2016年9月30日金曜日

希求

 晴れ。冷んやり涼しい朝。
 挑戦というにはいささか大げさだが、新しい試みには良い気候。

 小さなスケッチブックを持って自転車を出すことにした。
 気温は低めであっても寒いほどではないので自転車を走らせるのは快適だ。陽射しも強くない。あちこちで稲刈りが始まっていた。
 片道約20km。自転車で移動する目的地のうちでは遠距離の部類に入る。地方の道は道を選べば交通量も少ないのでコンビニやスーパーや公園のトイレなど休憩スポットの地図があれば便利だろうなと思う。普段から自転車で移動することが多ければ、自分で作ってもいいだろう。

 収穫期の田園風景は金色の絨毯のようである。所によっては収穫がまだ少し先の田んぼもあるようだ。夏が過ぎて少し秋雨の時期があったので雨が降っていない時期に収穫してしまいたいという人情もあるだろう。台風でなぎ倒された様子もないので今年の米も美味しくなっているのではないだろうか。


撮影:2010/10/01

 金色の田園風景は正に季節限定と言えるだろう。自転車で走っていると何度もカメラのシャッターを切りたい衝動に駆られる。移りゆく季節。移りゆく時代。少しずつではあるが田舎の風景も変わっている。遠くまで見通せた田園風景の中に自動車専用道路が造られている。出来てしまえば利用することもあるだろう。そしていつしか失われてしまった風景のことを忘れてしまうのだ。そんなことを思いながら適当なところで自転車を止めて写真を撮る。季節限定の美しさは時代限定でもあるのだ。
 閉店したスーパーの解体工事が始まっていた。そしてすぐ前には新しいドラッグストアがオープンを待っている。

 写真を撮りながらこれまで何度も通った道をいつもより時間をかけて目的地へたどり着く。そこもまた変化の中にある。子供の頃の風景はもうなくなってゆく。そして変化した風景がまた変化するのだ。おびただしい数の蚊にたかられたが、大して刺されもしなかった。何匹ものアマガエルがいたのできっと彼らの食料になることだろう。
 一時間足らずで軽く草刈りと毎年出てくる竹の伐採をして帰路につくことにした。

 以前はツリーハウスだったり小屋だったりを建てる夢があった。コツコツやっていたら今頃できていたかもしれない。けれど、それができなかったのは何もかもが中途半端だったからだ。いっその事自分の気に入った土地を購入した方が自由になるのではないだろうか。ただ状況を見回っているだけで管理しているとも言えない状況。打開するための方法は、ただひたすら描くこと。

 手つかずになっているいくつもの問題の答えは描くことの先にしかないのだ。無謀な試みに家族も先祖も賛成しようはずもない。それでもわずかに残された子供の頃の記憶を握りしめて描くしか方法がないのだ。

 結果的に今日のところはスケッチブックは出る幕なし。目的がなくゆとりを持っている状態でないと時間を確保するのが難しいのかもしれない。道端に自転車を止めてササっと写真を撮った方が早い気がしてしまう。スケッチしながら風景を描き留めることも大切なことではないだろうか。



プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):30回
背筋運動:10回
腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:120回

2016年9月29日木曜日

曖昧

 雨模様。

 曖昧さとは正確さがあってこそ活きるものではないだろうかと考える。そして性格さは曖昧さがあってこそ活きる。

 例えば写真撮影の場合、ボケ味というものがとても重要だ。
 風景写真の場合は隅々までシャープにピントが合っていることが重要なことが多いが、人物撮影や接写など主題にピントを合わせ背景をボカしたたり時には手前にあるものをボカして意図を鮮明にすることを目的とする場合もある。

 写真ではボケ味を利用する際に被写界深度を利用する。
 被写界深度をどこまで取れ入れられるかはレンズの開放値と密接に関係しているのでレンズを選ぶ際には開放値(f値)が重要になる。f値は数値が小さい方が明るいレンズであるためズームレンズよりはレンズ構成が少ない単眼レンズの方が有利であるが、得てしてf値の小さい単眼レンズは高価であったりする。


