2016年4月23日土曜日

因果

 今日は満月だったようだ。朝は曇っていた天候もやがて晴れるという予報だった。
 気になる展覧会があったので出かけたいと思っていた。電車の時間を調べると昼過ぎの電車なら間に合いそうだ。その前に時間があるので作画を進めようと思ってMacを起動。データの調整をしているうちに刻々と時間は過ぎていく。
撮影:2013/04/24

 自転車で出るなら片道1時間半程度見ればいいだろうか。雨さえ降らなければ、電車を使うより早く帰宅できるかもしれない。そこで展覧会の情報をチェックしてみると入場料が1,000円だった。600円程度を予想していたのでいきなり気持ちが萎える。それだけ人気の展覧会ということなんだろう。仮に電車で出かけるなら往復の電車賃と合わせて1,500円程度かかることになる。自転車で出かければ飲み物等を調達するために300円程度を使うことが考えられる。普段出かけない展覧会なのでそれだけ興味も強い。しかし、ネットで紹介された作品を見ているうちに衝動が落ち着いてきた。何より出費と時間が痛い…自転車にしても電車にしても出かければ今日一日はそれだけで目一杯になってしまう。しばらく考えて中止することにした。
 亡くなった知人の絵描きさんがよく言っていた。
「お金を払って、本物を目で見てこそわかることがある。」
 ボクは同意していたし、今でもその通りだと思う。ただ、現実の問題には代え難い。
 欲しいものや行きたい所を我慢するのはもう慣れてしまっている。「今は我慢。今は仕方ない。」と過ごしてきた。
「人生の幸せの総量は一定」という話を聞いたことがある。
 そもそも幸せとは本人が実感する幸せのことを言っているのだろうか。大金持ちであっても幸福感を感じられない人はいると聞くし必要最低限の生活だって幸福感が感じられないとは限らないだろう。もし、幸せな時なのに幸せを感じられていないとしたらその方がもったいないだろう。だから今できることに取り組めば多くを求める必要はないのではないかと思う。

 作画は描いてあった下絵にペン入れをしたり思いついたアイディアを描いたりしてして何枚か描いた。視力の調子には波があるようだ。それからスキャニングしてイラレで配置。するとカット数が多すぎて入りきらないという事態に陥ってしまった。彩色していない状態で配置してあったのでここからイメージを固めるために取捨選択をする必要があるのだ。あれやこれや迷っているうちに全部やり直したい気分になってしまった。
 冬の間、食後は椅子に座ったまま仮眠したりしていた。こたつがないのでこたつに入って休むことはできないし寒いので畳の上にごろ寝することもできなかった。久しぶりに畳に横になって仮眠すると入眠が早く復帰も早くすっきり感もある。お陰で作業も捗るようだ。

 ふと気がつくと、鉢植えのシクラメンが満開のまま萎れていた。何年も前にいただいたもので毎年花を咲かせてくれる。カーテンの外に置いていたのですっかり忘れていたのだ。慌てて水をあげたが、復活してくれるだろうか。
 人生は不思議だなと思うことがある。
 何の関係もないものが、実は関係しているということがあるだろうか。
 以前は「全てに意味がある」と考えていた。それを否定してしまったつもりもないのにいつのまにかすっかり忘れていた。
 たとえば、ビリヤードの玉のように弾いた側の玉と弾かれた玉の間の関係性は理解しやすい。けれど、弾かれた玉同士の関係性は弾いた玉がなければ成立しない。現実の事象では弾いた玉の存在がわからないままだったりするのではないだろうか。
 科学的根拠を推し量れば不可能なほど遡らなければならない。
「そんなことは関係ない。偶然だ。」
 まずはその一言で優先順位をはるか彼方へ葬り去るのだ。
偶然の一致…そう思えることも実は遠い昔に定められた必然で避けようのないことなのかもしれない。

 今こうしていることは幸せなことなのだろうか。問題だらけの日々とはいえ、子供の頃から夢だった漫画を描いているのだから幸せでないわけはないだろう。
 今こうしていることは、果たしてどんな意味のあることなのだろうか。
 そして明日は…。



腕立て伏せ
1回目:100回
2回目:105回

0 件のコメント:

コメントを投稿

漂泊

 2021年は変化が大きく波に揉まれるような日々だった。2020年が予想外の幸運に恵まれていたのかもしれない。その波に乗れないまま呑まれてしまったようだ。良いこととそうでないことが同時進行し、気持ちの切り替えに苦慮した。元々器用な方ではないからこう言う時には複数の人格の必要性を感...