2016年2月9日火曜日

根底

 今日は買い物に出なくてはならない日だった。自転車を走らせていくらか運動不足を解消する日でもある。車道は自転車でも問題ない程度に雪が融けているので予定にはなかった書店にも立ち寄った。インターネットがあるわけだから書店に足を運ぶ理由も少なくなっている。併設のCDショップはゲームとカードのコーナーで保っているように見える。コーヒーショップには利用者がいるようだ。書籍とコーヒー。ネットでも物理的なモノではなく体験に対価を支払う動きがある。ゲームやカードもそうではないだろうか。そう考えるとコーヒーが飲める図書館のような空間での体験という流れも不自然ではないのかも知れない。ネットカフェのような閉鎖的空間利用ではなく飽くまでも書店やカフェのような開放的空間利用が前提だ。

撮影:2012/02/10

 隣の産直の店に真っ赤な紅玉が出ていた。紅玉の時期は過ぎているはずで春紅玉もそろそろ終わりではないかという時期なのに…昨年の紅玉の旬の時期にリンゴ酒を漬けられなかったので手を伸ばしてみる。小振りで色のいい紅玉だ。リンゴ酒を漬けるなら容器の準備やホワイトリカーが必要になる。出費が嵩んでしまうのでやはり断念。実は春紅玉がまだ2つ程残っている。

 目的の買い物を済ませ帰宅すると程々に疲れているのだが、焼そばを作ってタマゴとワカメのみそ汁で昼食にした。

 昨日スキャニングしたカットをイラレで配置してあったので彩色し背景を添えてみた。イラレで簡単に描いてボカシたためか全体的に重みが足りない感じがする。テーマが相変わらずで代わり映えしないが、最後のコマの台詞はいつかボク自身が言いたい言葉でもある。


 いつか終わる人生だとはわかっている。本当に苦しい時は生も死も価値の違いなどどうでもよくなってしまうものだ。今はまだ幕引きをしたくないと思うのは幸せだということなのだろうか。
 思えば、生まれた時は欲しいものなどなかっただろう。
 足りないものを知り、欲しいものを知った時、幸せが遠いものになる。欲を捨て望みを手放すことで幸せが身近なものになるのなら、幸せは生きることとは対極にあるということなのだろうか。あと何十年生きても答えは見つからないかも知れないが、折に触れて問いかけ続けて行くことになるんだろう。

 腕立て伏せ:103回

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