生きるために見果てぬ夢を見た結果どこに辿り着くのだろう。何を手にして何を遺すのだろう。今日はそんなことを考えてしまった。
別に仕事をしつつ描くことを趣味として定年を迎えることはある意味で理想的な生き方だと思う。生活に不安は少ないだろうし温かい家庭に恵まれるかも知れない。社会的地位や信頼も得られるだろう。そして子供たちが成人して独り立ちするようになればいよいよ趣味に本腰を入れられるかも知れない。
それが出来れば良かったのだと思う。そうなれるよう努力もしてきたつもりだ。
言うまでもなく現実は思う通りに運ぶものではない。
努力すれば夢は叶うかもしれない。しかし、夢が叶わなかった人が努力しなかったわけではないだろう。努力して夢が叶った人にはわからないことかも知れない。
撮影:2008/09/17 |
残業や徹夜、今ならブラックと言われるような働き方にも進んで取り組んできた気がする。脳の表面が麻痺したようになって深く考える余裕がなくなっていた頃もある。これが一生続くなら身体が持たないかも知れないとぼんやり思っていた。そればかりではなく慣れない交代勤務の工場でロボットや薬品を扱ったこともある。年齢的なこともあったのか徐々に無理ができなくなった。そういう経験をしてきたからこそ理想論を聞かされると辛くなることもある。
そして思う。定年まで勤め上げてどれくらいの作品が描けるだろうと。幸いにして絵を描くということは人生経験を反映すると思われる節がある。だから定年から始めても遅くはないのだろうと思う。ただ、仮に60歳まで健康に生きると言うことは簡単なことではない。家庭があれば他にも様々な事情で思うように描けないかもしれない。描くことの意味は人によって違うので趣味だから一点でも二点でも構わないのであればそれでいいのかも知れない。
それで良くなかったら?描きたい想いが強くて抑えられなかったら?
定年まで勤め上げてから趣味を楽しむというのは飽くまでも理想論だ。理想通りにいかなくても人生なのだ。
描く事にずっと専念出来ていたら結果だって違うだろう。中途半端にブランクがあるがために取り戻すのが大変な感覚というものがある。
人生を終える時、遺される作品は何を意味するだろう。金銭的な価値がないからとあっさり処分されてしまわないだろうか。あるいはそれでいいのかも知れないとも思う。生きている間、描いた本人の想いが満たされたら作品の役割として充分なのかも知れない。
何も持たずに裸で生まれてきたのだから何も遺さずに去るのが本来の姿なのかも知れない。
プランク:60カウント
腹筋運動(Vシット):60回
背筋運動:20回
腕立て伏せ
1回目:112回
2回目:120回
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