経済的にも当時の実力的にも縁がないと思っていたし両親が賛成してくれるとは思えなかったから敢えて進路に選ばなかった。だから美大に行かなかったという想いと行けなかったという想いが同居してコンプレックスになっている気がする。その穴埋めというわけでもないが、絵画の通信教育やデッサン教室、油彩教室などで何とか描くことと繋がっていようとしてきた。王道を歩かなかったからこそ得られたものを作品に反映することで存在証明にしようとしているのだろう。言葉にしてみるとエゴなのかもしれないと思える。暗い路地裏から明るいメインストリートの様子をうかがっているような気分になることもある。
 それでいいのかもしれない。日の当たる通りばかりが道ではない。作品を必要としてくれる人に届いたらそれでいいのではないかとも思う。
 
 エゴ…捨てられるかな。


◇腕立て伏せ
 1回目:80回
 2回目:108回

2016年3月24日木曜日

満月


撮影:2013/03/24

 昨夜眠れなかったせいで調子が狂っていたかもしれない。その割に作画の方は調子悪くなかったりしてチグハグな日だった。夕方になって動きたくないほど身体が重く感じられて辟易した。
 人の生死は満月と関わりがあると聞いたことがある。つまり体調は月と何らかのつながりがあるということなのだろう。実際、満月や新月の日は体調が優れない気がする。
 今日は満月だったようだ。昨夜眠れなかったことも作画の調子が悪くなかったことも満月が原因だったのだろうか。

 昨日と今日描いたカットをスキャニングして何点かデジタル彩色。用意してあったレイアウトに配置してみた。まだ彩色していないカットもあるし背景もないが、全体を見ると1ページに詰め込むには少し窮屈な印象だ。イラストの大きさに変化をつけて強弱をつけてみる。使用していないカットもあるから、むしろさらに詰め込んでメリハリをつける方向も試してみる価値があるだろうか。もう一つの考え方としては1ページではなく2ページに変更するというものだ。背景のカット次第によっては、その方が間の取り方で情感を表現できるかもしれない。
 今日は現在描いている漫画のカットの他に以前描いて途中になっている漫画のカットを描いてみた。意外なことに以前はなかなか描けなかったカットが特に意識せずに描ける。しかも以前描いたカットと比較すると別人が描いたかのように歴然とした違いがある。嬉しくもあり、過去の絵が恥ずかしくもある。こんな風に描けるなら現在の制作ペースをアップすることも可能だろう。どうして時間がかかっているかといえば、悩んだり調整したりしている時間が長いのだ。

 これも満月効果なのだろうか。



◇腕立て伏せ
 1回目:80回
 2回目:108回

2016年3月23日水曜日

天命

 人はどういう時にどんなきっかけで天命を知るのだろう。
 野に山に生きとし生けるものには与えられた生があり、その命を生きるしかない。個々を見れば環境も違えば育ちも違い、それぞれの生がある。種を超える生き方はできないばかりか環境から逸脱することができない場合もある。さまざまな事情の中で与えられた命を全うするしかないわけだが、本人は客観的に捉えることが難しい。目の前のことに対応して日々を過ごすしかない。そして、人もまた多様な生がある。

撮影:2010/03/22

 詳細は忘れたが、「漫画の続きを描くように」といった趣旨の指示書を受け取る夢を見た。それが即ち天命であるとは限らない。

 そんな夢を見たせいか、今日はほぼ一日中机に向かっていた。しばらく3Dソフトに取り組んでいたせいか、デッサンが狂ってしまう気がする。腕立て伏せは1日休むと鈍ってしまう気がして続けているが、描くことも同じなのかもしれない。それでも何点か描いて描いて調整を試みた。

 仮に漫画を描くことが天命であるとするならこれほど嬉しいことがあるだろうか。様々な理由はあるものの、漫画を描くことを志すようになった。時に人生に迷ったり挫折を味わったりと紆余曲折を経て結局描くことに戻ってきたのだ。天命なんて何の確証もない。単なる思い込みと言えばその通りである。しかし、例え勘違いであったとしてもそれを信じることが生き甲斐になるのであるとすれば、悪いことばかりではないような気がする。

 五十にして天命を知る…か。


◇腕立て伏せ
 1回目:90回
 2回目:102回

2016年3月22日火曜日

春風

 朝はまず情報チェックの後に腕立て伏せをして机に向かった。
 昨日描きかけていたカットに手を入れる。スマホで会話しているカットなのだが、スマホを持っていないせいか手の形が上手く描けないことで悩んでいた。
 描く…と一言で言っても見たままを描こうとすることもあれば、記憶を頼りに描くこともある。さらには想像して描くこともあれば、想像を脳内で加工処理した後で描くこともある。手の形は普段何度も目にしているはずである。しかし絵として印象的な形となるとどう描けば良いのかと悩むのだ。
 以前はイメージの基本的なテンプレートが脳内にあって必要に応じて引っぱり出していた気がする。ところが最近それが難しくなっているようだ。テンプレートが取り出せないように鍵がかかっているのだろうか。気がかりなのは脳の神経細胞の信号の通り道が細くなってきているのではないかということである。もしアクセスできなくなるとすれば、ボクは気づかないうちに大切なものを失うことになる。何とか鍛え直してまたイメージのテンプレートを利用できるようにしたい。

 今日は晴れていた。
 悩んでいたカットにペン入れをして外出を決める。明日の天候がどうなるかわからないし、過去の写真をチェックしてみてもフキノトウシーズンになっているはずだ。近所を自転車で走ってみても麓では既に咲いているようだから気温の低い所を見てみる必要があるだろう。
 玄関を出てまもなく走ると強い西風。出がけに天候をチェックしたが、風は予想より冷たく2度、3度と中止を考える。悩んだ挙句、一旦自宅に戻って上着を一枚増やした。それから再度西風に立ち向かう。今日は久しぶりに一眼レフを入れたカメラバッグを担いでいるので強い風もあって自転車は時々ヨロヨロとふらついた。
 川沿いのツリーハウスではアオサギが風に舞っている。営巣地として人気のスポットなのだろう。時折、カメラを構えている人の姿を見かけることがある。橋の上から撮影するのにちょうど良い位置なのでボクも時々カメラを構える。アオサギや川の煌めきを撮影してから強い風をかき分けるように橋を渡った。ジョギングの人とすれ違ったので軽く挨拶して川沿いの堤防を走ると間もなくフキノトウが咲いている場所に遭遇した。そこからは路肩にフキノトウが咲いている場所を何度か通りかかったが、ほとんど既に咲いているたり採取された後だったりした。何とか採れたのが10コ程度。それでも一人で食べるには充分だし写真は撮れたから良いことにしよう。



