2017年9月10日日曜日

解釈

 晴れ。昨日の疲れが残っていた。スーパーで米がセールになっているはずなので出かける必要があるのにいつまでたっても動けない。夕方近くなってやっと出かけようと念のため別のスーパーのセール品を確認すると同じ値段で出ていた。セールの日を合わせてきたのだろうか。一方はペットボトルの回収をしているがもう一方はやってない。どうせ出かけるならペットボトルを出してしまおうといいう理由もあり目的を変更した。ところが出がけにペットボトルを持ち出すのを忘れてしまい米だけ買ってきてしまったので改めて別のスーパーへも出かけることにした。するとペットボトルの回収機に行列ができていた。こういう些細な巡り合わせで人生が織り上げられていく。

撮影:2009_09_11
いつの間にか「できない」と思っていることがある。確かに無謀な試みというものはあるし物理的に不可能な場合だってあるだろう。そればかりではなくそれまでの試行錯誤の中で経験的に失敗に終わったことや様々な知見から得られた判断もあるだろう。また体調がすぐれない場合は前向きに取り組むことが難しい場合もある。まずは体調を良好に維持することが必要だろう。

 直感的にできないと感じたことの中には「今すぐは無理」とか「頑張らなければ無理」とか「危険だから無理」と言った条件つきのものがあるのではないだろうか。そう言った条件つきの「できない」ことは条件が揃えば出来ることなのにできないと決めつけることによって時間を拘束されることや労力から気分的に解放される。そして他に出来ることがないか探し始めるのだ。

 誰にでも簡単に出来ることも無意味ではないかもしれない。そこに別の存在価値を見出すこともあるかも知れないからだ。規格化された製品を人の手によって大量生産する場合などは、誰にでも出来る作業になるまで単純化する必要がある。そういう仕事に就くのであれば誰に出来ることを華麗にこなすことが出来る方が重宝されるだろう。言うまでもなく出来るからと言って安泰ではない。誰にでも交替できるからだ。そこに優劣が生まれ長時間労働だったり交替勤務だったり人間関係などが関係して誰にでも出来ることが出来なくなると働くことが難しい場合もあるだろう。

 誰にでも出来ることではなく自分なりの出来ることを確立するために避けて通れないのがやはり困難な条件を満たすために取り組むことだろう。昔の日本であれば徒弟制度や師弟関係により伝統的な技術を継承することもできたかもしれない。現代日本では様々なサービスや技術を利用できるため工夫することで「不可能」を「可能」にすることができるかもしれない。

 直感的に「できない」と思えることもただ「面倒だからやりたくない」ことなのかも知れない。解釈次第で取り組むべきことが見えてくる。


プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):60回
背筋運動:20回
腕立て伏せ
1回目:101回
2回目:125回

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