撮影:2010/09/30

 作画におけるボケ味とはどんな場面が考えられるだろう。
 近年、スーパーリアリズムの表現を追求した作品を見かける機会が多くなった気がする。人物の顔や目のクローズアップなど克明に描写されている。他にも動物を描いた作品もあるだろうか。写真通りに模写しては描くことの意義が見出せなくなるだろう。主題をきっちり描き込んだら背景はざっくり描いたりぼんやりボカしたりすることで写真の被写界深度のボカし効果を取り入れることが可能だろう。もちろんこうでなくてはならないということではない。それは表現スタイルのひとつであり他の考え方もあるだろう。少なくてもモネの遠近表現には驚嘆した。作家それぞれが独自表現の中で模索すべきものなのだ。

 漫画ではデジタル表現の発展もあり克明な描写の背景を取り入れることが可能になった。場合によっては、背景を専門の外注先へ依頼する場合もあるようだ。それで物語のテーマが揺るがないのならそれも良いだろう。
 一方で背景がほとんど描いてない作品も見かける。要点のコマの背景をきっちり描き込めば、後は読者の想像力が世界観を補うことになる。これが意外と重要かもしれない。要点のコマにピントを合わせ他をボカすことで正確さと曖昧さが主題を引き立てるということだろう。
 ボカしとは少し意味が違うが、漫画ではブレによって動きを表現することがある。絵画においては動きをブレで表現している局面は少ないのではないだろうか。漫画は写真の表現を取り入れているのかもしれない。これもまた静止しているものと動いているものの正確さと曖昧さを表現しているのだ。

 漫画では流れの中で正確さと曖昧さを効果的に配置する必要があるということになる。ゆえに一枚のカットをパーフェクトに描き込むことより全体のバランスを見ながら完成させる必要があるということになるのかも知れない



プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):30回
背筋運動:10回
腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:116回

2016年9月28日水曜日

心酔

 雨。
 珍しく朝からアイディアが降りてきた。

 考えてみると腕立て伏せのノルマを意識するあまり肝心な朝のアイディアが降りてくるタイミングを逃してしまっていたかもしれない。そう思って忘れないうちにプロットしておこうと1セットだけやってMacに向かう。朝食をとってからまた手探り。
 今回のアイディアはまた新しい切り口。そうは言っても全体のことを考えれば、一部に過ぎないのかもしれない。大切なのは今やっていることが全体をイメージすることにつながっているということ。全体というのは作品のことではなく「漫画を描く」という行為そのものであり、おそらくそれすらも「描く」ことの一部分なのだろう。

 Macでの制作はほどほどにして手描きの制作をしようと机に向かって腕立て伏せをすっかり忘れてしまっていることに気がついた。慌ててノルマをこなしたが、1セット目から時間が経ちすぎていると2セット目が辛い。


撮影:2011/09/29


 体調が芳しくないのはいつものことなのでさておいて作画のほうの調子は悪くない。涼しくなってから腕立て伏せの方もまずまずなのでやはり気候の影響が大きいのだろう。

 それにしても…作画の調子が悪くないのに最近自分の絵が好きではない気がしてしまう。毎日多くの魅力ある作品を見る機会があるためかもしれない。もっと自分の絵を好きになりたい。自分が楽しめていないからだろうか。日々上達のために作画に取り組むため嫌という程自分の絵を見ることになる。慣れなくてはいけないし矯正する必要もある。そんなことの繰り返しの中でただ好きなだけでは続けられないことにも気づいている。それでも続ける。続けるしかない。それが意志でもあったし諦観に似た感覚もある。

 問題は簡単であって難しくもある。
 要するにボク自身が心酔するほど惚れ込む作品を描けば良いのだ。

 短くなった鉛筆を並べて写真を撮ってみた。
 時は流れ、鉛筆が短くなった分だけ力はついているはずだと信じたい。





プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):30回
背筋運動:10回
腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:110回

2016年9月27日火曜日

性格

 曇り。いつもより少しばかり早く起床。今日も蒸し暑い。雨は降っていなかった。

 作品には価値観や人生観が投影されると常々考えていた。それは絵画やイラストのみならず漫画においてもそうだろう。
 朝、昨日描いていたカットを見て思った。
「なんとつまらないカットなんだろう。」
 ただ、正確に描こうとしているだけなのにクセが出てしまっている。昨日はそれほど悪いとは思っていなかったので、一夜明けて冷静になったということだろう。
 正確であろうとして何か肝心なことを忘れている気がする。
 わざわざ個性的であろうとしなくても嫌になるほどの個性が主張している。
 個性を消そうとすることで個性は際立つものなのだろうか。


