即や描いて上手く行かないと思っていたカットを朝見たら悪くないような気がする。
ただし、作品のイメージとはそぐわない気がするので一考の必要あり。
意識と無意識について考えていた。
自分の中に内在する無意識は意思や意図を持ってアプローチできないからこそ無意識である。一人の人間が意識的な行動するために必要な基礎となっている。その無意識に働きかけ必要な情報や能力を引き出すことは可能なのだろうか。
知る限りでは心理的なコントロールや潜在意識の操作となると途端にオカルト臭がし始める。故に古今東西無意識へのアプローチは、言わば禁じ手やタブーのような扱いになっていて軽はずみに関わらない方が良いと考えられているのではないだろうか。
しかし、誰もが意識的な行動の基礎に無意識を不可欠としているとすれば、なんとも不思議なことのような気がする。
個人的には、無意識との対話によって身体と心の状態を調律できないかと考えた。そして可能なら漫画などの作品を制作する際に必要に応じて発想や展開、吸収と解放をできるようになれたらと思うのだ。
撮影:2010/06/26 |
幸も不幸も手の触れられない無意識に因るとすれば、まるで内在する神のようではないか。いつか対話は実現できるだろうか。
考えてみれば、美しいとか醜い、美味いとかまずい、愉快とか不愉快といった感想は無意識から提供されたもののように思えてくる。
「わからない」というのは、無意識が判断できない状態ではないだろうか。
すると無意識は世界を知覚し判断する役割を担っているわけだから内在しているのはむしろ意識の方である。
意識は無意識を通して世界を知覚しているのだろうか。
そんなことを考えつつ机に向かったせいか作画の感覚が少し違う気がした。無意識とはそもそも意識と切り離されて独立しているわけではないだろう。必要なのは意識と無意識の協働作業なのだ。
夕方になって自転車を走らせながら考えた。自転車を走らせる時だっていちいちバランスを気にしたりペダルを踏むリズムだったりを考えているわけではない。目に映るもの。感じる風。匂い。様々な情報を無意識的に処理しつつ走っている。
視覚的なことだけ捉えても、色や形の認識は太陽光線などの電磁波の特定の波長を認識しているにすぎない。正しく捉えているつもりでも既に仮想空間に生きているようなものだ。それに加えて嗅覚や触覚など五感から得た情報を無意識下で処理し必要な情報をフィルタリングして意識出来るようにしているのだろう。そうしなければ情報が膨大になって活動できなくなる可能性もある。
問題は必要な時に無意識下に沈んだままになってしまう機能である。
「描こう」と思ったり「腕立て伏せしよう」と思った時にすぐに使える状態にならないと時間ばかりがかかってしまう。出来るはずのことが出来ないとスランプと思い込んで迷路に迷い込むことになる。
出来るはずのことができなくなるのは何故なのか。
無意識にアプローチする必要がそこにあるのだ。
腕立て伏せ
1回目:80回
2回目:101回
3回目:75回
腹筋運動(Vシット):25回
背筋運動:10回
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