 強い西風は、帰路になると味方になる。追い風になるかと思ったが、自転車の走る速度に近いため無風のような感覚になった。

 写真のレイアウトを工夫して物語のような構成にすることも可能だろうか。
…そんなことを思った。


◇腕立て伏せ
 1回目:90回
 2回目:110回

2016年3月21日月曜日

変化

 朝、目覚める間際にスラスラと描ける夢を見た気がする。それで今日はなんとか手描きの作画したいと思っていた。
 とりあえずMacの前に座るのが日常なので情報チェックなどしていると3D作画のイメージが浮かんだのでちょっとメモする程度のつもりで3Dソフトを起動したらまたしばらくはまり込んでしまった。手描きの作画のために机に向かったのは夕方近くなってからだった。夢に見たようにスラスラとは行かなかったが、調子を掴むために描き続ける。夕飯の準備もあってあまり長くは描けなかった。

撮影:2009/03/21

「好きなことを仕事にするより仕事を好きになれ」という言葉を聞いたことがある。
 日本では職業選択の自由は保障されているはずだが、現実はそれほどシンプルではない。好きな仕事をしようにも求人が出ていなかったり応募者多数の場合など希望の職業に就くのは容易でない場合も少なくないだろう。しかも、学歴社会の階段は新たな挑戦に都合が良いとは言えない場合もある。
 一方、努力と幸運の果てに好きな職業に就いたとしても思ったような仕事であるかどうかはやってみないとわからない。しばらく頑張ってみたもののどうやら合わないようだという場合や好きで始めたはずの仕事を続けるのが難しくなる時だってあるだろう。
 そんな時こそ「仕事を好きになれ」なのではないだろうか。
 仕事を好きになる方法なるものがあるのかどうかわからないが、好きな仕事を遠巻きに意図とは違う仕事もしてきたので目の前にある仕事を好きになる感覚というもの知ることができたような気がしている。これがストレートに好きな仕事に就くことが出来ていたらどうだったのだろう。ボクは仕事を好きになる感覚を知ることができていただろうか。

 このブログの記事もいつのまにか100本を超えている。
 半ば日々の業務報告のような心境になることもあるが、面白味が少しわかりかけてきた気がする。


◇腕立て伏せ
 1回目:80回
 2回目:105回

2016年3月20日日曜日

課題

 気がつけば夜である。
 少し3Dソフトを触ったら手描きの作画へスイッチしようと思っていたはずだった。実際には3Dソフトにどっぷりはまり込んでそのまま夕方になってしまった。

 絵や漫画を描くためにどういう生活スタイルにすべきか。
 長年の課題は解決されないまま現在に至っている。多くの失敗を繰り返し立ち直れないほどの状況に至っても結局描くことしかないと思う。単なる思い込みにすぎないとすれば、もっと早くこの自己催眠から解放されたら良かったのだろうか。歩いてきてしまった道を振り返ると今更他の道を模索する気力も体力も残されていないだろう。
 実質的な失敗でなくとも不発になってしまっているものがどれほどあるだろう。ストックフォトやクラウドソーシング…数え始めるとため息が出そうになる。

試作:2016/03/19


 Blenderの操作方法を習得しつつ3D作画をしていてふと思った。
「これって他にも使えるのでは?」
 そんな可能性を感じるほどBlenderの設定は詳細であり、正直言ってボクが求めていたクオリティをはるかに超えていると感じるのだ。これまで手を出していなかったことが悔やまれる。
 その可能性を確認すべく解像度の設定について調べてみた。そして必要最低限と思われる解像度でレンダリングを実行したところ、ボクが使っているマシンではかなりの時間がかかることが判明した。結局マシン性能の問題か…こういうことは初めてではないから落胆も大したことはない。少し欲が出てしまったが、当初の目的は達成できそうだという手応えがあったし、仮にマシン性能が充分だったとしてもボクのことだからまた寄り道をして不発に終わるのが関の山だろう。

 夏休みの課題は、最終日に泣きながら取り組むのが常だった。
 人生の課題は終わらない。



◇腕立て伏せ
 1回目:80回
 2回目:103回

2016年3月19日土曜日

差分

 予想はしていたが、昨日の疲れが少し残っているようだった。今日も暖かい日和の気配。明日からまた冷えるような話を耳にした。

撮影:2010/03/19


 少し前から様子を見ていた3DソフトBlenderに取り組んでみることにした。新しいソフトに取り組む場合はまずわかる範囲で色々と触ってみる。高機能であっても使う部分は限定的であることも少なくないため目的に応じた範囲を把握する必要があるのだ。頭で覚えるより身体で覚える感覚を大切にしたい。データーベースソフトのような例外はあるものの大抵の場合は直感的に操作出来るような工夫が施されている。感性や感覚的なものが大切なデザインやアートに関するようなソフトの場合は操作性は非常に大きな意味を持っているのではないだろうか。これまで使っていた3Dソフトは直感的な操作感が実に快適で難解と思われていた作業に集中することが可能だった。しかし、もう一歩というところで欲しい機能が見当たらない。それは二つのオブジェクトの重なった部分を取り除く機能だ。イラレでは2D図形の除外や分割などの機能を必要に応じて使っているが、Blenderには様々な機能があるようなのでそういった機能もあるのではないかと期待していた。さらに照明効果だ。これまでは太陽以外の室内照明などの効果が使えなかった。工場の3Dモデルを制作したが、外灯の光は2Dデータにしてから画像処理を施していた。それはそれで味になるから悪いことでもないのだが、3Dデータを制作していると光の扱いがしても大切であると感じる。

試作:2016/03/18

 色々と触ってみると照明の追加はそれほど難しくないようだ。細かい設定があるようなので必要に応じて追い追い覚えていく必要があるだろう。
 それにしても何だか扱いづらい。数値設定がしやすいのはいいのだが、何だってマウスでのコントロールが上手く行かないのだろう。
 ひとしきり悩んだ挙句ネットで調べてみると多くの情報が見つかった。不思議なことに動画解説の操作を見ても使いづらい様子は見えない。そればかりかとても快適に使っているように見える。何がいけないのかよく解らないままさらに調べているとやがて「差分」という機能が見つかった。設定がちょっと回りくどい気がしなくもないが、目的の機能が見つかったことは収穫だった。さらに調べていると使いづらさの原因が見つかった。なんとオブジェクトを選択するための操作が初期設定でマウスの右クリックになっているのだ。Macのマウスには右クリックのボタンがない。ホイールを使って操作できる機能があることは気がついていたが、右ボタンはまったく予想外だった。使いづらいのは当たり前だったのだ。早速設定しなおすと何事もなかったかのように意図に沿った操作ができるようになった。

