昨日スキャニングしたカットを元にデジタル作業からスタート。例によって正解のない作業なので試行錯誤となる。もう2年前から手がけている作品なのでもう答えを出さなくてはならないのはわかっていも「これで行こう」と納得できないのは何か物足りないからに相違ない。構成としては色運筆による手描きの背景とペンとインクによるカットを配置。イラレで彩色という流れ。
フォトショによる彩色ペンタブを使えない状態ではエアブラシのような表現になるだろう。ボカシを活かし細密に描き込むなら有効だとしても時間と手間がかかりすぎる。
彩色の作業をイラレにしたところで大して効率を上げることにはならない。フォトショと比較してエッジの扱いは比較的楽かも知れない。それからカラーパレットや混色も容易だ。
フォトショによる彩色ペンタブを使えない状態ではエアブラシのような表現になるだろう。ボカシを活かし細密に描き込むなら有効だとしても時間と手間がかかりすぎる。
彩色の作業をイラレにしたところで大して効率を上げることにはならない。フォトショと比較してエッジの扱いは比較的楽かも知れない。それからカラーパレットや混色も容易だ。
撮影:2016.05.15 |
今日は手描きも少し進めておきたいと思いつつ、デジタル彩色で時間がかかってしまった。1カットにこれほど時間をかけていたら漫画の作品なんていつまでたってもできるわけがない。
夕方になって買い物ついでに外出。部屋は結構暖かかったのに外に出てみたら思ったより空気が冷たかった。牛乳パックだの空き缶だのとリサイクルに出しつつスーパーに立ち寄ると箱入りの蕎麦が安く売っていたので購入。毎朝の朝食を食パンと決めていた頃は数日に一回は買いに行かなくてはならなかった。そのこだわりがなくなってしまった今はある意味で自由だと思う。買っても買わなくてもいい。賞味期限のある食品を購入するとそのペースに縛られることになる。
こう…どうでもいいような些細なことに気を取られて本流を見失う性格はなんとかならないだろうか。
気がつくと夕陽が沈もうとしていた。そういえば随分日が長くなっている。一旦買い物の荷物を自宅に置いて近所まで夕陽を撮影に行くことにした。
沈みかけた夕陽が青々と茂る麦の穂先を明るく染めていてハッとする。麦秋は6月だったろうか。すぐ近所だというのに気づかずにいた。写真を撮ろうとカメラを取り出したら電池が入っていなくて慌てて自宅に戻って出直す。その頃には夕陽が山の向こうに隠れていた。夕陽に染まる田んぼはまだ明るい。つがいと思われる鴨が田んぼの端で何やら漁っているようだ。人の気配に気づいて離れていく様子は夕陽の中を泳いでいるようだ。
彼らはどうやってパートナーを選び何を基準にその田んぼを選んだのだろう。彼らの方が生き方に長けているではないか。何が得意でコンディションがどうであろうと関係ないのだ。あるがままに生きてあるがままに生命を全うするのだろう。
シンプルで美しいと思えてしまう。
腕立て伏せ
1回目:103回
2回目:108回
0 件のコメント:
コメントを投稿