2016年3月16日水曜日

対価

 朝からひたすら3Dソフトと格闘。
 そろそろ仕上げに移りたいのだが、1箇所出来たと思うと次に気になるところが出てくる。工場に照明を配置して車の作画に移る。そもそも3Dソフトで作画を始めたのは広角レンズのような効果がか欲しかったからなのだが、今がかかるにもほどがある。ここまでやって投げ出すのも癪に障る。それでズルズルと深みにはまることになる。


撮影:2011/03/16

 そのまま夜まで3Dソフトで作画していると、テレビでベーシックインカムの話題が出ていた。初めてベーシックインカムの話を聞いたのは何年前だったろう。たしかリーマンショックの後ではなかったかと思う。当時は派遣切りや就職難などが重なり救済措置としてのベーシックインカムという意味合いが強かったような思うが、どちらかというと非現実的な提案という見方が強かったのではないだろうか。そして実現することもなかった。現在では人工知能の発達により仕事が無くなって行くことを想定した上でのベーシックインカムである。どちらにしても職場が失われることによって賃金が得られなくなる状況に対応しようというものだ。現実問題としてそんなに簡単にシフトすることは難しいだろう。理論上可能な自動化であっても実際には日々のメンテナンスやトラブル対応に人手は必要だからだ。ただ、現代は少子化も進行しているから積極的な効率化や人工知能の導入が求められる可能性もあるだろう。既にプログラムによる自動化が進んでいる業種もあるらしい。
 問題は、仕事や職種の消失は目に見えないところで進行し、仕事が見つからないのは個人の問題と捉えられがちなので本人すら社会現状に発展していることが気がつきにくいことである。その痛みや焦燥感は本人にしかわからない類のものではないだろうか。

 資本主義は社会のニーズに対応した労働に対価が支払われる仕組みと言えるだろう。一見合理的だが、社会のニーズには流行もあり時が経てば問題になることもある。そんな流動的な仕事に対して個人の人生の大半の時間をつぎ込むことが当然という社会でありそんな経済活動の上に国が成立している。
 考えてみれば、労働とは何であるかということは個々の判断に任されている。「金銭という対価を得ているならプロだ」などというある意味荒っぽい論法もやがて通用しなくなるかもしれない。そもそも金銭という対価を得ていなくても素晴らしい技術を駆使する仕事だってあるだろうし、尊い仕事だってあるはずだ。

…と、「自分が納得できるまで」という基準しかないことに取り組みつつ労働と対価について考えるのだった。

 いつか労働が今とは違った見方で評価され、一人でも多くの人がやり甲斐や働く喜びを見出せる時代になることが望ましい。残念なのは、そんな時代になる頃にボクはもうこの世にいないかも知れないということだ。


◇腕立て伏せ
 1回目:80回
 2回目:110回

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