 夕方の買い物を除けば、しっかりBlenderにかかりっきりだったが、昨日までのボクと今日一日を終えたボクはいくらかでも違っているだろうか。


◇腕立て伏せ
 1回目:75回
 2回目:113回

2016年3月18日金曜日

春霞

 気温が上がった。
 買い物や所用をこなすために外出したので春探しに足を延ばしてみた。山は融雪が進み、淡い霞がかかっているように見える。
 産直の店に立ち寄ってみると大小合わせて10個以上入っているフキノトウが1パック250円だった。鮮度も良さそうだし、自転車であちこち探し回る時間のことを考えれば購入した方が利口というものだ。しかし、野生のフキノトウを1個でも採取しようものなら途端にその存在が霞んでしまう気がするのだ。考えてみるとフリー素材でも良さそうな漫画のカットもやっぱり自分が手をかけたいと思うことに似ているだろうか。別の見方をすれば「たくさん食べられてラッキー」なのだが、せっかく地方に住んでいるのだから可能なら自分で採取したいという想いが強いのだろう。
 自転車で走っているとあちこちで梅の花が咲いているのに出会えた。公園では紅梅も咲いていた。毎年のように撮影していると苦手意識というものを持ってしまう花もある。椿の花もそのひとつだが、梅の花も難しい。慎ましやかな姿と混み合った小枝のイメージが噛み合わない気がするからだろうか。他にもフクジュソウの花が満開だった。

撮影:2016/03/17

 青空には淡い月が浮かんでいる。桜が蕾を膨らませ枝が月を迎えに行くかのようだ。散歩の人やカメラを持った人もチラホラ見かける。誰もいない冬枯れの広い芝生でゲートボールの練習をしている様子の人もいたようだ。


撮影:2016/03/17

 田畑の中を走っていると白くうつむくような表情をした花があちこちの庭に見られた。一部が川沿いの路肩に咲いていた。何の花だろうと不思議に思い帰ってから調べてみるとどうやらスノードロップという花に似ている。園芸植物なのだろうか。まだ花の少ない時期なので鮮やかな白が目に嬉しい。

 坂道を上ったり下ったりして春の野山の景色を眺めつつ過ごしていると、ふいにアイディアが降りて来た。
「あれ?なんでこんなことに気がつかなかったんだ?」
 アイディアが降りてくることを期待して出かけてもダメなんだろう。
 ふらっとなんとなく…それが大切なのかもしれないと思う。

 結局、野生のフキノトウは採れなかった。でも、もしかしたらフキノトウに勝るとも劣らない何かを手に入れて来たのかもしれない。

 何気なく鏡を見たらいくらか日焼けしたようだ。


◇腕立て伏せ
 1回目:70回
 2回目:110回

2016年3月17日木曜日

明暗

 今日は暖かくなるという予報だった気がするが、夕方になって買い物に出るとそれほどでもなかった気がする。

撮影:2013/03/17

 そろそろ煮詰まってきたということで3Dソフトから2Dデータを書き出すために頭の中にあったイメージと照らし合わせつつ3D空間でフレーミング繰り返す。
 元になる3Dデータは自作しているが、どのように切り取るかによって構成が変わるのだ。当初のイメージとは多少のズレがあっても良い角度があれば採用したい。しかし、車のデザインにしろ工場敷地にしろこだわって作画していた部分はことごとくフレームアウトしている。むしろかっこ悪く見えてしまう構図を使わなくてはならなかったりするのが心苦しい。



 今日は3Dと手描きの画像を構成までして追加のイラストを手描きしようと考えていた。一緒に働く仲間が帰って行く様子が必要ではないかと考えていたのだ。ところが、イラレでカットを配置してから改めて眺めてみると追加の絵を入れる余地がない。元々ネームの段階で入っていなかったのだから当然と言えば当然である。思案しつつ、3Dソフトから書き出したデータの画像はそのままでは硬いので手描き風のフィルタリング効果を追加する。さらに夜らしい効果を加えたり照明の明かりを入れたりした。そしてセリフなどのテキストの配置を入れ替えたりして改めて構成を確認してみる。やっぱりそのままでいいような気がした。そこで明日以降にアップする予定を変更し今夜アップすることにした。
 公開しようと思い立つ時はざわざわと血が騒ぐ気がする。時間も手間もかかっていても内容としては起承転結の「承」ということもあり次への布石になるページにすぎにない。ここで青年が疲れていることを描いておく必要を感じたのだ。前ページで情感が欠落していたのでこのページでは「暗さ」と「灯り」を意識している。
 次ページはまだこれから準備に入ることになる。


◇腕立て伏せ
 1回目:70回
 2回目:110回

2016年3月16日水曜日

対価

 朝からひたすら3Dソフトと格闘。
 そろそろ仕上げに移りたいのだが、1箇所出来たと思うと次に気になるところが出てくる。工場に照明を配置して車の作画に移る。そもそも3Dソフトで作画を始めたのは広角レンズのような効果がか欲しかったからなのだが、今がかかるにもほどがある。ここまでやって投げ出すのも癪に障る。それでズルズルと深みにはまることになる。


撮影:2011/03/16

 そのまま夜まで3Dソフトで作画していると、テレビでベーシックインカムの話題が出ていた。初めてベーシックインカムの話を聞いたのは何年前だったろう。たしかリーマンショックの後ではなかったかと思う。当時は派遣切りや就職難などが重なり救済措置としてのベーシックインカムという意味合いが強かったような思うが、どちらかというと非現実的な提案という見方が強かったのではないだろうか。そして実現することもなかった。現在では人工知能の発達により仕事が無くなって行くことを想定した上でのベーシックインカムである。どちらにしても職場が失われることによって賃金が得られなくなる状況に対応しようというものだ。現実問題としてそんなに簡単にシフトすることは難しいだろう。理論上可能な自動化であっても実際には日々のメンテナンスやトラブル対応に人手は必要だからだ。ただ、現代は少子化も進行しているから積極的な効率化や人工知能の導入が求められる可能性もあるだろう。既にプログラムによる自動化が進んでいる業種もあるらしい。
 問題は、仕事や職種の消失は目に見えないところで進行し、仕事が見つからないのは個人の問題と捉えられがちなので本人すら社会現状に発展していることが気がつきにくいことである。その痛みや焦燥感は本人にしかわからない類のものではないだろうか。

 資本主義は社会のニーズに対応した労働に対価が支払われる仕組みと言えるだろう。一見合理的だが、社会のニーズには流行もあり時が経てば問題になることもある。そんな流動的な仕事に対して個人の人生の大半の時間をつぎ込むことが当然という社会でありそんな経済活動の上に国が成立している。
 考えてみれば、労働とは何であるかということは個々の判断に任されている。「金銭という対価を得ているならプロだ」などというある意味荒っぽい論法もやがて通用しなくなるかもしれない。そもそも金銭という対価を得ていなくても素晴らしい技術を駆使する仕事だってあるだろうし、尊い仕事だってあるはずだ。