撮影:2009/09/28

 反省を踏まえて作画に取り掛かる。
 正確さよりも雰囲気やイメージを大切にする。
 いつもはGペンで描くことが多いが、髪に筆のタッチを活かせるだろうかと考えたはずみで全体的に筆描きになってしまった。
 相変わらずコピー用紙に描いているので彩色はデジタルで。改めて見るとデッサンはやっぱり狂っている。ラフな感じにしようという目的は達成しているのではないだろうか。



 それからまた別のカット。
 鉛筆→筆→Gペン→デジタル彩色の流れである。先に雰囲気を優先したカットを描いたので今度はまたデッサンに狂いがないように配慮して描く。ただ、雰囲気も忘れないようにしたい。描いてからスキャニングしてイラレに配置し、彩色してセリフを入れてみる。それから何気なく過去作品に目を移してみると…そこにはキャラクターも背景もセリフも違いながら構図が全く同じ作品に気づいてしまった。

 正確と言っても構図が同じなのはつまらない。
 変化や躍動感、もしかしたら曖昧さまでもが魅力なのかもしれない。
 臨機応変で柔軟に対応できるよう少しばかり性格改造が必要だろうか。


プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):30回
背筋運動:10回
腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:110回

2016年9月26日月曜日

再起

 曇り。昨日よりは少し低めの気温ながら蒸し暑い日。
 昨夜はなかなか寝つけず、気がついたら朝になっていたせいか一日中眠気につきまとわれた。

 この暑さはまた台風の影響ではないだろうか。
 先日、北海道に上陸した台風の影響が農産物の価格に出ているようだ。今の所、ジャガイモとタマネギはいつもと同様の価格で手に入るが、ニンジンが高くなっている。カレーを作ろうとした時にニンジンがないというのは寂しすぎる。

 そして今日は週に一度のカレーの日である。

 昨日、ニンジン以外の食材は準備してあったもののニンジンは高かったので一日見送ってみた。スーパーへ出かけてみると今日になっても安くなっていないばかりか3本セットになっている。高値の時にわざわざ3本ラットで買うこともないだろう。そこで違う店に行ってみるといつもの倍以上の値段が付いているものの一応バラで販売それていた。考えてみるとそれでもペットボトルの清涼飲料水より安いわけであり喫茶店のコーヒーの1/3程度の価格なわけだ。ところが、いつもより高いということは心理的な飢餓感を刺激されるのだろう。サイズ的にはいつもより小さいくらいのニンジンなのに来店客が次々に手に取っていく。
 ジャガイモが高値の時にはカボチャやサツマイモで代用することもある。ニンジンは代用品を思いつかない。ニンジンは貴重な存在なのだということに改めて気づかされる。辛うじて一本手に入れて帰宅した。



撮影:2009/09/27

 描きたい欲求は高まっているのに蒸し暑さと眠気に捉われて思うように描き進められない。作画そのものの調子が悪くないだけにもどかしい。
 ここ何日か描き損じた紙の裏に作画しているのだが、裏紙だと思うと練習に終始してしまって作品として完成させるという目的に辿り着かない。考えてみると過去に縛られてしまっているのだろうか。
 新しい真っ白な紙に向かう時、新鮮な気持ちになっている気がする。何もない紙面に何を想い描くのか。裏紙に描いている時は、以前に描き損じた絵をリメイクするような心境になっている。リメイク作業も必要なことである。ただ、それに終始してしまうと前に進めなくなることも確かだろう。

 過去を振り返ることは必要。
 そして新しい明日を描くことも大切なのだ。


プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):30回
背筋運動:10回
腕立て伏せ
1回目:106回
2回目:117回

2016年9月25日日曜日

実態

 晴れ。予想外に気温が上がった。

 ブームが去ったかと思っていた仮想現実ゲームはまだ熱が冷めていないらしい。良いこともあるが、マナーが良くないとテレビ番組が報じている。これまでになかった社会現象なので折り合いをつけるのが難しいのかもしれない。

