気持ちだけは上向きで新境地に到達したいという気分になっていた。それにはガンガン描いていい絵を描かなくてはならない。
昨日天ぷらで使った小麦粉が残っていたのでフライパンで焼いて食べようと思っていた。そのままでは芸がないのでそば粉を少しと擦った長芋、卵、砂糖、それからいつも焦げつかせるのでオリーブオイルを入れてみた。そしていつも分量を多めにしてしまう重曹を少々。
いつも焦げつかせるのはなぜか。てっきり砂糖のせいだと思っていた。
先日、塩や重曹でフライパンの焦げつきを緩和させる処理をしていたこともあって焦げつかない工夫について考えてみる。単純に火が強いのだろうか。そう考えて火力を弱めて時間をかける。一事が万事適当なのでそういう心配りに欠けている節がある。蓋をしてしばらく火を通し、頃を見計らって裏返すと…焦げていた。ただ、いつもよりは焦げが少ない気がする。
置きっ放しになっていた紅玉を切ってみたらいつの間にか水分が少なくなってドライフルーツを思わせる味になっていた。小麦粉を焼いた何だかわからないものとスカスカになった紅玉にブルーベリージャムをつけて食べると予想外に美味しい。考えてみると効率とか手早くとかいうことに慣れてしまってじっくり時間をかけることを忘れていたのかもしれない。
しばらく前から髪が伸びすぎてヒーローアニメの主人公のような髪型になっていたので気候も良くなって来たことだし切っておくことにした。
撮影:2011/04/25 |
初めて自分でカットするようになったのは20代の頃だったろうか。床屋に行っても特に注文があるわけでもなく、さりとて気に入ったようにしてもらえるわけでもないと思うようになった。基本的には手入れの手間がないようざっくばらんに短くカットしてもらえればいい。毎回「今日はどうしますか?」と尋ねられることすら煩わしいと思うようになっていた。今でこそ1,000円カットの店も珍しくないが、3,000円以上かけるなら自分でカットした方が良いのではないかと思うようになっていた。もっとも、床屋での世間話そのものは嫌いではなく、知り合いができることもあるので馴染みの店員さんが適当にやってくれるなら出かけてもいいと思うこともあった。たまたま近所の床屋さんが同じ年齢の方がやっていたのでしばらく通っていたのだが、そのお店も閉めてしまったのでここ数年は専ら自分でカットしている。
髪をカットする時は、切った髪が飛び散るので浴室に新聞を敷いている。伸びるだけ伸ばしてからカットしているので年に4回程度だろうか。着ているものにも髪が飛び散って後が厄介なので衣類も出来るだけ少なくする。終わったらそのままシャワーを浴びられるのが理想だ。当然ながら冬場はどうしても寒い。暖房を入れてやることでもないような気がするので寒くならないうちにカットすると良いことになる。実際は寒くなるまで伸ばしてしまい震えながらカットしていたりするのが関の山なのだが。
かくして今日も1時間ほどでカットした。後頭部がよく見えなくて以前はタテガミのように残ってしまっていたので今は後頭部を念入りにカットしている。全体的にカットしすぎた感じになるのがお決まりパターンだ。
髪をカットした後、何とか制作を進めたいと机に向かった。昨日の疲れが残っているのか慣れているはずの絵が上手く描けない。そんな風に上昇志向はいつもあえなく霧散してしまうのだ。しばらく格闘してみたが、やっぱり日曜日だからだろう。
買い物の必要があったので夕方になって外出すると思ったより気温が低いイメージで風が冷たく感じた。そろそろなくなりかけていた米が特売になっていたのでレジに持っていくと顔なじみの店員さんが「重いはずなのに何だか軽々と持つね。」と言って笑うので「そんなことないですよ。そんなフリしてるだけです〜。」と返す。実際の役に立つことはないと思っていた腕立て伏せの成果のような気がしてちょっと嬉しかった。
夕食には、昨日の山菜の残りをまた天ぷらにした。今日は意識的にじっくり時間をかけて揚げてみた。すると昨日歯ごたえを感じていたタラノメは柔らかくて美味しく感じた。
焦らないこと。慌てないこと。つい忘れてしまいがちだ。
そして努力とか積み重ねっていうのは、ふとした瞬間に活きるものなのかもしれない。
腕立て伏せ:105回
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