…と、「自分が納得できるまで」という基準しかないことに取り組みつつ労働と対価について考えるのだった。

 いつか労働が今とは違った見方で評価され、一人でも多くの人がやり甲斐や働く喜びを見出せる時代になることが望ましい。残念なのは、そんな時代になる頃にボクはもうこの世にいないかも知れないということだ。


◇腕立て伏せ
 1回目:80回
 2回目:110回

2016年3月14日月曜日

法則

 今日は朝から雨模様だったらしい。気温も上がらない様子。
 昨年末あたりから温めていた作品「虹色ティッシュ」を追加型漫画として少しずつ公開することにした。出来ればもう1ページ描いた状態から公開したかったが、グズグズ長引かせてしまっているので出来ているところから公開した方がいいだろうと考えたのだ。


 昔の人は「段取り八分」と言ったらしい。その意味では8割どころか6割がいいところなのではないだろうか。本来全編を一気に公開するつもりだったから見通しが甘い。場当たり的に膨らんでしまったことも否めない。

 午後から少しまた3Dソフトで車の作画。シートは描かなくてもいいが、ハンドルが必要なのだ。それからライトのデザイン調整に手をかけたが良い感じを掴めない。そのまま少し目を閉じて仮眠体制になった。するとふいにアイディアが浮かんだので起き上がって作画。集中力が続かないのは気温が低いせいだろう。
 夕方になって少し外に出るとやはり寒い。ショッピングモールを歩いてみると月曜日とあって来店客も少ないようだった。映画館の前で立ち止まると少し前に話題だった作品はもう上映されてないらしい。代わって新しい別の作品の紹介がされていて流れの外にいるような感覚になる。新しいアニメ映画は当たり前のように3Dである。話の流れはもう定番といった感じのようだったが、見ているうちに動作が面白くなってつい見入ってしまった。外れない作品を作るために研究されているのだろう。
 そもそも感性とはどんな風に育まれるのだろう。夕日が美しいとか花が綺麗だとかいった感覚はDNAに刻まれた先天的な感覚なのだろうか。それとも対象が何であれ感性の基本的な法則に適合した状況に遭遇した時に感動するのだろうか。では、その基本的な条件はどのように育まれるのだろう。
 たとえば、定番の作品ばかりが世に出るようになった時、感性はどのように育まれるだろう。本人は楽しんでいるつもりでも笑いや感動までもが支配されてしまうことにならないだろうか。
 ビッグデータや人工知能の時代を迎えようとしている。何がヒットし何がヒットしないか予測されるようになれば、多様性が失われるばかりか感動の幅が狭くなったりしないだろうか。

◇腕立て伏せ
 1回目:80回
 2回目:115回

2016年3月13日日曜日

試行


 今日も朝は晴れていたが、徐々に曇ってきた模様。軽い頭痛と倦怠感は日曜病だろうか。それとも気温が上がらないせいだろうか。気温が上がらないと活性も上がらないというのは哺乳類の風上にも置けない。
 ボクってもしかして昆虫?それとも爬虫類?

撮影:2011/03/13

 制作の方は少し机に向かって手描きでラクガキ。脇役を描いていたのだが、描き込むほどに愛着が湧いて主役のような扱いをしたくなる。思い返すと印象的な作品には個性的な脇役が登場する。対比だったり協調だったりしながら物語を紡いでいくのだ。そう考えれば脇役たりともぞんざいに扱うわけにはいかない。

 それからまた3Dソフトによる作画。
「バランス」という作品が途中になっているため設定を固める意味もあって異次元層の大地を試作。雲海のような表現をしたかったのだが、現在使っているソフトでは限界のようだ。



「ボケ」を必要とする表現はカメラのレンズ効果による被写界深度のボケもある。その効果を求めるのであれば、さらに他のソフトとの連携が必要だろう。しかし、手描きによる作画のイメージを固めるためなら現在のソフトでも充分かも知れない。そもそもフル3DCGにするつもりはない。適材適所で使うために試行錯誤も必要なのだ。

◇腕立て伏せ
 1回目:50回
 2回目:101回

懐疑

 今日も晴れていた割に気温が上がらないようだった。
 土曜日のせいか気も緩みがちだ。
 3D制作が続いていたので気分転換も兼ねて机に向かってみた。案の定、調子が出ない。デジタルからアナログへのスイッチがうまく働かずシンクロしない感じなのだ。
 早々に断念して昼食を済ませ買い物に出た。今日も風が冷たい。
 うちの近所まで帰ってきたところ、住宅地の中の家庭菜園サイズの畑の隅にフキノトウがどっさり出ていた。すでに咲いてしまっていたから食べるにはちょっと時期が遅い。近所は田畑が多いが、野生のフキノトウとを見つけようとするとなかなか大変だったりする。どうしてもということならスーパーや産直の店ということになるが、やはり採りたての風味や新鮮さが恋しい。



撮影:2009/03/13

 以前は当たり前のように車を走らせて山菜採りに出かけていたが、当たり前ではなかったということを改めて思う。それでも冷たい風をかき分けて自転車を走らせればどこかに見つかるだろうか。

 帰宅してから少しでも作画を進めておこうと思い、また3Dソフトを起動した。工場の塀や門、外灯の制作だ。リアリティを考慮するする必要があるのであまり目立った造作をしてはいけないと思いつつ、ワクワクしないデザインというのは、やり甲斐を感じられない。外灯は車の窓の外に少し見える程度というイメージだ。
 考えてみれば、予算の心配もせずに工場の設計をしてしまうわけだから無用に敷地が広かったり外灯が立派だったりしてしまっているだろう。現実には設計と予算には密接な関係があるはずだ。だからこそ会社組織などのチームで取り組むことが必要になるのだ。そして効率を上げるために仕事は分業化され選択的に判断されていく。

 デザイナーというと特殊な仕事と思われがちかも知れないが、経理や総務や営業などの職種と同様に本来は組織にとって必要な職種ではないだろうか。何かの職種と兼務することも悪いことではなくても現代社会では様々な局面において出番があるように思う。どういうわけかそんな局面が軽視されがちなのだ。デザイン系の専門学校や芸術系の大学など専門的に勉強することが可能な時代なのだから社会側が受け入れ体制をとることができれば新たな流れを作ることが可能ではないだろうか。

