今日はともかく体調回復に努めよう…それしかできない。
近所で消防のサイレンが止まったようなので気になって外に出てみたら雨が降りしきる中、消火栓のあたりに消防らしき人たちが集まっている。大事でもなさそうなのでそのまま部屋に戻った。
《秋色絨毯》撮影:2003/10/30 |
特に何をするでもなくうたた寝しながら夢と現実の間を往来する。夢を見ていたと思ったら夢の感想や現実に関わるようなことを取りとめもなく誰かと話している気がする。よく知った親しい人である気がするのにそれが誰なのか現実に戻る時にわからなくなる。もう一人の自分なのかも知れないとも思う。対等に意見交換ができて今後の方針をそれとなく暗示する。そういう話し相手だけであってもありがたいと思ってしまう。
昨夜ふと考えた。一人暮らしも長くなったというのに寂しさというものを実感した覚えがない。慣れない部屋で初めて眠る時は非現実的な夢を見ることはあってもそれは寂しさとは無関係だ。
あるいは若い頃は寂しかっただろうか…子供の頃から一人でもできる趣味を選びがちだったせいもあるだろうか。それでも常に恋愛とか友情というものに憧れていたからもしかしたら寂しかったのかもしれない。ただ度重なる失恋や形骸化してゆく友情に別れを告げる中で喪失してしまったような気もする。丁度、仕事や趣味に忙しくなっていく頃だった。
一人じゃないからなのかもしれない…と考えてみる。現世での別れになってしまった人たちが何人もいるからその中の誰かがいつも一緒にいてくれているからだろうか。具体的に一人じゃないと実感することがあるわけではないにしても寂しさを直視せずに済んでいるのはそのためだろうか。
子供の頃から他力本願なところがある。お地蔵様に手を合わせたりするうちはまだ良いとして何でもない大きめの石にも何か宿っているのではないかと思い手を合わせることがあった。宗教的なものとはちょっと違う気がする。親しみとか敬意といった類いだろうか。少なくてもそこらに転がっている石ころでさえ石という存在年齢はかなり長いだろう。話ができるならどんな経緯でそこに転がっているのか聞いてみたいくらいだ。
目に見えるもの見えないもの触れるものや触れないもの。日々は何かに依存することで成立している。そして人生もまた依存なくしてありえないだろう。依存していることを自覚し感謝することくらいしかできないような気さえしている。
プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):60回
背筋運動:20回
腕立て伏せ
1回目:108回
2回目:115回
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