2016年7月9日土曜日

岡目

 昨夜は珍しく作画が調子良かった。普段、調子の良くないことの方が圧倒的に多いのでたまに梅雨の晴れ間に青空が広がるようなことがあるとそれはもう嬉しい。例によって錯覚なわけだからぬか喜びに過ぎないのだろうと頭の隅で思ってはいても勘違いも才能のうちだろう。
 ところが、こういう時に限って余計なことを考えていたりする。
 Macの動作が重いのがどうにも気のなるのでシステムを新規で再インストールしたいと数日前から考えていたのだ。平日はこなさなくてはならないことがあるため、Macが使用できなくなることは避けたい。週末に向けてシスタム再構築すれば来週の月曜日にもつれ込むことはないだろうからなんとかなるのではないかと考えたのだ。そして時間はかかるにしても、再インストールの待ち時間が長いわけなので制作と同時進行も可能に思えた。
 予定通り眠くなるまで鉛筆を走らせて床に着く頃にはまだインストールが続いていた。それでウトウトと眠りに入り始めたのにふと目が覚める。まだモニタが明るいようだから処理は続行中なのだろうと思いまたウトウト…そんなことをしていたら今度は目が覚めてしまった。様子を見てみるとちょうどインストールが終わったところで設定画面に遷移しようとしている。そこからは自動処理というわけにはいかない。
 平日の業務を滞りなく進めるために環境を整え始めたらすっかり朝になってしまった。
 そして結局ダウン。そこから5時間くらい寝てしまった。

 頑張った甲斐あって平日の業務に支障は出なかったものの折角調子が良かった作画の方はまた感覚を見失ってしまったのではないかと思う。
 その後もメールの再設定などで時間がかかり、夕方遅くに買い物に出た程度で一日を終えてしまった。
撮影:2011/07/09

 昨夜描いたカットを朝になって見てみるとやはり夜中のラブレターもみたいなもので陶酔していただけなのかもしれない。線が走っていると感じていたのにただ粗いだけだったり形が取れていると思えていたものもゆがんでいた。

 自分の欠点というものは自分で気がつきにくいものだ。
 優れている他の人は解るのに「なぜ優れているのか」ということはわからない。
 学歴とか資格とか生い立ちを聞いてひとまず納得したつもりになるが、それは結果的に「真似できない」から「自分が劣っているのは仕方ないこと」と安心したいからなのかもしれないと思ったりする。
 いわゆる創作物についても同様ではないだろうか。本来比較することそのものが意味のない行為であると思いながらも優れた作品の前でひれ伏す劣等感。気持ちを奮い立たせるにはどうすれば良いのか。
 強力な第三者の視点を持つ必要があるのではないかと思う。
 無論、本当の第三者であっては価値基準が違うため意見を尊重することで本来やりたかったことを見失ったり依存してしまったりしかねない。だから自身の中に第三者視点を持つことが必要なのだ。
 確か「岡目八目」というのではなかっただろうか。将棋から出たことがかと思っていたが、囲碁のようだ。意図するところは同じだろう。
 無意識といかに付き合うかということが、ここでも意味を持っている気がする。



腕立て伏せ
1回目:85回
2回目:105回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回



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