 工場や車のデザインをしつつ、あらゆるものがデザインと無関係でないことを改めて感じている。様々なものをトータル的にデザインする立場のデザイナーがどれくらいいるだろう。現実には車のデザインにしろ建築物の設計にしろ様々なデザイナーや建築設計士が関わっているはずだ。必要なあらゆるものをデザインするということは仮想現実ならではの仕事であるような気がする。そう考えていたら全てのデザインを一度懐疑的に捉え直し新たな視点で様々なものをデザインし直してみることも面白いかもしれないと思う。
 
 新たな世界観や生活観が視えてくるのではないだろうか。

◇腕立て伏せ
 1回目:84回(首に痛みを感じて中断)
 2回目:103回

2016年3月12日土曜日

伏線

 朝は久しぶりの快晴だった。

撮影:2010/03/12

 思うところあって現在制作している漫画の設定をイラストの再構成という形で公開した。実は派遣社員として工場で働く青年という設定はこれからの物語の展開にはほとんど関係ない予定なのだ。その工場で何を作っていようと青年がどんな車に乗っていようと本編には関係がない。むしろ深く思い悩み人生を持て余しているような憂いを描くべきなんだろうと思う。残念ながらボクにはまだ表現力が足りない。
 では何の為の伏線かというと、これから先、ボクが何年も描き続けることができるとすればその時に描いている作品の中で触れることがあるかもしれないのだ。


 午後になって買い出しに出る頃には雲が青空を隠そうとしていた。低く流れているのは雪雲だろうか。風が冷たかった。
 帰宅して3Dソフトによる車の作画を再開。予定していたのはドアミラーとウィンカー、それから後ろのウィンドウのデザインの修正だ。思うように行かず手こずってしまったため、あっという間に日が暮れた。他にもやりたいことがあったが、明日へ持ち越しだ。



 背景カットとしては、そろそろ条件が整ってきただろうか。3D空間ではカメラ片手に縦横無尽に動き回り撮影するようなものだから必要なものが出来る限り矛盾なく配置されている必要がある。
 たった1ページの背景カットでもう何日かかっているだろう。簡単に描く方法は他にもあるかもしれないが、これも一つの試みなのだ。同じデジタルによる作画でもイラレに特化すれば、1日で1ページを描くことが可能な場合もある。以前にそういう作画スタイルをとったこともあるが、量産することが目的ではないということなのではないかと思う。一つのアイディアを大切にして膨らませることができれば、何度も繰り返し読んでもらえる作品になるのではないか。あるいは読む度に違った作品と感じられるような多面的で深みのある作品にできるのではないか。そう考えるのだ。実際、時間をかけていることで描いている世界観にも奥行ができる気がしている。

 制作の速度と質。いつかボクなりの制作スタイルが出来るだろうか。


◇腕立て伏せ
  1回目:75回(首に痛みがあり中断)
  2回目:104回

2016年3月11日金曜日

過程

 買い出しに出ると風が冷たかった。
 数日前に自転車の後輪に亀裂が入っていることに気がついていた。昨年交換したような気がするから1年しか持たないということだろうか。タイヤ交換の費用確認のためホームセンターに立ち寄ると自転車のタイヤ・チューブのセット交換で米10kgが余裕で買えてしまう。ちょうど米を切らしているのだが、いつもの米が安売りになるのを待とうと考えていた。自転車はガソリン代や車検費用がかからないのが良い所だが、1年に一度とは言え自転車間タイヤ交換と米の購入が同じタイミングになるというのは痛い出費だ。

撮影:2011/03/11

 ホームセンター1軒、スーパー3軒、書店1軒をハシゴして帰宅。
 蕎麦を茹でて昼食を済ませ、昨日に続いて3Dソフトでの工場の制作に取りかかった。面倒がっていても仕方ないので工場に扉を取り付ける。この扉は社員通用口の設定だ。どうして扉を描くのを面倒がっていたかというと、たぶんワクワク感を見出せなかったからではないだろうか。車の作画をしている方が大変だったし曲線を利用したりして余程面倒だったわけだが、そこにはワクワク感があった。つまりは簡単なことほど面倒に思えてしまうということだろうか。
 以前は「面倒くさい」と誰かが言うのを耳にするのも自分が口にするのも嫌だった。そんなことを言ってる暇があるなら取り組んだ方が早いと思っていた。ところが今はどうだろう。好きなことをやっているはずなのにひどく行動が重い。意思決定も遅い。年齢のせいにしたくはないが、逆らえないのも現実なのだろう。

 
 3Dで制作していると様々な角度からの視点を設定できる。そこが面白味でもあり醍醐味でもあるかもしれない。文字通り風景を作っている感覚がある。角度を決めて2Dデータに変換し漫画の作品としてレイアウトしていくわけだが、その変化の過程も実に面白い。制作に携わるものしか見ることができないのがもったいない気もする。この世に存在しなかった頭の中のことが現実世界で認識できるようになるというのは特別なことなのだ。それを経験できるということは何物にも代えがたい貴重な体験なのかもしれない。


 腕立て伏せ
 1回目:79回(首に痛みを感じたため中断)
 2回目:103回

2016年3月10日木曜日

焦点

 朝は曇っていたようだ。一日作業していたせいか外の様子がさっぱりわからなかった。気温はあまり上がらなかったようだ。

撮影:2006/03/09

 午前中から制作中の漫画のカットのペン入れをしようと机に向かった。3Dソフトによるデジタル作業が続いていたので鈍っていないか少し心配だ。試しに鉛筆描きしてみると大きな問題は感じなかったが、ペン入れの段階になって焦点が合いにくくなっている。やはりパソコン作業が続いたせいだろうか。
 作品に必要なカットに加え数カット描いてみてスキャニング作業に移った。デジタルデータに彩色してレイアウトしてみるとどうも面白くない。セリフの配置をやりくりしたりしてみたがやっぱりパッとしない。

 そこで以前から考えていた夕焼け空を描いて背景に入れてみた。すると思った以上に雰囲気が変わった…変わりすぎた。
 その背景を使うとすると時間設定を意識する必要が生じる…仕事終わりの設定で夕焼けが見られる時間ということになると夏でも午後7時が限界だろう。しかし設定の季節的には冬場である。夕焼けの時間ということになると午後4時頃だろうか。仕事終わりが午後4時ということは考え難い。そもそも外灯のみの予定だったから絵としては面白くてもリアリティの方を採用すべきなのだろう。



 印象深い構成の絵ができると「魅力的な絵が描きたい」ということを思い出す。




 腕立て伏せ:100回

2016年3月8日火曜日

無力

 風は少し冷たかったが、近所を自転車で走ってみた。オオイヌノフグリはもうあちこちで咲いている。庭にフキノトウや福寿草が咲いているお宅もあった。野生のフキノトウはまた見つけられなかったが、場所によってはもう食べごろなのかもしれない。

