起き上がれないほどの腰痛に悩まされたことがある。今考えれば精神的な影響もあったのだと思う。仕事で腰に負担のかかる姿勢が多かったことも原因ではないだろうか。そして運動不足でもあった。若い頃は担ぐことだけでも大変な写真機材を役所の上の階まで階段を使って上がらなくてはならない場合もあった。
そこに様々な精神的負担が大きくなったせいだろう。ぎっくり腰とか極端なものではないものの朝は起床しても起き上がるまで数時間を要した時期があった。それから長い時間かかってなんとか回復したが、身体を使った仕事を敬遠するようになっていた。
撮影:2013/05/12
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そんなある時「頭を使った仕事すればいい。」とアドバイスをもらった。もっともな話だ。体力を要する仕事にこだわる必要はない。ただ現実にはそういう求人を探すのは容易ではなかった。頭を使った仕事に向いているかという点も疑問である。
そして時は流れ、知恵を使わなくてはならない局面である。
知恵を使うとはどういうことなのだろう。与えられた仕事や注文に対応する仕事をこなすことに慣れると発想の種は上司や発注者にあることが多い。主導権がないまま勝手なことをしようものなら予想外の事態に陥ったり仕事を失ったりしかねない。工夫しつつ従順にサポートに徹することが必要なのだ。
もちろん工夫も知恵のひとつだろう。一生懸命頑張るだけではない。効率や機能性などゴールまでスムーズに仕事を進めるために工夫という知恵は必要だ。
現在やってるいことは発想の種はあってもゴールがない。完成形を手探りしているのだから工夫するのが容易ではないのかもしれない。
今日も手描きによる作画の続行。
どうすれば納得できる絵になるのか試行錯誤が続く。工夫というにはあまりに稚拙だ。それでも主導権がある以上、逃げも隠れも出来ない。
数日前から描き込み過ぎないシンプルな線を手探りしている。一生懸命描けば次第に描き込んでしまう。手を抜けばデッサンが狂ってしまい絵にならない。今日は一見ラフスケッチのようなネームを何枚も描いた。そのうちに少しだけ加減がわかりかけた気がする。100%集中するのではない。感覚的には80%でもまだ多い。30%程度に加減することで気持ちにゆとりが生まれ視野が広がる。集中にこだわるあまり全体への意識が向けることが疎かになっていたようだ。思うに100%集中しようとしても実際には気が散っているのだ
パソコンのメモリ使用領域を確保することに似ているかもしれない。そのタスクでどれくらいのメモリが必要になるか分からないので予め割り当ててしまう方法だ。実際の使用メモリが小さくても確保してしまっているので他のタスクが利用することはできない。使用するメモリ領域を小さく見積もることができるなら空いている領域を他のタスクで利用することが可能になるわけだ。
力を出し切るとは、ただひたすら集中することではなくもちろん手を抜くことでもない。完成形を思い描きつつ全体のバランスに配慮して最善の方法を選択することなのかもしれない。スポーツ選手とて同じではないかと改めて思い至った。
日々同じことを繰り返していると少しの変化を持たせることすら容易ではない。疑問を感じていないから工夫することすら必要ないのだ。しかし、それが長期的に継続することで思考パターンが定型化していくだろう。臨機応変が億劫になり知らぬ間に融通の利かない頑固頭になっていく。
一言で知恵を使うといってもやり方は様々だろう。言うまでもなく100%分のメモリ領域を拡大するための努力を怠ってはならない。
腕立て伏せ
1回目:105回
2回目:110回
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