 IT革命と言われた時代からしばらく時が流れた。その影響は必ずしも目に見えるものばかりではなかった。むしろ目に見えない仮想空間での浸透が顕著だったと言えるだろう。それが一気に現実社会に溢れ出したかのようだ。
 当初、情報を検索するだけの機能に大した意味があるとは思えなかった。ところが、検索はあらゆる分野に進出した。そして検索から得られた情報を利用することが始まった。地図のサービスは公共サービスだという固定観念すら覆された。様々に情報やツールは無償で提供されたため浸透スピードも早かったのだろう。今やそれが当たり前になり公共機関の業務とてそうしたサービスを無視するわけにはいかない。後追いで利用することになっているのではないかと思う。

撮影:2009/09/26

 公共サービスとは一体何だったろう。再定義する必要が生じるのではないだろうか。世界を席巻する企業に対して税金を納めているわけでもない。それなのに日々便利なサービスが提供され社会や生活に根を下ろしている。もちろん今はまだ無関係という人も少なくないだろう。けれど、人工知能の発達も取り沙汰される昨今である。あと数十年もすれば無視できないレベルになるだろう。
 つまり仮想空間のゲームもまた想像のつかない可能性を秘めているのだ。

 これまでの経済発展は物欲とともにあったのかもしれない。
 家電、自家用車、家…。
 しかし、形のないものに対する欲求も常にあったはずなのだ。
 所有したい欲求は仮想空間とて同じこと。便利なもの、楽しいもの、感動できること…そういうことを感じられるのはむしろ現実世界より身近かもしれない。
  笑うこと、泣くこと、頑張ること、逃げること、幸せ、愛…物欲はそういう欲求を実感するための間接的な器のようなものであって実態ではない。
 そう考えると仮想世界で満たされる実体のない事象の方がより欲求の実態に近いものなのかもしれない。

 欲しいものは何だ。
 その欲求の実態は何だ。



プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):30回
背筋運動:10回
腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:110回

2016年9月24日土曜日

多芸

 晴れのち曇り。

 昨日少し無理してしまったせいか疲れも残っているようだ。それでもキノコや栗の処理をしたおかなくてはならない。

 キノコは塩水に浸けてあったので水を捨てようとすると白いキノコなのに水が赤っぽくなっている。胞子だろうか?毒が抜けたわけでもないと思うが、塩水に浸けておいた効果のようにも見える。

 栗は茹でてあったので皮剥き開始。まだ温かいうちに剥いておけば楽なのに面倒臭さが勝ってしまった。
 春の山菜を採っても秋のキノコ類を採ってもその後の手間が結構大変なので必要なものだけ採取するようにして現場で枯葉や土などのゴミを落として取ったりする。それは後工程の労力を軽減するのだ。
 以前、スローライフという言葉が流行ったことがある。田舎へのロマンや憧れを掻き立てるのにちょうど良い言葉だった。けれど、実際には手間のかかることがとても多いのだと聞いている。その手間がかかることのホンの真似事程度を面倒がっているのだから田舎暮らしには向かないのだろうか。

撮影:2011/09/25


 結局、栗の皮剥きは一時間以上かかってしまった。毎年、手を怪我するのではないかとヒヤヒヤしながら皮剥きしているので今年も無事でとりあえずは安堵する。栗を固定させる左手と皮の部分だけクルリと切り込みを入れる右手が痛くなってしまった。
 そんな中ふと思ったのは、手先や手首の使い方の訓練になるのではないかということ。
 先日、ペン入れの際に自分でも思いがけない手の使い方を垣間見た。手先や手首を柔軟にコントロールを出来るようになれば作画の際に活かせるかもしれない。そう考えると料理だけでなく掃除洗濯にだって訓練の要素はあるかもしれない。音楽やスポーツのように感覚と身体能力を研ぎ澄ます必要のあるジャンルならさらに高い能力が鍛えられるかもしれない。

 肝心な作画はというと例によって机に向かったり休んだり。作画の調子そのものは悪くない気がする。ただ、長く椅子に座っていられない。

 昨日の疲れがあるのだから今日は割り切ってオフにすれば良かったと夕方になってから思った。


プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):30回
背筋運動:10回
腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:110回

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...