撮影:2016/03/08

 時に自分のあまりの無力さに愕然とすることがある。
 ボクが大切だと思っていることなど取るに足りないことだったんだと気づくのだ。ある意味では何かを大切にしていると言う想いに酔っているのかも知れないし依存しているのかもしれない。他に選択肢はないと自らに言い聞かせ、追い詰めている。気づけば欲求は義務へとすり変わり無価値なことに価値を見出しているのだろうか。
 よく言えば信念。悪く言えば妄信。

 正解などない。勝てば官軍なのだ。
 成功と言われる答えに辿り着けば正解とみなされ、我も我もと同じ扉に殺到する。しかし、言うまでもなく誰もが通れる扉であろうはずもない。だから自分が通れる扉を探す。場合によっては自分で作る。それが無謀なことだとふと我に返るのだ。



 ボクはいったいどこへ向かっているのか。
 この道は間違っていないのか。
 季節の変化を感じることで少し心がざわついている。


 漫画のために制作した3Dのカットをレイアウトしてみるとデジタルっぽさが明確に出すぎて違和感がある。キャラクターを配置した時に背景の方が目立ってしまいそうなので彩度を抑えるなどの編集が必要になりそうだ。
 その後、3Dソフトで樹木に挑戦…実は手間がかかりそうだったのでどうすればいいか思案していた。フリーのモデルがあることは承知しているが、樹木には表情がある。既に手描きで描いたカットもあるのだが、3D空間で完結した方が後々便利になる気がする。今回欲しかったのは冬木立のカットである。葉がない状態なので木立の樹形が目立ってしまうのだ。カイヅカイブキのような常緑樹にすることも考えたが、モコモコの緑というのも絵にしようとすると思うほど簡単ではない。いずれにしても芯になる幹が必要になるのでどう作画したら良いか考えていた。
 一つの方法論としてフラクタルのプログラムが利用できないかと思った。それには現在使用している3Dソフトで利用出来る必要もあるので簡単なことではなさそうだ。少し調べてみるとrubyを利用するなどの方法もあるようだ。残念なことに現在はrubyの知識がない。
 とりあえず、コツコツ描いてみようということで1本の木を描いてみた。人工的な感じは否定できないが、もう少し手を加えれば自然な感じに近づけるかもしれない。樹木には樹種によって対生や互生といった規則がある。そこまで配慮できればもっと「らしく」なるのかも知れない。現時点ではそれなりに見えることが最優先だ。



 無力なボクが出来ることなど高が知れている。
 せめて無心で取り組むことしかないのかもしれない。

 腕立て伏せ:100回

2016年3月7日月曜日

視点

 今日は朝から雨模様。気温が高いせいだろう。
 東日本大震災の日は冷え込んで雪だった。大停電の影響で暖房器具が使えなくて凍えそうになりながら夜を明かした。たしか当時はソーラーパネルを設置してあっても自家用に使用するコトができなかったと聞いて驚いた覚えがある。今はどうなっているのだろう。

 先週末から気にかかっていたことを解消するために少しばたついた。雨が降っていたので徒歩で外出したのだが、雨はやがて小降りになり電車の時間も都合良かったので滞りなくコトは進んだ。
 電車の窓から畑にいるキジが見えた。梅の花も咲いているようだ。道端にはタネツケバナが咲いていた。たしか種籾を蒔く時期の目安にすることからこの名がついたのではなかったろうか。暖冬とは言えちょっと早すぎるような気がするが、例年こんな時期なのだろうか。そういえば稲刈りや草取りの経験はあるものの種籾を準備する作業をよく知らない。
 今季も冬が越えられたという安堵と焦りのように気持ちが交錯する。

撮影:2016/03/07

 些細なコトが気になってしまうのは気が小さいからだろう。普段気にしていないが、たまたまカレンダー見ると今日は大安だった。歯にものが挟まったような感覚が続いていたので無事に用件が済んで少し気が楽になった。
 
 帰宅してから3DソフトのBlenderを使ってみた。ともかくこれまで使っていた3Dソフトより設定やメニューが多い。操作感も全く違うのでデタラメに触りながら覚える。これまでできなかったことが色々できそうだ。これまで出来なかったことはどうしたって出来ないことと考えてしまっていたようで新しい機能を知ると驚きや発見がある。そうして少しずつ憶えて行くのだ。これまでのソフトとデータの互換性もある程度維持できそうなので慣れて操作感が良ければ有効に使えるかもしれない。




 デジタルは空間では、新しいツールを習得することは新しい力や技を手に入れることでもある。しかし、技術的なことだけに囚われてしまうことは本意ではない。手に入れた力や技で何をしたいのか。何をするのかが問題なのだ。 

 たとえば、書くこと、話すこと、歌うこと、撮ること、描くこと、走ること、笑うこと、泣くこと、登ること、想うこと、考えること、悩むこと、知ること、驚くこと…。
 生きる上で当たり前にやっていることだって育てて磨くことで特技になる。しかし、その特技を活かす方法を知らなければ、やっぱり輝くコトができない。
 それを知るには主観と客観の視点が両方必要なのではないかと思う。

 車を手に入れて運転出来たとしても目的が必要なのだ。


 腕立て伏せ:103回

2016年3月6日日曜日

模索

 土曜日、日曜日と気が緩みがち。だからと言って気合を入れてもしわ寄せがあるだろうからゆるゆると制作。

撮影:2009/03/06

 3Dソフトで制作していた車を工場の敷地の駐車場に配置したかった。しかし、まだ工場の外観ができていない。そこで少しでも進めるべく工場の制作を進めた。工場であれば作業現場だけでなく事務所やトイレや更衣室が最低必要だろう。給湯室も必要であろうし荷物の搬入・搬出する場所も必要になる。全部について作画しているとキリがないので必要な部分から描きたして行く手法になるだろう。
 時々、やっていることが正しいのかと不安になることがある。
「なんでこんなこと始めちゃったかな。」
 そもそも正しいとは何だろう?何が正しいかわからないから試行錯誤しているんだろう。
 現代は極力無駄を排除することで効率を高める風潮なので今やっていることそのものが時代に逆行しているような気がしないでもない。
 結果、レイアウトしてみることや車のデザインが後回しになってしまっていることは否めない。
 思い立って3Dソフトで制作した車と写真を合成してみた。写真に角度を合わせるのが予想以上に難しい。それに光線の当たり方の違いもあるだろうが、呆れるほど整合性が取れない。漫画の場合は、先にキャラクターと背景の合成したイメージがあって、作画したキャラクターに3Dの背景の角度を合わせるわけだが、3Dソフトで制作したカットの消失点とと写真の消失点が一致している必要性やレンズの画角の整合性が取れている必要もあるのだろう。逆に言えば、ここに3Dソフトで制作したカットと2Dのイラストを合成する場合の限界も見えるかもしれない。

 現在の制作スタイルは必要なところだけ作画しようとするから細部を先に描いてしまう。そのために効率も悪く時間もかかるのかもしれない。先にざっくりしたイメージで作画して徐々に細部を詰めていけば良いのだろうか。しかし、それにはスケール感を掴まえるのが難しくなる気がする。

 要するに試行錯誤してイメージの素描を繰り返し、納得できる方法を模索するしかないのだろう。




 腕立て伏せ:100回

深度

 心配ごとがないわけではない。
 しかし、始めたことを続けなければ、終わりもない。

 小学生の頃、プールの自由時間は潜水しているのが好きだった。泳ぐ時は息を深く吸い込むのが普通だ。ボクが潜る時は息を吐き出していた。そしてそのままプールの底に沈む。潜る前に息を吐き出しているから長くは潜れない。でも吐き出さないと浮かんでしまう。静かな水の底。ボクのことに誰も気づかない。そこで自分が取るに足りない存在であると知る。
 そんなことをしているうちに25mを潜水したまま泳げるようになった。

撮影:2006/03/05

 心配がないわけではない。
 しかし、何かに集中している時は、水の底にいるようだ。


 日常の問題をあれこれ考え始めても何も解決にならないことが多い。どうしたらいいかなんてその時にならないとわからない。できることだけやったら後は時を待つしかないのだ。

 深く潜って長く泳いで進度はどれくらいだろう。
 潜水25mで最も苦しいのは最後の5mだった。

 ふと気がつけば日はとっぷりと暮れ、一日が終わろうとしている。


 腕立て伏せ:101回

2016年3月5日土曜日

調整

 天候が落ち着いたようなので自転車を出した。
 体調のコンディションを調整することと買い物が目的だ。
 ショッピングモールを散策すると意外と来店客は多い印象だった。例によって特に買い物をするわけでもないが、ペットショップで子猫がいつもより多いのはブームを反映してのことだろうか。猫は好きだが、ろくに餌ももらえず痩せ細ってしまった猫も知っているので複雑な想いである。
 ショッピングモールを出てペダルを踏み込んでいると、数少ない坂道で若干息が上がる。運動不足になりがちな日々だからこういう事が必要なのだと思う。スーパーや産直の店を回り、ドラッグストアでぶどうパンと飲み物を購入して誰もいない公園広場で食べた。それから書店をチェック。3Dソフト関連の書籍がちょっと気になったが、こういうタイプの本は買っただけで読まない事が多い。併設のCDショップと産直の店をチェック。産直の店は食材の調達という目的の他に季節を確認しているという部分がある。
 最後にいつものスーパーに立ち寄って帰宅した。

撮影:2012/03/04

 帰宅すると余韻と疲労感でしばらく動けない。
 今日は準備してあった下絵と3Dソフトで制作している車を使用した背景でアタリを取ってみようと思っていた。下絵もペン入れ前であり、背景の車も制作中だが、アタリを取ることで足りない部分や矛盾点をピックアップすることが目的だ。現時点で車のドアミラーやウィンカー、ドアノブが足りない。ウィンドーの支柱やバンパー、後ろからのカットが必要なのでバックライトも必要になる。ワイパーは省略かな。車内ではシートやハンドルもまだないしバックミラーもない状態なのだが、そこは手描きにした方が良いかもしれない。



 これから暖かくなると活動も制作もコンディションが良くなって来るだろう。
 なんとか良いペースを作っていきたい。

 腕立て伏せ:103回

2016年3月4日金曜日

潜航

 今日は、朝から雨模様。2012年は雪だったようだ。
 プラスチック容器系のゴミ出しのためいつもより少し早く起きたため例によって眠気を引きずりつつMacに向かう。3Dソフトについてちょっと調べてみた。
 Blenderというソフトは以前にインストールしてあった。無料で商用利用ができる点が魅力だ。ほとんど使っていなかったためバージョンアップしていたことも気がつかずにいたようだ。新バージョンをインストールしていつでも使えるようにしておくことにする。日本語化もできるということだったので設定した。せっかく3Dソフトを習得するなら、たとえば制作したデータで3Dプリントすることが可能なレベルのソフトがいいのかもしれないと思う。結局ボクは必要に迫られないとやらないのかな。必要になる時のために出来ることを少しずつ準備はしておこう。

撮影:2012/03/03

 昨日の続きで3Dソフトをグリグリやって車の作画。カーブが強い印象だったので少し抑えつつ隙間ができている所を調整したりして制作を進める。色をつけてみるとぐっとまとまりが出てくる。
 眠気と頭痛が居座っていた。しかし、手を止めるとやり方を忘れてしまうかもしれない。制作の内容はその都度考えて解を探すのであーだのこーだのと文字に表現できる内容ではない。身体に覚えさせる感じがずっと続く。



 昼食に袋麺をベーコンと一緒に茹でて卵を落とし梅干しを少し入れてラーメンライス。
 頭がオーバーヒートしかかっているので仮眠をしたら短い間に時間も場所も見失うほど深く眠った。
 冷静に考えれば手描きの方が絶対に早いだろう。皮肉なもので苦労すればするほど、こだわりと言う欲も出てくる。
 それから夕方まで買い物に出かけるのも忘れて制作に打ち込む。

 ハッと気がついたらすっかり暗くなっていて食事の準備すら煩わしい。近所のスーパーに自転車を走らせて惣菜を買ってきた。まるで会社勤めの頃のようなパターンだ。ここ数日、魚を食べたいと思っている割になかなか実行に至らない。

 深く潜っている感じの制作が続いている。デジタル作業はマウスでやっているので鉛筆やペンとは感覚が違う。
 張り詰めた何かが切れると投げ出してしまいかねない。

 夜になって漫画の番組が放映されていた。何十年と漫画一筋に取り組んで来られた大先輩の存在は大きい。ボクは遠回りしたことを無駄にしないように活かして行きたいと改めて思う。



腕立て伏せ:103回

2016年3月3日木曜日

形状


撮影:2006/03/05

 今日は結果的に3Dソフトに集中することになった。
 普段気に留めていないが、身の回りに溢れるモノにはデザインがある。美的であれ機能的であれデザインなしでは成立しないと言っても過言ではないだろう。デザインとは設計という意味合いもある。それは人工的なものには限らないだろう。自然のものであってもその存在が持つ長い歴史の中で淘汰され、研ぎ澄まされてきたものだという。そもそも分子構造や原子構造にも規則があるわけだというから物理法則の中でデザインと無縁のものはないと言えるかもしれない。

 これまでに何台かの車に乗る機会があった。
 最初は仕事で乗った深い緑色のワンボックス。700ccの空冷エンジンで運転席のフロアは錆びて穴が空いていた。初めて乗った日にはギアのチェンジレバー壊れて交差点で止まってしまうというハプニングにも見舞われた。骨董品レベルという古さが逆に看板になるという判断もあったのだろう。ボクは免許取り立てだったので練習するにもいいだろうということのようだった。
 次に乗ったのは中古の赤い乗用車。これまた仕事に必要だからという建前があったが、友人は既に自分の車を持っていて出かける度に乗せてもらうのが心苦しくもあった。そしてその次も中古の赤い車。キビキビ走って狭い所での転回も楽だった。
 しばらく車に乗らずスクーターにしていた時期を挟んで次の車は深い緑のワンボックス。唯一の新車購入だった。一番初めに乗った車がモノを運ぶのにとても便利だったので引越しなどでも使えると思ったからだ。実際、何回かの引越しでは大活躍をしてくれたし、かなり長い間乗っていた。その後、自転車だけの時期があったが、通勤の必要があって2年間だけシルバーのワンボックスに乗った。初めての4WDだったが、いろいろと不具合があってたった2年間なのに後半は乗るのが辛い時期もあった。
  それからまた自転車暮らしをしているが、車は本当に出費が多いということを改めて思う。自転車でもブレーキやタイヤなどの消耗品に費用はかかる。しかし、外出の度に燃料の心配をする必要もなければ、車検のような定期的な高額出費もない。おまけに健康にも良いとなれば、どうしても必要なのでなければ、車はなくたっていいと思うこともある。

 ボクは車が必要になれば乗るという立場を取ってきたので機能優先で選んできたような気がする。いずれ排気量を基準にすることもなくなるかもしれないが、軽自動車だって目的地に辿り着ければいいし、必要なだけの荷物が載せられて小回りが利けば言うことない。
 何しろ好きだと思うデザインの車は滅多に出会わないのだ。
 昔はスーパーカーブームなんて言う時代があってカウンタックやフェラーリのような鋭利なデザインをかっこいいと思うこともあったが、ポルシェやロータスヨーロッパのような曲線を効かせたデザインが好きだったり、むしろ3輪車のような丸っこいデザインも好きだった。
 しかし…現代の車のデザインにはあまり心が動かない。だから「車は走れて荷物が運べたらいいや」ということになる。
 では、自分でデザインするとしたらどうなんだろう。歴代の様々な車のデザインの中から好きなラインを抽出し脳内で再構成して3Dソフトで作画していく。3Dソフトも独学なので使い方を覚えながらの制作になる。最初は直線を中心に構成していたが、使い方を習得して行く過程で曲線と曲面が多用できるようになってきた。



 今回は、勝手がわからないこともあり手探りでの制作になっている。漫画の作品内での使用が目的なのであまり個性的ではなくさりげないデザインにしたいのに無駄にこだわってしまっている可能性もある。シンプルであることは簡単なことという意味ではない。意外と難しいことなのだ。漫画で使用する車一台くらいだったら2時間程度で制作できるのが理想的な気がする。慣れた人はもっと早いのだろうか。

 そういえば、昨夜は3名ほどの女性スタッフがボクのラクガキを立派な作品に仕上げてくれる夢を見た。理想的な職場環境だったが、現実にはひとりで全部こなさなくてはならない。作品のイメージの全体をデザインすることができる反面、意外性や拡張性に欠けるし何より効率が良くない。
 車のデザインはメカニカルデザインでもあるので ボクのような一人で作画する者にとっては使いようによって強力なアシスタントになり得ると思っている。これからの作品にはメカっぽいモノや建築物の必要の生じる可能性が大いにあるだろう。
 3Dソフトでは、いずれ人体モデルの制作もしたいと考えているので曲線や曲面の習得は必須なのである。



 腕立て伏せ:105回

2016年3月1日火曜日

未知

 珍しく早めに目覚めると雪が降っていた。
 朝はそれほど寒いと感じなかったのだが、 しばらくするとヒシヒシと寒さが感じられるようになった。

 気温が下がると動きが鈍くなる昆虫の気持ちがわかる気がする。たまに早めに起きてしまうと日中は眠気が取れないパターンに陥るが今日もそうだった。
「調子は悪くない。調子は悪くない。」
 自分に言い聞かせるように過ごす。
 ここ数日のテーマであるマメな気持ちの切換を心がけ、デザイン、3Dソフト、鉛筆とペンによる作画を次々にスイッチして過ごすが、眠気は取れない。昨日少し歩いただけなのだが、疲れが残っているのだろうか。そういう意味では都会の人の方が健康的だろう。
 三寒四温は本来この時期に使用する言葉ではないと聞いたことがある。そもそも日本の言葉ではなく正月頃の小春日和のような陽気のことだったかと。しかし、日本では初春の時期がちょうどイメージにぴったりなのだろう。
 それにしてもホンの数日前に小春日和のような気候だったのに積もるほどの雪が降るとはやはり侮れない。
 もっとも過去の写真を見るとしっかり雪景色の年もあるから毎年こんな感じなのだろう。「例年になく」とか「異常気象」という言葉を使いたいだけではないかと思える節がある。

撮影:2012/03/01

「ダメだダメだ。今日はダメだ。」
 夕方になってもスキャニングできるものがないと思ったが、下絵のままスキャニングしていなかったカットなどを集めてみたら9枚ほどになった。記録の意味もあって全部スキャニングしておくことにした。
 何点かデジタル彩色してみるとそのまま使う方がいいような気がするものもある。

 夜になってまた3Dソフトをグリグリ。車がなかなか思うようなデザインにできない。
 いっそのことフリーなモデルを探した方が早いかもしれないが、それではやっぱり意味がないと思い直す。楽な道を行けば、楽であることに慣れてしまう。面倒でも大変でも自分で取り組むからこそ力になることがあるはずだ。

 そういえば…と風呂の準備をしながら思う。
 仕事が忙しくなって通っていた絵画教室に行けなくなったのは、もう20年も前だろうか。
 黙って休むのもどうかと思い前もって絵画教室の先生に申し出た。
 すると残念そうにかけてもらった先生の言葉が嬉しくもあり寂しくもあった。
「もう少しでいいとこ行けるからなんとか通えないかなぁ」
 当時は残業・徹夜・休日出勤が続いていた。肉体労働ではないからなんとかなると思っていたし、MacでのDTPの仕事は好きだった。疲れとか過労に対して無頓着だったかもしれない。そうこうするうちに体のあちこちが悲鳴を上げ始めた。
 会社が傾いていなければ、今頃どうなっていただろう。
 紆余曲折はあったが、結局あれきり絵画教室には通えなかった。

 未知の道。
 もう少しで行けたはずの「いいとこ」は、まだ先なのだろうか。



 腕立て伏せ:101回

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...